
錫の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれども、それが、ほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸の中に燃えている愛のためなのか、はっきりとはわかりませんでした。美しい色も、もうすっかりはげてしまいました。それが旅の途中ではげたのか、それとも悲しみのために消えたのか、それはだれも言うことができません。 兵隊さんは、可愛らしい娘さんを見つめていました。娘さんも兵隊さんを見つめていました。その時兵隊さんは、自分のからだがとけて行くのを感じました。それでもまだ、鉄砲をかついだまま、しっかりと立っていました。その時、ふいにドアがあいて、風がさっとはいって来て、踊り子をさらいました。娘さんはまるで、空気の精みたいに、ひらひらとストーブの中の錫の兵隊さんのところへ飛んで来ました。 そして、めらめらと燃え上がって消えてしまいました。錫の兵隊さんもその時は、もうすっかりとけて、小さなかたまりになっていました。ある朝、女中がストープの灰をかき出しますと、灰の中に、ハート形をした小さな錫のかたまりがありました。踊り子の方は、金モールの飾りだけが、あとに残っていましたが、それはまっ黒にこげていました。
――「しっかり者の錫の兵隊さん」(大畑末吉訳)
このはなしをわたくしは小さい頃に読んだ記憶がない。平家物語なんかだと、死に行く人々が結局藻屑となったり、人しれず腐ったりしていることが明らかであるのに、しっかり者の兵隊が運命に弁慶のように立ち向かっていると、愛する人が灰になって飛んでくるのだからしゃれている。M・マールの本を読んでいると、トーマス・マンの「魔の山」なんか、アンデルセンのおとぎ話の王国に出来た変種に過ぎない気がしてくるわけである。
しかしながら、我々がいくら力んでしっかりしても、我が王国には、何故、恋人の灰が降ってこないのであろうか。
例えば、課題解決のための話し合いなんてのは、絶対に命令を実現しなければならない末端の実行部隊が生き残るためにやることであって、上の方は話し合いなんかしていないのだ。丸山眞男の抑圧の移譲というのは、現代では、話し合いの移譲に変身してしまった。国語の教科書に載っている話し合いの教材って、かかる奴隷化教育のための教材として導入されたものである。