★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

組織と娯楽

2024-05-31 14:27:01 | 文学


 ある辺鄙な県庁所在地へ、極めて都会的な精神的若さを持つた県知事が赴任してきた。万事が派手であつたので、町の人々を吃驚させたが、間もなく夏休みが来て、東京の学校へ置き残した美くしい一人娘が此の町へ来ると、人々は初めて県知事の偉さを納得した。

――坂口安吾「傲慢な眼」


「人々」はともかく、組織内部ではそんな「納得」などほとんどなされない。トップの判断が規定路線みたいになっている場合、たいがい逆に慎重に事は進められ、反論を無視する過程を通して、規定路線であることを表面上なかば否定しつつ規定路線に突き進む。こういうことは小学校の学級会でもある訳であってみな面倒くさいから文句を言わなくなるだけだ。それでもあまり不満のマグマをためないように思想やイメージが組織内でも動員されるわけであるが、あやつはホントは(というか言うまでもなく)頭が悪いぞみたいなイメージが組織のそこここに滞留することだけはさけようとするものだ。組織が壊れているときには、そういう回避策がたいがい壊れており、表に出していはいけないイメージだけが流出してしまう。

エンターテインメントは娯楽なんだから、あらゆる批判からそもそもそれが逃れられると思ってしまった若者やおじさんやおばさんたちは案外多い。広告というものもそうで、あんなものを表で目立たせるのはサスガにマズイだろと思っても、広告的なものにまともに反応するのは野暮だとみんな分かっているだろうと高をくくっている。田舎だからもっているだけだ。

娯楽が娯楽として創作意図が誰かによって一貫するなんてことはなかなかないわけだが、しかしできあがったものはあるわけだ。