ばたばたと仕事を片づけたあと眠くなったが、計画通り『アバター』をみる。
あまりアメリカ映画に詳しくない私でも、「あーマトリックス」、「あーアラビアのロレンスか~」、「あー馬と呼ばれた男か~」「あーもののけ姫ですか~」、「あー風の谷のナウシカですか~」、「あーエイリアン2ですね~」(以下略)という感じであった。この映画がつぎはぎでできていることはすぐ分かる。つぎはぎにしちゃすごく上手いけど……。
「アラビアのロレンス」の別世界での一発逆転も、「馬と呼ばれた男」の、酋長の娘と結婚する白人も──要するにコロニアリズムの中でのゆがんだ夢物語も私は経験していない。しかしこの認識で我々のアインデンティティ問題は解決するのか。しない。アメリカの自意識を対象化すればすむわけじゃなく、宮崎アニメの世界に対しても「私はこんなことを経験したことはないぞ」とがんばらなければ、我々は自分の姿を探しに行けなくなっていることがつらい。
アメリカ映画は、「爆発」映像などを連発し我々の身体に訴えかけながら、「世界の問題はこんなところでございます。コーラとマクドナルドあげるからいっしょに考えよう」とこれでもかと訴えかけてくる。日本の「文化」はアメリカの「問題」と「爆発」に負けるけどそれを淫靡に批評して反撃の機会を待っている。つまり黒船が来たので落書で対抗である。
アメリカナイズを侮るべからずだ。いや、もはや、これは本当にアメリカナイズなのかもよく分からないぞ……。
私は、もう我々は違う部族の酋長の娘を好きになるような技術を磨いた方がいいような気がしているので、『アバター』はむしろ教育映画としてよい。主人公の男が、異星人の娘に海兵隊の訓練より厳しい特訓を受けつづけるうちになんかしらんうちに恋愛におちてしまうように、恋愛は相手に死ぬほどしごかれてこそ突然天啓のようにやって来るものである。これは我々が忘れかけていた真理である。
とにかく我々は批評も分析もいろいろがんばることはできるけれども、実際『アバター』をみてその技術の高さとあざとい巧さに心底絶望した日本のクリエイターたちの気持ちを忘れてはならないとおもう。批評家がする物語論も政治論もそれだけではなんも説明していない。問題はやっぱり作品が持つ勢いである。
あまりアメリカ映画に詳しくない私でも、「あーマトリックス」、「あーアラビアのロレンスか~」、「あー馬と呼ばれた男か~」「あーもののけ姫ですか~」、「あー風の谷のナウシカですか~」、「あーエイリアン2ですね~」(以下略)という感じであった。この映画がつぎはぎでできていることはすぐ分かる。つぎはぎにしちゃすごく上手いけど……。
「アラビアのロレンス」の別世界での一発逆転も、「馬と呼ばれた男」の、酋長の娘と結婚する白人も──要するにコロニアリズムの中でのゆがんだ夢物語も私は経験していない。しかしこの認識で我々のアインデンティティ問題は解決するのか。しない。アメリカの自意識を対象化すればすむわけじゃなく、宮崎アニメの世界に対しても「私はこんなことを経験したことはないぞ」とがんばらなければ、我々は自分の姿を探しに行けなくなっていることがつらい。
アメリカ映画は、「爆発」映像などを連発し我々の身体に訴えかけながら、「世界の問題はこんなところでございます。コーラとマクドナルドあげるからいっしょに考えよう」とこれでもかと訴えかけてくる。日本の「文化」はアメリカの「問題」と「爆発」に負けるけどそれを淫靡に批評して反撃の機会を待っている。つまり黒船が来たので落書で対抗である。
アメリカナイズを侮るべからずだ。いや、もはや、これは本当にアメリカナイズなのかもよく分からないぞ……。
私は、もう我々は違う部族の酋長の娘を好きになるような技術を磨いた方がいいような気がしているので、『アバター』はむしろ教育映画としてよい。主人公の男が、異星人の娘に海兵隊の訓練より厳しい特訓を受けつづけるうちになんかしらんうちに恋愛におちてしまうように、恋愛は相手に死ぬほどしごかれてこそ突然天啓のようにやって来るものである。これは我々が忘れかけていた真理である。
とにかく我々は批評も分析もいろいろがんばることはできるけれども、実際『アバター』をみてその技術の高さとあざとい巧さに心底絶望した日本のクリエイターたちの気持ちを忘れてはならないとおもう。批評家がする物語論も政治論もそれだけではなんも説明していない。問題はやっぱり作品が持つ勢いである。