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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

好きな小説のことを考えていたら研究を回顧する羽目になったの巻

2010-10-02 20:07:23 | 文学
私の好きな小説は、梅崎春生の「幻化」や「蜆」、古井由吉「杳子」、深沢七郎「流転の記」などである、ということに私の中ではなっている。しかし、これらがお好みであると意識したのは、20代後半のことであり、いまの好みがどうなのかはよく分からなくなってきた。

読んでから比較的はやく論文を書いたのは、芥川龍之介「玄鶴山房」や中勘助「犬」についてであるが、何か「悪いこと」をした気分だ。

花田清輝『復興期の精神』や、中野重治「春さきの風」に感激したのは、10代であるが、最近までこれらを論じていた。安部公房はかなり読んだが論じる気が起こらない。

私は、10年以上かけて自分の好みを分析したり気持ちを鎮めているようだ。気の長い話である。

今日、江藤淳の『全文芸時評』を読んでいて、毎月襲いかかってくる新作小説をちぎっては投げ、ちぎっては投げている江藤氏の腕前に感心した。大学院時代の初期に、評論家を研究するには彼らの気分が分からなくてはならないと思い、一年間、『文藝』と『文学界』の全小説を読んで感想を書いてみたことがあるが、頭がおかしくなりそうであった。頭の中でモノクロのカンディンスキーの絵がぐるぐる回っているような気分である。私が、すぐ「同時代性」を論証に持ち出す研究者を全く信用しないのは、このためである。同時代性なぞ、本当は「錯乱」としてしか存在していないのだ。私の頭の悪さを差し引いても、そうとしか思えない。ただし、現実の姿とは本来そういう姿をしているのかもしれない。批評家の能力がそれを恰も現実や歴史のように語るのである。

要するに、作品が「私」によって長い間読まれているという、非常に希な非現実的な状況を前提にしてしていることを忘れてはならないような気がする。しかしどちらかといえば、これが所謂一般読者の姿でもあろう。その姿をデータとして積み重ねても現実には到達しない。かわりに、江藤氏は、文学によってしか可能ではないところの──現実という「もの」への接近を夢想していたようだ。その点は、一番先に挙げた四作品などと「同時代性」をもった発想のように思われる。しかし、それらがみな〈病者〉が行動する小説になってしまっているところが、私の気になるところである。