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真夜中に「真夜中の弥次さん喜多さん」を読み、しりあがり寿の絵の美しさで柿の木のようになりにけり。
昼間、2000年頃出た東大の『表象――構造と出来事』を読んでいたのであるが、表象文化論というのが、論材の幅広さを獲得しようとして逆に観念的になっていっているのを改めて感じた次第である。子どもがおもちゃで遊ぶとき、確かに楽しさはあるだろうし様々な表象も彼の頭には浮かんでいるであろう。ただ、それは、創作者が自分の能力とキャラクターと物語の枠の限界のなかでものをつくりだすことの広さとは全く異質である。創作者は子どもの快楽のために犠牲になるものである──すなわち、おとなである。研究者や批評家は、そのどちらでもない、私の見たところ、上記のような子どもタイプを除くと、老人タイプか、思春期タイプが多いようだ。
漱石は老人タイプの学者だったが、若返っておとなになりたかったのかもしれない。彼が彼自身にとってはどうでもよさそうな若者を主人公にすえたりしたのは、彼の若返り願望の表れだったのであろうか。むろん、これは、上記の子ども問題に比べればどうでもよい問題である。