
欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾から駆逐する事を計らなければならない。
いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金を根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。
――九鬼周造「外来語所感」
「マイナポイント」とかいわれると、なんで短調でポイントがつくのかと思ったわたくしであるが、結局、わたくしは九鬼の言う「原語を社会の識閾から駆逐する」みたいなのをまだ諦めてはいないのだ。我々は、そうやって日本語の母語者として頭がよくなって行くのであって、英語をそのまま使用できるようになっても、それは起こらない。確かに、商売や通信が速くはなるであろうが、それが速くなったからと言って世の中がよくなるとは限らず、ツイッターの翻訳機能があがったりしたことがむしろトランプのような連中の自由度を上げただけであるのをみればよく分かる。
「国語」と「道徳」がよくセットで日本語でやるべき、みたいな議論が教育界でもあると思うが、それこそ典型的な古い議論である。明治以来、ブルジョアジーは外国語を使用して商売や政治をしながら、そういうものの捉えきれない剰余としての「日本の心」みたいな図式に陥っていった。道徳こそグローバルスタンダードにしとかないと、帝国主義とかなんとか共栄圏みたいな思想に加速度的になるのは近代社会の法則みたいなきがする。和魂洋才こそが第二次大戦のときの文科省の発想であった。――よく考えてみたら、普段の授業が完全に日本語で行われる中、ドストエフスキーとかポオとかスタインベックとかロマン・ロランとかに小学校からはまりこんでいたわたくしは、日本語のなかで、「国語」や倫理的興味については、完全に外国志向であったわけで、しかし思春期以降はっと我に返って國文學に転向した。戦後教育の勝利或いは敗北である。がっ、明治以来のブルジョア用グローバル人材育成官学では、たぶん、魂が転向して外国に、使えるのは外国語でという結末、あるいは、転向せずに帝国主義者に、という結末しか待っていない。――というのは冗談であるけれども、明治のエリートのやっつけ洋魂から転向した結果がなんちゃってナショナリズムだったことは、鷗外とか漱石とか西田幾多郎が有名になりすぎて忘れられているが、やっつけ洋魂の外国語を振り回すどうしようもない奴がたくさんいたわけである。戦前の結末をもたらしたのは非道徳的な国粋主義者ではなく、道徳的なグローバル人材なのだ。九鬼の文章の前提になっているのは、そういう現実である。
というわけで、いつもブルジョアジーの師弟で文化的におもしろいものがでてきたのは、太宰とか永井とか、階級から加速的に堕落した経験を持つ連中だけで、結局、人類むかしからそれを経験していたことは、貴種流離譚で分かるような気がする訳だ。ただそれは例外を物語にしただけで法則じゃない。
確かに、戦後がもたらした壺と化した大衆社会を嫌う人々がいるのはわかる。自由な自分には価値があるはずなのに、なぜか現状維持を図る連中が自分をいつまでもうだつのあがらないポジションに置き続けている、という怨恨である。言うまでもなく、明治維新で政権を奪取した連中のメンタリティである。そういえば、テレビを観ていても、お笑い芸人と食レポみたいな番組が多く、これを金がないからという理由にしているうちはだめなのである。頭が悪いからに決まっているからだ。で、ユーツーブのほうはどうかといえば、たしかにテレビが回避した面白さがあることはあるが、量が多くなってきたら結局テレビとおなじような感じになってきている気がする。――しかし、安吾がいうように、俗悪なところからはやり面白いものはでてくるにちがいないのだが、テレビのように社会によって規制され、時間を規制されたなかから俗悪な混沌からの文化創造がなされるのだという気がする。外国からの影響はそのプロセスに奉仕しているだけだ。