★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

当世運動気質

2024-05-08 23:52:31 | 文学


「わしの願いは、中村じゅうで一番の不倖せ者じゃった母を、日本一の幸福者にさせてお上げ申したいことだ……」
 と、云いかけて、後は、寧子の顔を見て笑った。そして、何を云うかと思えば、
「そして共々、この女房をもな――」
 と、彼女の美しい鼻を、指でついた。


――吉川英治「日本名婦伝 太閤夫人」


ときどき読んでみると、吉川英治の文章ってほんと気色悪いな

だいたい右傾化とかだったらまだましなんだが、若い頃、少し年上からいろんなかたちで孤立する正義を強制されて逆恨みをしている連中がすごくたくさんいるのだ。まだ理屈があるんだったらいいんだが、逆恨みだから頑固である。やはり我が国では「反動」のほうが事態を説明している。我々は運動する物体である。

確かにそこには、我われの水で出来ている部分が相互浸透したり、染み出したりといった作用があり一概にわれわれの運動が振り子のようだとは言えないが、だからといって「反動」が存在していないというわけではない。こんなのは構造によって難しく考えると運動そのものにとらわれて混乱の元であって、むしろ単純な運動は、小説の心理描写みたいなもので暴き出されるものである。すなわち、思春期の悩みでも老年の絶望でもなんでもいいんだけど、それは(社会の)構造の問題なんですと言って諭すことの限界というかむしろ逆効果についてそろそろ自覚すべきであって、その構造とやらを変えようとして的外れな暴力の原因にもなってるわけである。それはデモのことではない。デモはどちらかといえば反射である。昨今の暴力は改革という形をとっている。

われわれはこんな反射と反動と暴力をすり抜け、唯生きることへの尊重を回復しなければならない一方で、唯生きていても仕方がないと思わなければ、事態を打開することは出来ない。唯生きよ、且つ唯生きていても意味はない。それは完全に両立可能である。そんな両立が成立してようやく我々は人間である。