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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

しっかり者の運命

2025-04-24 23:17:07 | 文学


錫の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれども、それが、ほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸の中に燃えている愛のためなのか、はっきりとはわかりませんでした。美しい色も、もうすっかりはげてしまいました。それが旅の途中ではげたのか、それとも悲しみのために消えたのか、それはだれも言うことができません。 兵隊さんは、可愛らしい娘さんを見つめていました。娘さんも兵隊さんを見つめていました。その時兵隊さんは、自分のからだがとけて行くのを感じました。それでもまだ、鉄砲をかついだまま、しっかりと立っていました。その時、ふいにドアがあいて、風がさっとはいって来て、踊り子をさらいました。娘さんはまるで、空気の精みたいに、ひらひらとストーブの中の錫の兵隊さんのところへ飛んで来ました。 そして、めらめらと燃え上がって消えてしまいました。錫の兵隊さんもその時は、もうすっかりとけて、小さなかたまりになっていました。ある朝、女中がストープの灰をかき出しますと、灰の中に、ハート形をした小さな錫のかたまりがありました。踊り子の方は、金モールの飾りだけが、あとに残っていましたが、それはまっ黒にこげていました。

――「しっかり者の錫の兵隊さん」(大畑末吉訳)


このはなしをわたくしは小さい頃に読んだ記憶がない。平家物語なんかだと、死に行く人々が結局藻屑となったり、人しれず腐ったりしていることが明らかであるのに、しっかり者の兵隊が運命に弁慶のように立ち向かっていると、愛する人が灰になって飛んでくるのだからしゃれている。M・マールの本を読んでいると、トーマス・マンの「魔の山」なんか、アンデルセンのおとぎ話の王国に出来た変種に過ぎない気がしてくるわけである。

しかしながら、我々がいくら力んでしっかりしても、我が王国には、何故、恋人の灰が降ってこないのであろうか。

例えば、課題解決のための話し合いなんてのは、絶対に命令を実現しなければならない末端の実行部隊が生き残るためにやることであって、上の方は話し合いなんかしていないのだ。丸山眞男の抑圧の移譲というのは、現代では、話し合いの移譲に変身してしまった。国語の教科書に載っている話し合いの教材って、かかる奴隷化教育のための教材として導入されたものである。

ロマン派のための子守歌

2025-04-23 23:05:36 | 文学


トーマス・マン研究にも知られているヴァルター・A・ベーレントゾーンの著作は、『詩人の工房における日常の客としての死』という実に嬉しいタイトルであり、 素晴らしいリストがあげてある。《一五六編の『メルヘンと物語』のうち、死に対するいかなる指摘もないのは六分の一に過ぎない。少なくとも二四編の物語で、死は唯一のメインテーマとなっており、主として伝記的なほかの二五編の物語では、結末に死が著しく強調されて出てくる。二つの連続物(『幸福の長靴』と『眠りの精オーレ・ルゲイエ』)では、作品全体の頂点となる最後の物語に、死の描写が満ちている。(……)アンデルセンが『メルヘンと物語』で描くさまざまな死に方について、奇妙なもの、彼がとりわけ詳細に描いているものを、若干書き出そう。錫の兵隊と踊り手はともに暖炉の中で死ぬ (しっかり者の錫の兵隊)。四編の風の物語のうち、三編で死が話題になっている。北風は鯨取りを溺死させ、西風は頑張屋が川の流れを漂って滝に落ちるのを見、南風は隊商を全員砂の中に埋める(パラダイスの園)。 小さな子供は水車のある堤防で死を夢見る(コウノトリ)。若い娘は殺された恋人への憧れから死ぬ。 彼女は彼の首を植木鉢の中に埋めたのである(バラの花の精)。インドの女性が死んだ夫とともに焼き殺される(『雪の女王』の鬼百合が語る物語)。ここでベーレントゾーンは脱線を控え、彼にとっても考慮に値する『すげかえられた首』には言及しない 《カーレンはついにまたミサに参列を許された時、喜びのあまり死ぬ(赤い靴)。赤い櫛と金色の羽で体を飾ったスズメの母親は鳥たちにつつかれて死ぬが、その中には自分の子供たちもいる(おとなりさん)。貧しい少女が大晦日の夜、街の真ん中で死ぬ(マッチ売りの少女)。病気のクヌートは故郷への旅の途中、街道の柳の木の下で凍え死ぬ(柳の木の下で)。われわれは洗濯女の最後の一日を体験する (あの女はろくでなし)。

――ミハエル・マール『精霊と芸術』(津山拓也訳)


この本は、わたくしのような、アンデルセンとマーラーが大好きだみたいなロマン派のための子守歌みたいな本であった。

職域奉公的技巧馬鹿

2025-04-22 23:44:19 | 文学


ある点までは、子どもの漫画に対する主たる関心は、その内容に条件づけられるのではなく、漫画自体の表現形式や表現の実体に直接むすびついている、といえると思う。子どもは漫画の手段を自分のものにしたいのだ。つまり、〈漫画の読み方をおぼえるために漫画を読む〉のであり、その規則や約束ごとを理解するために読むのだ。登場人物の冒険よりも、自分の想像力の作業を楽しむのだ。 ストーリーとあそぶのではなく、自分の頭とあそぶのだ。

――ジャン・ロダーリ『ファンタジーの文法』(窪田富男訳)


この読み方をおぼえるために読む、というあり方は子供に限ったことではなく、成人においても同様で、内容よりも技巧そのものを批評する傾向がある人は少なくない。ネット上の批評の最底辺では、そういった一面的な素人談義が多くの争いを続けている。これは、読者論的なもののなれの果てであるとともに、作品における技術に対する戦後の議論が流産させられたためだ。もっとも、技術の機械化はそういう帰結をいつももたらし、本質的な新しさから目を反らす原因となってきた。

学者のほうでも、「小説や漫画すら読まない」学生を専門書に向かわせるにはどうするかみたいな非常に非本質的な議論があとを絶たない。よくある「文系」教員の勘違いであって、専門書はどちらかというとむしろ頭がよくなくても最初からちゃんと読めばよいところがあるが、小説や漫画はそうでもないむずかしさがある事情を無視している。むしろ、おまえさま小説でも読んだ方がよいのではみたいな学者は結構いる。「専門家」も大学生も、自分テレビみないんで、みたいなノリで、いろんなものを読まなくなっているのが問題であって、結局、――コスパとかタイパがその実、職域奉公の症状であることを覆い隠しているのと同じようなからくりだろうと思われる。

そういえば、うちの業界でも同じような現象があった。いわゆる「文藝ストレイドックス」などを使った学問商売のことである。この作品をもちあげて客を集めようとするやりかたがどれだけ効果があるのか知らないが、――ほんとに文学に賭けてるような若者をしらけさせている可能性はあり、いつものことだが真剣な奴らを離反させるテクニックがすごいと感心させられる。

小説や漫画を、旦那衆の床屋談義から救い出すことが必要である。

墜落の低廻趣味

2025-04-20 23:34:59 | 文学


あくる朝になって、ようやく男の子たちがやってきました。見るとヒバリが死んでいるものですから、おいおい泣きだしました。 そして、たくさんの涙を流しながら、小さいお墓を掘りました。それから、花びらでまわりを飾りました。 ヒバリのなきがらは、赤いきれいな箱の中におさめられて、王様のように、りっぱに葬られました。 あわれな小鳥よ! 生きて歌っているあいだは忘れられて、 鳥かごの中で、苦しい思いをさせておいて、いまになって、花を飾ったり、涙を流したりするとは!
 さて、鳥かごの中の芝土は、ヒナギクといっしょに、道ばたのごみの中に捨てられました。 ヒナギクこそは、小さなヒバリのことを、だれよりも深く思いやって、どうかして慰めてあげたいと思っていたのですが、だれ一人、ヒナギクのことを思い出すものは、ありませんでした。


――「ヒナギク」(大畑末吉訳)


わたくしは、アンデルセンの「ヒナギク」とかワイルドの「幸福の王子」とかが、幼児の頃から文学の最高傑作だと思っている。わたしが病弱だったであろうか。自己犠牲は、ヒナギクや幸福の王子に尽くす燕のように死ぬことであるような気がする訳である。しかし、この価値判断が元気のよい幼児にすり込まれると、いわば体当たりの特攻精神に行くのであろうか。特攻は、自分が人柱となるよりも、なにか人に対する当てつけらしいところがある。人を柱となった高見から人を道具化する。

しかし、人を道具として扱ってしまうひとは保守でも革新でもだめである、とだけ主張しても、かえって、あらゆる自己主張を抑圧しかねない。労働者やマイノリティの側につく運動にはある程度をひとを「使う」面がある。運動者にいわば低廻趣味みたいなものが必要なんだろうと思う。因果を強調する実証だけじゃだめである。

低廻趣味が正常に廻るのだってほんとは難しい。漱石も、人に足を引っ張られたかたちで、低廻していたと思う。自然に後ずさりし、背後に吸い込まれていくのがその実、低廻趣味の精神的実体なのである。そういえば、記憶の底にあった、幼児の時、あのシーンはとても怖ろしかった作品をみつけた。記憶の表面にあったんは「妖怪人間ベム」のほうであるが、底にあったのは「勇者ライディーン」というアニメーションで、主人公がロボットの表面に吸い込まれて運転席までサイケな空間を墜ちて行く場面が恐ろしかった。「マジンガーZ」をみてたころはもっと頭が動物だったが、このアニメのコロは少し頭が人間になってたのであろう。わたくしは、低廻趣味とは、そういう何者かへの同化を経験していないといけないと思うのである。

反「タンポポの花一輪の信頼」

2025-04-18 23:42:55 | 文学




私は、巡礼志願の、それから後に恋したのではないのだ。わが胸のおもい、消したくて、消したくて、巡礼思いついたにすぎないのです。私の欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。


――太宰治「二十世紀旗手――(生まれてすみません。)」


太宰のタンポポは、うちの職場をとり囲んでいる上のような兇悪な茎のそれではないとおもうのだ。タンポポの花一輪を信頼に、チサの葉一枚をなぐさめに重ねる太宰は可憐というより対象に対して優しいがエゴイスティックである。

そういえば、大学の教室で鍋やっていいのかみたいな話題が自由と関係づけられてたびたび行われるけれども、その鍋を行わせた?音楽学者はどちらかというと右翼ではないかとおもう。彼の鍋をヤル自由はどこか鍋と言うよりも、他人と距離を取ってこの場合は匂いで圧をかける優しい気合いみたいなものだ。太宰もその点、女の自由に対して優しい右翼である。しかし、わたくしはどちからというと、計画設計された真実の押しつけを自由と感じる左翼であって、わたくしは学生と鍋をつついてもその味を妨害する10月革命のことを喋り続けてたりするわけである。わたくしはおれの自由を追窮する。そして学生のレポートをその自由な赤ペンで弾圧する。

わたくしは、太宰やうえの鍋自由主義者よりも言葉による感覚認識に自由を賭ける者である。小学校1年生の国語の教科書には絵がたくさん載っており、そこからいろんな意味をとりだすみたいなことをやってみると、学生の言語的な力がよく分かることが多い。言い古されてはいるが言葉で感覚されないとものは見えないこともおおいのだ。確かに、見えないものがみえるその領野は善悪の彼岸であって、だからこそそこに善悪の賭を行うのが我々のような輩である。

而して、意図的に見えないものを見せようとするフィクションというのは、現実のことがらとまったく関係ないものという意味ではないと見做すし、具体的に言ってみて、とかをあまりに頻繁に言う人というのがお馬鹿だとみなすのである。現実への抽象能力と小説の読解能力は似ているけれども同じではない。小説には倫理が賭けられているからだ。

重語命題

2025-04-16 23:49:34 | 文学


「人生を真面目に考へる」といふ言葉は、畢竟するに「暗い闇夜」の重語命題ではないか。願くはただ「真面目」だけに止めよ。でなければ「考へる」だけに。我々の生活をして、まありに暗黒に、暗黒に、闇を深くする勿れ。

――萩原朔太郎「新らしき欲情」


そうはいっても、春に芽生えるみたいなものは許されると思う。人生を真面目に考へる、というのは状態ではなく、プロセスなのである。

「裸の王様」の態度を讃えよ

2025-04-15 23:43:13 | 文学


「なんにも着ていらっしゃらないって、小さな子供が言ってるとさ。なんにも着ていらっしゃらないって。」
「なんにも着ていらっしゃらない!」とうとうしまいに、ひとり残らずこう叫びました。これには皇帝もお困りになりました。なぜなら、みんなの言うことがほんとうのように思われたからです。けれども、「いまさら行列をやめるわけにはいかんわい。」とお考えになりました。 そこで、なおさらもったいぶってお歩きになりました。そして、侍従たちは、ありもしない裳をささげて進みましたとさ。


――「皇帝の新しい着物」(大畑末吉訳)


しばしば忘れられているが、裸の王様の結末は、――子どもによって真実がバレてしまったのではなく、それでも「今更やめられない」ので、もったいぶって歩いてしまった王様につきしたがった侍従の姿である。問題は、真実を知ってからどうするかというのがこの話のテーマなのだ。

しかも、この王様や侍従たちが間違っているとは限らない。そもそもこういう権力そのものが裸の王様みたいなものであるのは、大のおとななら誰でも知っていることであり、その虚構をなくして、社会が成り立つか懐疑的なのがたいがい大人なのである。もちろん、正しいとは限らないが、うまく虚構を運用することは、その正しさよりも重要な局面がある。この王様と侍従たちは冷静でもあった。ひどいやつになると、子どもを叩き殺してしまう奴だっていたにちがいない。

世の先生たちは、そういうことを屡々忘れそうになる。この前、バスの中で「あいつはむかつくから家の前で★ねを100回言ってやった。」「誹謗中傷もいいとこヤナ」とか会話している小学2年生たちを見かけたが、王様は裸だという発言をいちいち聞くというのは、こういう子どもの奴隷になってしまうことである。

震災のときに、良心的なひとをこき使ったりする「共助」の現象がみられたというのは、何回か聞いたことがあるが、震災でなくても、戦争の時の「協同」とか最近の「チーム何とか」とかみんなそうなっている。問題は、そういう我々は死ねばよい、あるいは逆にとても素晴らしいと判断することではなく、小さい現場を少しでも倫理的にまともにしてゆくことであろう。そうでないと、「自助」だか「公助」だかは夢のまた夢だ。

自分自身の姿と芸術

2025-04-14 23:53:59 | 文学


女性をテーマに男が書いた詩の数々を眺めてみればよい。 女性とはまるで……男が創りあげた詩の世界だけに生を享けた住人のようだ。彼女たちは大抵の場合、美貌の持ち主で、その美しさや若さの翳りに怯えて身を震わせる......。 あるいは、その美しさをたたえたまま、ルーシーやレノーラのように薄命に終わる。あるいは残酷なことに……そんな詩人の慰みものになることを拒めば、完膚なきまでに叩きのめされることになる……。ものを書こうという少女や女性は…とかく言葉に影響されやすいものだ。この世界に存在する自分は、いったい何者なのか、その答えを詩や小説に求めるのである......。自分を導いてくれるもの、将来の展望、無限の可能性を求めては……そのすべてを否定する壁に何度も何度もぶちあたる......。自分が自分であることの全てを否定する壁につきあたる・・・・・・彼女は恐怖と夢を見出す······天賦の美貌だけでは満足できないつれなき美女……、 しかし、そんな彼女がどうしても出会うことができないものは、夢中で努力してとまどいながらも、ときにはそんな姿が読み手に希望を与える生き物―つまり自分自身の姿である。

――アドリエンヌ・リッチ"When We Dead Awaken: Writing as Re-vision," College English 34, no. 1 (October 1972): 21.(小谷真理訳)


ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』に引用されていた。ラスはSF作家である。これはけっこう興味深いことに思えるのであるが、アンデルセンの場合、その美女たちが、あまり上のような「男の作り上げた詩の世界」の一部にはみえない。すくなくとも私にはあまりみえない。どちらかというと、作品の中の美女よりも現実の美女のほうが作り上げた詩の世界のそれにみえる。最近のルッキズム批判を適用したら、醜いアヒルの子は白鳥の集団からも醜いといじめに遭って死ぬかもしれない。しかし、そもそもその醜いアヒルの子が白鳥の集団においてもリンチに遭うかも知れない予感は、読書する我々にそもそも存在しているような気がする。フィクションは作り上げられているだけでなく、現実と読書によって繋がっている。

それをもう一回、フィクションであるという次元に差し戻して観察するのが、学問のやり方ではあるのだ。しかし、学者をやっていると分からなくなりがちであるが、作者の死やらテクストに即するやら、人の論文を「参考文献」としてモノ扱いするみたいな、その態度というのは普通に非常識なのである。非人間的と言ってもよい。たしかに一周まわって人間的であるのはわかるが、学者本人が非人間的になってしもうてる可能性はすてきれない。

それが文学作品や論文といった「作品」でなくてもそうである。人文の分野は、ルネサンス的に展開するのであって、急に古いのが復活するのが醍醐味だ。しかし、研究の発展みたいなイデオロギーが大手をふるいすぎると、先行世代が否定したところに逆行した側面が、単なる進歩みたいな顔をしていることが屡々である。不可避的なことでもあるが、その態度の問題性は常にある。

わたしは、三十代の頃から、文学研究は、作品の非人間的な倍音を聞くことが重要だと主張している。そういえば、わたしが直接知るボーカロイドの開発者や作曲家には、案外合唱をやっていた人が多い印象がある。全体的な傾向はしらないが、重要なことのように思える。おそらく合唱が人間の声の有限性を痛感させるからではなく、声のハモり自体がどこか非人間的な感じがするからだ。そこに憑かれた人々は作品を単なる作品とは思えず、ドームに響きただよう何ものかだと思う。それを機械で実在させようとしているのが、合成音声の人たちであろう。しかし彼らの感性がその「何ものか」並にすごいとは限らない。我々はつねに有限な人間である。チッチの言う「自分自身の姿」とはいったいどういうものであろうか。

陛下の口から悪口0.5秒前

2025-04-13 23:44:43 | 文学


昔の悪口には面白いのがずいぶんある。
 今は恐妻家、女天下というが、昔は「からすの昆布巻」(かかあまかれだ)
「ずいぶん歩いたがまだよほど遠方なのかね」
「なーに、台屋のお鉢だ」(じき底、すぐ底)
 吉原の料理屋からとる飯櫃は上げ底になっていた。いちいち説明をつけると長くなるが、現代人にはぴったりこない。


――三代目三遊亭金馬「昔の言葉と悪口」


陰口はよくないとまあ思うわけだが、2ちゃんねるより前当たりから、現実世界で適切に陰口をたたく技術のための言葉の豊かさと繊細さが我々の社会から失われたと思う。で、ネットに書き散らすようになった。ネットに書けるから現実で言わなくてもよくなったのではない。

そういえば、70年の万博での昭和天皇の演説は例の祝詞口調だったが、いまの天皇の演説は丁寧だが普通である。この調子では、陛下もそろそろ悪口を叩きそうな勢いだ。而して、なんだかもう天皇は祝詞口調でいこうぜとかおもってしまったわ。でも、いまの陛下はわたくしと容貌が似てるし、細君のほうが大きいという点までわたくしに似ているのでいいとおもう。

目的意識と自然抵抗

2025-04-12 23:11:00 | 文学


「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどりの色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。
 ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人間には短命なのに魂があり、人魚には長命なのにそれがない。このあと人間から愛されれば魂を授かるみたいなはなしがでてきて、人魚の悲劇がはじまった。なぜなら、たぶん人間にも魂はないからだ。問題は魂を得るということの重大さなのである。その人魚の一生は目的にむかってのものではなかった。水草のように上へ生長して行っただけだ。

わたしの人生と言えば、病との闘いが原点だから、健康や幸福が人生の「目的」という考えはそもそも理解できない。病への抵抗が問題であって「目的」ではないからだ。闘いが出来なくなるのが終了というだけだ。だから、昔の左翼とか右翼が党派に命をささげるみたいなのもその意味で分からなくはないわけだ。原点に貧困や差別への闘いがあった場合は。歴史上問題になってきた、官僚制的な党派主義というのは別の問題だ。

そういう「目的」は、仕事の世界では「プライベートの幸福」とかいわれる。しかし、そういう「幸福」などほとんどどうでもいいんだが家族はつくるべし、ぐらいがかつての家族の「幸福」な実態だったにちがいない。家族は半分桎梏に決まっているわけで、幸福であろうとすると誰かに無理を強いたりするしかないのである。それがいやなら一人で生きるしかなくなるわけだ。かくして上のプライベートが特別の幸福を示しているように錯覚されて行く。

仕事の上では、そのプライベートを心理的に侵害するものとしてハラスメントという言葉が発明されたが、その実「権威主義」の裏返しである。自分を卑小な物体にしておかないといけないからだ。というわけで、権威が特定の属性にくっつくような形式論理も理解できない。中年男が党派みたいにみえるというのはわかるが、そんなところを「目的」(標的)にしても、どうせ弱そうな個人を虐めるだけで終わる。おじさんの不機嫌はあまりよろしくないみたいな風潮があるが、その理由と関係なくニコニコを強いるのは端的に暴力なのである。確かに快活さは人に影響を与えるので職業上大事なこともあるが、そういう風潮を、自分の怒りや批判を押さえる方向で把握する、良心的な人々への抑圧にしかなっていない。馬鹿というのは、男女年齢問わずいるわけで、権力を持っている親父たちの問題とごっちゃにするのはさすがに権威主義が過ぎる。

そういう人間が大勢をしめると、例えば、いまの地震対策は地震対策じゃなくて「自分の安心安全」を保持したい「目的」の群れの精神運動になってしまうわけである。健康志向もそれである。問題は人生観のほうで、科学的に対策が練られるほど本質から遠ざかり、最後は生き残るための差別に行き着くね、行き着くね、というかそれが原点であろう。

目的意識と自然生長、というプロレタリア文学の有名なテーゼがあるが、目的意識と自然抵抗とすべきであった。

人魚姫はコスパよく泡になったのか

2025-04-10 23:51:15 | 文学


しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
 そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人魚姫の話を読んで、恋愛はコスパが悪いなどと言う人はいないであろうが、いやいるかもしれない。考えてみたら、人魚が人間と結ばれると泡になってしまうみたいな条件は、話を一気に悲劇的にするためにコスパがよいといえるかもしれない。アンデルセンのせっかちさは誰もが感じるところではある。

そういえば、「Z世代はコスパ病」みたいなこと言う人はけっこういるが、コスパみたいな言葉によってそういう観念を所持する人が多くなったことは確かにあるかもしれない。しかし、損得で行動を決めたりする人なんかむかしからたくさんいた。そして勉強や学問に関しては、非常にいまいちな人の特徴そのものだったではないか。いまでもそうだろう。

コスパもそうだしコミュニケーションもそうだが、我々の社会に即してそれをどのような日本語に置き換えるべきか考えなくなってから、なにか倫理的判断の吟味のないままそれが武器として振り回される現象が起きてる気がする。

昭和的根性論の象徴みたいになってる反復練習や千本ノック的なやりかたは、科学がなかったからやっていたのではなく、集団の組織化や習熟にとってコスパがよさそう、あるいは実際によい場合もあったからやっていたのであって、その形式的な実践が暴走したりするのは、コスパを意識しすぎてなにもかもうまくいかなくなる現在の人々と全く同じなのだ。そして、ほんとは、コスパが悪いとかいうて合理的に振る舞おうとする人はいつもこれ以上失敗して傷つきたくないとか、そういう心理なんじゃないのか?昭和とか科学性とか言い訳にすぎない。

コスパがよいというのに一番近いのは「要領がよい」というやつではなかろうか。しかし、「要領」とは、辞書的な意味で言っても、要点のことであって、「要領がよい」というのは、本来、うまく物事が作動するための構造をつかむみたいな能力に優れているということである。すなわち、これは結構倫理的で知的な作業なんだと思うが、通俗的な「要領の良さ」が「ずる」に近くなるのは、その倫理性と知性が欠落しているからである。例えば、作品の要約をつくるのは倫理的で知的な作業で、これが出来ないのにいきなり批評に飛躍すると悪口やエゴの発露になってしまうのと同じである。要約や梗概を創る練習を軽視して、対話とかやっててもどんどん何かが劣化して行くのは当たり前ではないだろうか。

途と作画崩壊

2025-04-09 23:34:20 | 文学


 彼はこう云ってそれを披いた。きぬの膝から肩へかけて、絶えず細かい戦慄がはしる。浅い急速な呼吸のために、胸がはげしく波をうつ、そして庭の椿のあたりでは、けたたましい猫の叫びが続いていた。
「私はもう止めない」主馬は読み終ったものを巻きながら云った、「そのほかに途はないだろうと思う、身じまいをして白無垢に着替えておいで、仏間へ支度をして置くよ」
 夜明け前に医者が呼ばれて来た。太田順庵といって、亡くなった父とごく親しかった老医である、主馬は妻の居間へ案内した。二人はかなりながいことそこにいた。そこから出て来たとき、順庵は首を振りながらこう云った。


――山本周五郎「山椿」


歴史小説家の人物たちしばしば「そのほかに途はない」と言うが、だいたいそのほかにも途はある。だいたい途を誰が整備しているのかこういう主人公は無頓着であるし、そういう発言が屡々、途にたどり漬けない人間を排除するための方便なのはよく知られた事実だ。例えば、昔から米帝はアメ車を買えよて言ってくるんのだが、おれは免許持ってないと何回言ったらわかるのだ。

しばしば趣味ですら「途」となっている。ファンたるもの、新作上映がはじまったら直ぐさま駆けつけなければならぬ、みたいな人間がいるが、そういう人間にとっては、ファンであることは、虫が灯りに突撃するような頭の悪さを愛でることでもあるのだ。だからそれに違反した人をだいたい無能扱いにする。アニメファンみたいな人たちのなかにも、自分で絵も描いたことないくせに、すぐ作画崩壊みたいなこと言う人がいる。そもそもアニメーションのキャラクター自体が人間そのものの形とくらべてかなり崩壊してるだろ。もっというと、人間自体がお花とか昆虫に比べて作画崩壊してるだろ。

Strange Fruit

2025-04-08 23:17:22 | 文学


「それは、やめなさい。」と王様はおっしゃいました。 「おまえもほかのものたちと同じように、ひどい目にあうにきまっている。いま、おまえに見てもらいたいものがある。」こう言って王様は、ヨハンネスをお姫様のお庭へ案内しました。ああ、なんという恐ろしいありさまでしょう!木という木のこずえには、お姫様に結婚を申し込んで、なぞをとくことのできなかった王子が、三人四人とつるされていました。風が吹くたびに骸骨がカタカタと音をたてました。小鳥たちもこわがって、お庭の中へはいって来ようとはしませんでした。草花はみんな、人間の骨にし ばりつけられてあるし、植木鉢には髑髏が植わっていて、歯をむき出していました。まったく、お姫様のお庭としては、とんでもないお庭でした。

――「旅のみちづれ」(大畑末吉訳)


現代人の一部が「青髭」や「サロメ」や「奇妙な果実」を思う怖ろしい場面である。自己責任とはまったく逆の話で、神様を信じて旅に出れば元死者?までも道連れとなり、お姫様と結婚できるという、――どこの中学2年生の夢なんだよと思うが、実際、お姫様みたいな人物と結婚する類いの人物には、死者がとり憑いているというのはあるのではなかろうか。これを非人間的なものと言ってしまうより、魔物とか神とか言った方が我々の精神はうまく回路が廻るようになっている。『サピエンス全史』は少ししか読んでないが、ほかのホモ族と違って、ホモサピエンスの特徴は、魔物とか神にリアルを感じて、人間の行動の範疇を破壊してしまうことで大量殺戮も戦争も可能になったみたいなことが書いてあった気がする。これによって、機械と人間の境はその発明された魔物や神によって一体としての「人間」となる。

このまえ、私が生まれたころの「鋼鉄ジーグ」というの初めて見たけど、「グレートマジンガー」の作画が劇画的に発達して、しかも中の人が、性格が乱暴なアムロという、なんか良いかんじじゃないか。なんでこっち側に進化しなかったんだろう?たぶん、ロボットのデザインが、人間であるのかロボットであるのか少し曖昧な感じがよくなかったのだ。改造人間だからと言って、かれは人間らしくならなくてもいいのだ。ロボットはどんどん非人間的なかたちに過激化していった。しかしだからといって、基本擬人化なのであるが。。。

教育の分野で、ICTみたいなものがなかなか進捗しないのは、どうもあの人間に奉仕しきる道具的なかんじに異和感がある。教育の世界は、もともと国民化の道具的な側面があって、非人間的であったところに、別の非人間性――例えば、受験戦争とか部活の戦争とかが入り込んで活性化している。これに対して、最近は、モンスターペアレンツや障害のある学生に対する、機械的にはいかない、過剰な「人間力」が求められている。教職への不人気の内実を当の学生にあたって調べてみると、単にブラックというイメージではなくて、ぼやかして言うといろんな「人間的ケア」の遂行に対する恐怖が大きいように思う。特にまじめな学生にとって、自分に多大な負担がのしかかるのではないかという恐怖である。働き方改革とやらが仕事を良心的な一部へ押しつける事態を導いているの、学生はみんな知ってる。また女性が建前上において(つまり機械的に)完全に平等に扱われうる職場が教職なんだという、ある種のイメージが昔はあったんだと思う。私の親の世代にはあった。それが時代の変化もあって、あまり輝かしいものとしてみえなくなり、一部では、そういう平等性も何処か崩れている雰囲気があると聞いた。あまりに「人間化」、人間の本性がぶつかり合う苛烈な場所では女性への理不尽さは出てきてしまうのはあるであろう。そもそも性を差別してくるのは当の子どもだったりするわけで。壺井栄「二十四の瞳」の世界は女性教員への差別の裏返しだったわけだが、この物語は、偶然性がかなり排除された論理的な話である。壺井の作品について言えば、初期の作品のほうが、偶然性=革命志向である。これに対して、戦後の児童ものは、ある意味、児童をロボット化している気がする。だから、彼女の作品は人気があったのである。

竹の中のアモーレは見出される

2025-04-07 11:45:09 | 文学


いつなんどきでも、人々のうしろにつきまとっているのです。劇場の大きなシャンデリアの中にすわりこんで、あかあかと燃えていることもあります。人々は当たりまえのランプだと思っているのですが、あとになって、それが思い違いだったことに気がつくのです。また、時には、お城の遊園地の散歩道を歩きまわっていることもあります。いえ、そればかりではありません。あなたのお父さんやお母さんだって、一度は、胸のまん中を射られたのですからね! まあ、お父さんやお母さんに、聞いてごらんなさい。きっと、お話が聞かれますよ。ほんとに、このアモールという子は、いたずらっ子です。あなたは、けっして、この子にかまってはいけませんよ。

いつもアモーレがいる。いすぎるので、かまってはいられない。そんなことをしなくても、つねにかまわれるからである。しかし、我々の世界において、アモーレは隠れながらある場所にいるようだから、一生懸命見出さなければならない。

ユーチューブに「ノブロックTV」というのがあるが、テレビから出奔したプロデューサーの番組である。が、新人発掘番組という意味で、テレビへの公開オーディションと化してる気がする。そういう素人が半分入ったオーディションみたいなもので「面白い奴がいた」局面が一番面白く感じる、これもテレビのどこかで発明されたやつなのか、源氏物語で有名な垣間見の一種なのか。このクリシェは、いつもこういう面白い奴、美しい奴は、どこかに隠れていて発掘される、いや精確には隠れてさえおらず、見えなかっただけだ、という結構である。最近では、福留光帆みたいな才人が、AKB、しかし最下層で芽立たず引退してニートに、ノブロックで発掘されて一年間目立って、再度、病休。そして数ヶ月で復活して出てきた。竹の中から何回もチョロチョロでているかんじである。

親指姫のコスパの悪さ

2025-04-06 23:48:18 | 文学


「かわいいじゃん、かわいいじゃん。コガネムシには見えないけれど、かわいいじゃん。」と、コガネムシは言いました。
 しばらくすると、木にいるコガネムシがみんなやってきました。しかし、いっせいに触角をぴくっと立てて、口々にこう言いました。
「この子、足が二本しかないじゃん! すげぇ変じゃん。」
「触角がないじゃん。」
「身体が細すぎるじゃん。へぇん! 人間みたいじゃん。」
 コガネムシの奥さんは「ふん! この子ブスねぇん。」と、口をそろえて言います。でも、だれがなんと言おうと、おやゆび姫はとてもかわいいのです。おやゆび姫をさらってきたコガネムシだって、今の今までそう思っていました。なのに、あまりにもみんながみにくいみにくいとはやし立てたので、このコガネムシまでおやゆび姫がみにくいと思ってしまいました。


――「おやゆび姫」(大久保ゆう訳)


親指姫は大麦からチューリップもどきの花が咲きそこにいたひとであり、いろんな動物の嫁になりかかるが間一髪のところでいつものがれて、最終的には花の精みたいな連中に迎えられ、すべての花の女王様となる。結婚しかかった蛙やモグラは醜いから論外、かんがえてみると、彼女を花の王国に連れて行ったツバメも相手ではなかったわけで、――お花至上主義=マックスルッキズムのような話である。しかも、この姫が産まれた大麦はたぶん独り身の女性が銀貨一二枚で買ったものである。この女性は姫の生涯に二度と登場しないし、そういえば、蟾蜍のところから脱出したときに助けてもらった蝶は途中で死んだか生きているか不明のままであった。美しいものをめぐって、差別や献身に関する残酷さがあちこちで生起しているのは子どもなら誰でも知っていそうだから許されるのか、じつにすごい話である。

しかし、貴種流離譚ならぬ、美種流離譚であるところの良さは、困難を乗りきることである。わたくしなら、蟾蜍に拉致された時点で、偽装転向とか偽装結婚だかを決意し、そしてそのまま死ぬ。かんがえてみると、この姫は、はじめから美しい旦那と結婚しようと決めていたのではなかろうか。そのためには、選別が必要である。形は人間だが、サイズが人間で無いから、サイズが合う奴の中で選別しなければならぬ。で、次から次へと拉致されては逃げ出すのである。自分から積極的に求愛する方がよいように思えるが、それでは、下手すると相手がyesと言いかねない。だからあくまでも求愛してくるのを待つのである。

主体性というのは、こういう手間のかかるものである。思うに、一般的に、強制された無駄な勉強や労働というものが、なにゆえ、自己決定による「要領よいやり方」より量が多いことになっているのか、まったくおかしい。実際は、自分に最適化したやり方を見出してそれを実現するほうが遙かに量的に多い行為が伴うのである。それに気付いた奴だけが成功して、歳をとってから「量が大事」とか言うてしまうというのがあるのだ。――だいたい「要領よりやり方」を誰かから教えてもらってズルしようとしているやつがほとんどあって、従って何も実現できず、その理由を再度強制された何かになすりつけてるだけなのであるから話にならない。いわゆる「コスパ病」なんてのは、依存症の一つの型なのである。

また、「コスパ病」の特徴として、方法論に対する過剰反応があるわりには目的の強制に対しては鈍感だということだ。権威主義者が多い所以である。上の話だと、はじめは親指姫をかわいいと思っていたのに、みんながかわいくないと言っているのでかわいくないと思ってしまったみたいなのが、かかる権威主義である。無論、目的へ最短距離の手段をとることは前提であってもよいが、そのために、手段を常に省略できると考えるのがおかしい。むしろ、手数が最適に省略できなくなるのが普通の感覚ではないだろうか。ほんとはそれを知ってるから、手段を他人に外注して目的達成だけ遂げようとする者が増えてくる。しかし、うまく外注できるタイプが要領よいやつということになり、モラルが崩壊すると、下手に外注と関係ない人に接触することも恐怖になってくるはずである。学生をはじめとして、明らかにそういう恐怖が蔓延している。