★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

今はとて

2010-11-30 03:02:57 | 文学


「衣着つる人は心ことになるなり。物一言いひおくべき事あり。」といひて文かく。天人「おそし。」と心もとながり給ふ。かぐや姫「物知らぬことなの給ひそ。」とて、いみじく靜かにおほやけに御み文奉り給ふ。あわてぬさまなり。「かく數多の人をたまひて留めさせ給へど、許さぬ迎まうできて、とり率て罷りぬれば、口をしく悲しきこと、宮仕つかう奉らずなりぬるも、かくわづらはしき身にて侍れば、心得ずおぼしめしつらめども、心強く承らずなりにしこと、なめげなるものに思し召し止められぬるなん、心にとまり侍りぬる。」とて、

今はとて天のはごろもきるをりぞ君をあはれとおもひいでぬる

とて、壺の藥そへて、頭中將を呼び寄せて奉らす。中將に天人とりて傳ふ。中將とりつれば、ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁をいとほし悲しと思しつる事も失せぬ。


……一触即発の雰囲気が素晴らしい場面で、このかぐや姫という人物、いざとなると力を発揮するタイプであり、いまの政治家とは大きな違いだ。天人たちが「おそし」といらだつなかで「今はとて」と詠みあげる頭の回転はすばらしいな。わたしなど、論文の締め切りが近くなるとだいたい病に伏せるくらいであるから情けない。昨日はひとつ論文を書き上げてそのまま心ことになりにけり。確かにわたしも屡々「物知らぬことなの給ひそ」といいたくなるが、そこは我慢して勉強した方がよいであろう。この二年間ぐらい、芥川龍之介については授業でいろいろ考えたはずだったが、面白い認識にはなかなかたどりついていない。なんとなく芥川の文章には、こちらが何かをつかむことそのものを邪魔する働きがある。それは、彼の文章が、「文芸的な余りに文芸的な」ものであるからであろうか。あるいは、つねに何かを「超えんとするもの」であり、こちらを超えてしまうからなのか、そこがどうも難しい。