月夜の繰り返し 2010-11-21 21:01:36 | 思想 人生幸朗・生恵幸子の動画を見てから、武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を聴く。以前は、もっといろいろなものを脈絡なく勉強していたのだが、最近はなにか読んだり聴いたりするとくだらないことが頭に浮かんで時間が経っている。 とにかく物事の繰り返しはよくない。人生幸朗も武満もより面白く聴けるようにはなったが、これも反復には変わりがない。死とは、傷にひっかかって同じフレーズを繰り返すレコードのようなものではないだろうか。本人はまだ生きているつもりなのかもしれないのである。
おはやうございます6 2010-11-21 14:15:48 | 日記 ニッポンの夜明けではない 屋根にくっつく源氏蛍 ドアに生えた新種茸 And He (Jesus) asked him (the man), "What is thy name?" And he answered, saying, "My name is Legion: for we are many. ひとりぼっちでいるーとーーちょっぴり さあみぃしいいーーーーーそんな とおーーき こういうのーーー鏡をみぃつうーめてぇーーーー(名木田惠子) And He (Jesus) asked him (the man), "What is thy name?" And he answered, saying, "My name is Legion: for we are many. ひとりぼっちでいるーとーーちょっぴり さあみぃしいいーーーーーそんな とおーーき こういうのーーー鏡をみぃつうーめてぇーーーー 北京ではない
しりあがり寿はおとなである 2010-11-21 03:10:22 | 漫画など ↑ 真夜中に「真夜中の弥次さん喜多さん」を読み、しりあがり寿の絵の美しさで柿の木のようになりにけり。 昼間、2000年頃出た東大の『表象――構造と出来事』を読んでいたのであるが、表象文化論というのが、論材の幅広さを獲得しようとして逆に観念的になっていっているのを改めて感じた次第である。子どもがおもちゃで遊ぶとき、確かに楽しさはあるだろうし様々な表象も彼の頭には浮かんでいるであろう。ただ、それは、創作者が自分の能力とキャラクターと物語の枠の限界のなかでものをつくりだすことの広さとは全く異質である。創作者は子どもの快楽のために犠牲になるものである──すなわち、おとなである。研究者や批評家は、そのどちらでもない、私の見たところ、上記のような子どもタイプを除くと、老人タイプか、思春期タイプが多いようだ。 漱石は老人タイプの学者だったが、若返っておとなになりたかったのかもしれない。彼が彼自身にとってはどうでもよさそうな若者を主人公にすえたりしたのは、彼の若返り願望の表れだったのであろうか。むろん、これは、上記の子ども問題に比べればどうでもよい問題である。