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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

原語を社会の識閾から駆逐する

2025-04-05 06:15:13 | 文学


 欧米語に対する社会一般の軽薄な好奇心を統制して大和言葉ないしは東洋語の尊重を自覚させるにはどうしたらいいか。その基礎がひろく日本精神の鼓吹にあることはいうまでもない。基礎さえ出来れば外来語はおのずから影をうすくするであろう。基礎が出来なくては何もならない。基礎を前提すると共に基礎の建設に貢献すべき言語統制の方法としては、文筆に携わるものが必要のない外来語は断然用いない決意を強固にし、まず新しい外国語がはいってきかけた場合には自己の好奇心を抑圧して直ちに適当な訳語をつくること、またいったん通用してしまった場合にはなるべく早く訳語をつくって原語を社会の識閾から駆逐する事を計らなければならない。
 いったん、外来語が社会的識閾へ上って常識化されてしまうと便利であるから誰しも使うようになる。それ故に常識化されるまでに一般的通用を阻止することに全力をそそがなくてはならない。そして不幸にも既に言語の通貨となりすましてしまったならば贋金を根絶することに必死の努力を払うべきである。失望するには当らない。「オールドゥーヴル」は「前菜」に殆ど駆逐されたかたちである。「ベースボール」は「野球」に完全に駆逐されてしまった。これらの事実は我々に勇気と希望とを与える。新しい言語内容に関して外国語をそのまま用いればなるほど一番世話はない。好奇心を満足させることも事実である。しかしそれではあまりにも自国語に対する愛と民族的義務とに欠けている。


――九鬼周造「外来語所感」


「マイナポイント」とかいわれると、なんで短調でポイントがつくのかと思ったわたくしであるが、結局、わたくしは九鬼の言う「原語を社会の識閾から駆逐する」みたいなのをまだ諦めてはいないのだ。我々は、そうやって日本語の母語者として頭がよくなって行くのであって、英語をそのまま使用できるようになっても、それは起こらない。確かに、商売や通信が速くはなるであろうが、それが速くなったからと言って世の中がよくなるとは限らず、ツイッターの翻訳機能があがったりしたことがむしろトランプのような連中の自由度を上げただけであるのをみればよく分かる。

「国語」と「道徳」がよくセットで日本語でやるべき、みたいな議論が教育界でもあると思うが、それこそ典型的な古い議論である。明治以来、ブルジョアジーは外国語を使用して商売や政治をしながら、そういうものの捉えきれない剰余としての「日本の心」みたいな図式に陥っていった。道徳こそグローバルスタンダードにしとかないと、帝国主義とかなんとか共栄圏みたいな思想に加速度的になるのは近代社会の法則みたいなきがする。和魂洋才こそが第二次大戦のときの文科省の発想であった。――よく考えてみたら、普段の授業が完全に日本語で行われる中、ドストエフスキーとかポオとかスタインベックとかロマン・ロランとかに小学校からはまりこんでいたわたくしは、日本語のなかで、「国語」や倫理的興味については、完全に外国志向であったわけで、しかし思春期以降はっと我に返って國文學に転向した。戦後教育の勝利或いは敗北である。がっ、明治以来のブルジョア用グローバル人材育成官学では、たぶん、魂が転向して外国に、使えるのは外国語でという結末、あるいは、転向せずに帝国主義者に、という結末しか待っていない。――というのは冗談であるけれども、明治のエリートのやっつけ洋魂から転向した結果がなんちゃってナショナリズムだったことは、鷗外とか漱石とか西田幾多郎が有名になりすぎて忘れられているが、やっつけ洋魂の外国語を振り回すどうしようもない奴がたくさんいたわけである。戦前の結末をもたらしたのは非道徳的な国粋主義者ではなく、道徳的なグローバル人材なのだ。九鬼の文章の前提になっているのは、そういう現実である。

というわけで、いつもブルジョアジーの師弟で文化的におもしろいものがでてきたのは、太宰とか永井とか、階級から加速的に堕落した経験を持つ連中だけで、結局、人類むかしからそれを経験していたことは、貴種流離譚で分かるような気がする訳だ。ただそれは例外を物語にしただけで法則じゃない。

確かに、戦後がもたらした壺と化した大衆社会を嫌う人々がいるのはわかる。自由な自分には価値があるはずなのに、なぜか現状維持を図る連中が自分をいつまでもうだつのあがらないポジションに置き続けている、という怨恨である。言うまでもなく、明治維新で政権を奪取した連中のメンタリティである。そういえば、テレビを観ていても、お笑い芸人と食レポみたいな番組が多く、これを金がないからという理由にしているうちはだめなのである。頭が悪いからに決まっているからだ。で、ユーツーブのほうはどうかといえば、たしかにテレビが回避した面白さがあることはあるが、量が多くなってきたら結局テレビとおなじような感じになってきている気がする。――しかし、安吾がいうように、俗悪なところからはやり面白いものはでてくるにちがいないのだが、テレビのように社会によって規制され、時間を規制されたなかから俗悪な混沌からの文化創造がなされるのだという気がする。外国からの影響はそのプロセスに奉仕しているだけだ。

そっくりの美

2025-04-03 23:09:12 | 文学


とうとうイーダは、そっと小さいベッドからぬけ出て、静かにドアのところへ行って、部屋の中をのぞきました。まあ!イーダの見たのは、なんという面白い光景だったでしょう!
 その部屋には、寝室ランプは一つもありませんでした。それなのに、たいへん明るくて、まるで昼間のようでした。お月様が窓からさし込んで、ゆかのまんなかまで照らしていました。ヒヤシンスとチューリップとが残らず、ゆかの上に二列にならんでいました。窓には、もう、花は一つもなくて、からっぽの植木鉢ばかりが立っていました。ゆかの上では、花がみんなそろって、それはそれは可愛らしく、ぐるぐるお互いのまわりをまわりながら踊っていました。そして、長い鎖の形になって、ひらりとまわりながら、長い緑の葉と葉をつなぎ合わせて、みごとな輪をつくりました。ピアノにむかっているのは、大きな黄いろいユリの花でした。それはたしかに、小さいイーダが、この夏見たユリの花に違いありません。なぜなら、あのとき学生さんが言った言
葉が頭に浮かんで来たからです。 「おやおや! あのユリの花はリーネさんにそっくりじゃないか!」その時は、学生さんは皆に笑われましたが、いま見ますと、この黄いろい長い花はほんとうに、あのお嬢さんに似ているように思われました。


――「小さいイーダの花」(大畑末吉訳)


「そっくり」といえば、安部公房の「人間そっくり」みたいな高級なものから、下のようなものまである。まさにポスト新幹線とポスト人間を同時に実現したといへよう。アンデルセンは、あいかわらず、物体が人間になるところでとまってしまうが、われわれの下品な世界は違うのだ。

まるで0系「鉄道ホビートレイン」完成 JR四国


「新幹線大爆破」という映画があるが、こんなかわいいのを田んぼのあぜ道みたいな線路上で爆破してなんか意味あるのであろうか、田んぼの稲が危ないだろ。結局、アンデルセンが正しい。アンデルセンの世界は、花が花であり続けているから美しいのであった。

精神の死後

2025-04-02 23:47:47 | 文学


「そうね。どうせわかることです。」と、お年寄りのお妃はお考えになりました。けれども、そのことはなにもおっしゃらずに、寝室におはいりになりました。そして、ふとんをみんなとりのけて、ベッドの上に、一粒のエンドウ豆をおきました。それから、敷きぶとんを二十枚も持ってきて、そのエンドウ豆の上に重ねました。それから、もう、 二十枚やわらかなケワタガモの羽ぶとんを持ってきて、その敷きぶとんの上に重ねました。
 こうして、お姫様はその夜、その上で寝ることになりました。朝になって、寝ごこちはいかがでしたか、と、お姫様はきかれました。
「ええ、とてもひどい目にあいましたわ。」と、お姫様は言いました。「一晩じゅう、まんじりともしませんでしたわ。いったい、寝床の中には何がはいっていたのでしょう。なんだか、堅いものの上に寝たものですから、からだじゅう、赤く青く、あとがついてしまいました。ほんとうに、恐ろしい目にあいましたこと。」


――「エンドウ豆の上に寝たお姫様」(大畑末吉訳)


結局、羽布団の下の方あるエンドウ豆に敏感だった――しかも気分の問題ではなく、体に痣が就く始末なのであった――、このお姫様が結婚相手になるわけであるが、この敏感さは大変なことで、これから生きてゆけるのかあやしい。精神が貴族的すぎると確かに死ぬ運命だ。対して、労働者ともなると、精神は死んで体が軋んでいるから、蒲団の下に何か固いものがあったほうが、肩のこりがなくなったりすることもあるし、時々、健康のために、イボイボのついた何かを踏んづけたりもしているのは周知の事実だ。

村山知義は転向した後、「転向作家」みたいなレッテルは勘弁してくれ社会的にはそうかもしれないが文学にはいろいろあんだから、みたいなことを言っていたら、徳田秋声に「自由主義だ」と茶々を入れられている(「文学リベラリズム座談会」、『行動』昭9・9)。村山は労働者の味方であろうから、エンドウ豆がどれだけでかくても何処でも寝てやるぜ、みたいな気概を見せているのだが、徳田秋声みたいなリアリストからすれば、単なる精神上の「自由主義」であった。舟橋聖一なんかも、これからはファッショに対する「反抗だ」とか息巻いているが、国会図書館所蔵の『行動』にはここに「偉いぞ!」みたいな茶化した落書きがある。

ここらあたりで、精神は事実上死んでいたとみてよいのだ。あと残ったのは肉体かなにかである。

マッカーサーは、第二次大戦後に日本に上陸してきて、日本人は十二歳ぐらいとか言うたが、間違っている。死んだ精神をよそに、我々は昆虫の仮面を被ったり絵を沢山描いたりと、西洋人がたくさんコロしてきた土人に進化していたのである。で、自分たちもコロしたよね、という自覚が学問的認識のように、つまり精神的のみにもたらされたとき、その進化は停止した。我々は再度、幼稚な意味で「近代」に向かって歩みだしたのである。

人生は何処に?

2025-04-01 23:25:19 | 文学


「おめえの殺したのは、おらじゃなくて、おらのばあさんだったんだ。」と小クラウスは言いました。 「そのばあさんを売って、大枡にいっぺえのお金をもらったのよ。」
「なるほど、そいつはほんとに、いいもうけをしたな。」と大クラウスは言いました。そして、急いで家に帰ると、斧を持ち出して、さっそく、自分の年とったおばあさんを打ち殺してしまいました。それから、死骸を車にのせて、町に出て、薬種屋の店へ行きました。そして、死んだ人を買わないか、とたずねました。
「それはだれだね。どこで手に入れなすったかね。」と薬種屋はききました。
「うちのばあさんでさ。」と大クラウスは言いました。「大枡いっぺえの金で売ろうと思って、ぶっ殺して来ましただ。」
「とんでもない!」と、薬種屋はびっくりして言いました。「とんでもないことを言う人だ!そんなことをしゃべるなんて! おまえさんの首が、ふっ飛んでしまうから!」


――「小クラウスと大クラウス」(大畑末吉訳)


いまの教育の一部がだめだと思うのは、こういう譚を小クラウスが生きる力があって大クラウスはまぬけだったみたいな解釈をしかねないからである。アンデルセンの目は、ちゃんと人間の人生に密着しているのである。人生訓がその対立物である。善が対立しているかはよくわからない。小クラウスが大クラウスの馬を含んで「おれの馬が云々」とか最初のあたりで言っている時点で、善悪や所有の観念その他いろいろなものが崩れているのである。ただ、人間そのものが崩れているわけではない。大も小もみせかけのレッテルで、彼らがやったことだけが彼らの人生である。

チャットなんとかなどのAIの登場で、ヤ★ー知恵袋などの間違いだらけの腐りきったかんじがちゃんと人間的にみえてくるのだから、世の中うまく出来てている。ついに、人間がその腐って滅茶苦茶なものであることを再認識する秋が来た。感情や知能が滅茶苦茶なのではなく、もともと奇跡や魔法に近い滅茶苦茶な事象なのである。

そういえば、ここ数年、研究室のゼミ生の興味はどこかしら戦争に関係ある文学にかたむきつつあるきがする。古典ゼミは近世が人気であるが、その理由はよくわからない。いずれにせよ、文学への興味は人間の人生へ興味があるかどうかにかかっているようにおもえるのであるが、それが感情への興味や性への興味と絡んで混乱する。オペラなんかはそういう混乱を大げさに利用したジャンルのような気がする。映画で戦争がほんとに描かれるようになって、特に戦争という事象が人生よりも感情よりも大きく見えるようになって混乱が激しい。

スポーツに惹かれる人々が多いのは、芸術よりも直截に人生を感じるから、というのがある。勝負がはっきりしているわりには、その原因が偶然性に拠っている気がするからだ。ただ、これは観客の視点である。行っているのは、ただの肉体労働者であって、やったことと結果が形式論理的に結びつく世界に生きている。

わたくしは、たぶん父親の影響もあってか、――最近はほとんど観てないが野球はわりと好きである。個人種目にほとんど興味がないからなのかな?ともおもったが、そうでもない。サッカーやバスケットボールはめまぐるしくてつかれるからあまり観たことがないし、フィギュアスケートがすきだった頃もあったが、美少女が観たかっただけである可能性があり最近はどうでもよくなった。結局、砲丸投げとやり投げと野球が残った次第だ。すると、遠くにとばすものが好きなのか?マッチョな男性趣味なのであろうか?――そういえば、最近、『嫌われた監督』(鈴木忠平)と『ルーキー』(山際淳司)を続けて読んだが、ある種のセンチメンタルなかんじがあふれかえっていてびっくりした。野球文学みたいなものは、新聞の記事もふくめてたくさんあるがなんとなく肌に合わない。結局、2ちゃんねるの野球板にあったような空騒ぎが好きだったのか?しかしそうとも思えないから、いったい何であろう?――と考えてきたら、ほんとに野球が好きだったのかどうかわからなくなってきた。結局、水島新司とか「アストロ球団」といった野球まんがが好きだっただけではないだろうか?

しかしどうもちがうようだ。多くの野球ファンと一緒で、わたくしは「記録」をみるのがすきなのである。落合博満氏が「記憶は記録に勝てない」と言っていて、彼の冷徹ぶりを示しているようにとらえられているが、実際は野球における「記憶」は野球文学も含めた空騒ぎで、「記録」こそが落合氏が好きな「映画」みたいなものなんだろうと思う。「記憶」は、観客が勝手に紡ぐものであるが、「記録」は野球労働者の個人的な労働=人生からしか生まれ得ないのだ。

魔法と現実

2025-03-31 20:43:17 | 文学


 町のそとに、大きな絞首台がたてられました。 そのまわりに、大ぜいの兵隊と、何万という人人が並びました。王様とお妃とは、裁判官と顧問官一同とむかいあった正面のりっぱな玉座につきました。
 兵隊さんは、もう段の上に立ちました。ところが、いよいよ首に縄をかけられる時になると、兵隊さんは、こんなことを言いました。どんな罪人でも、いよいよ処刑されるという前には、無邪気な願い事を一つは、かなえてもらえるそうではありませんか。私にも、いまわのきわに、どうぞ最後のたばこを一服のませてください。
 これには、王様も、いけないとは言われませんでした。そこで、兵隊さんは火打石を出して、一、二、三、と火をきりました。するとたちまち、目の玉茶わんぐらいの犬と、水車ぐらいの犬と、円塔ぐらいの犬とが、三匹ともあらわれました。「おい、おれを助けてくれ! おれはしめ殺されるんだ!」と兵隊さんが言いました。 すると、三匹の犬は、裁判官と顧問官とに飛びかかって脚をくわえたり、鼻にかみついたりして、みんな を空高くほうり上げました。落ちてくると、みんなはこなごなに砕けてしまいました。
 「わしはごめんだ!」と王様は言いました。けれども、一番大きい犬が、王様とお妃とを二人つかまえて、ほかの者たちのあとからほうり上げました。兵士たちは、こわくなってしまいました。いっぽう人々は口々に叫びました。「もし、兵隊さん! 私たちの王様になってください。そして、どうぞ美しいお姫様をお妃様にしてください!」
 それからみんなは、兵隊さんを王様の馬車に乗せました。三匹の犬は、馬車の前を踊りながら「ばんざい!」と叫びました。子供たちは指を口にあてて口笛を吹き、兵隊たちは捧げ銃をしました。お姫様は、あかがね御殿から出て、お妃になりました。それがお姫様には、まんざらいやでもありませんでした。御婚礼のお祝いは一週間もつづきました。そのあいだ、三匹の犬は、宴会のテーブルについて、大きな目をぐりぐりさせていましたとさ。


――「火打箱」(大畑末吉訳)


この兵隊は火打箱を魔法使いの婆さんの頼みで金銀と一緒に手に入れたついでに、婆さんを殺した。上の三匹の犬(というより目が巨大なバケモノである)の引っ張ってくる金銀のおかげで名誉や信頼も得たが、王様の娘と会いたかったので、犬を使って自分の家に連れてきてキスしてしまう。バレたので死刑になりそうであったが、結果どうなったかというと、上の通りである。「走れメロス」の結末で、群衆たちが「王様萬歳」と叫ぶのは、彼らが罪へ罰を下す常識を失った衆愚だとしか言いようがないが、あるいは、もともと信頼を信じないことにかけては王様と民衆はもともと似たようなものなので、もしかしたら狂っているのはやはりメロスだけかも、――みたいな謎の中に読者はほうりこまれる。これにたいして、上の話には不思議なところはあまりない。魔法が存在していること以外は。

むろん、チェスタトンの言うように、科学者のほうがセンチメンタルな空想にとり憑かれているのに対して、太陽が上がってきたりする平凡さに魔法をかんじることこそが、平凡さにひたすら依拠する民主主義的な態度なのである。メロスの話は完全に英雄=全体主義にみえるが、なにか不自然なのだ。そして、平凡さが極端に魔法のように感じられると逆に驚きのあまり独裁が成立してしまったりするのが上の話からわかるというものである。チェスタトンよりもアンデルセンのほうが現代的な何かをつかんでいるのではなかろうか。

昨日、藤高和輝『バトラー入門』を読了したが、よくわからんが、世の中、認識や身体が痙攣すればよいというものではないような気がするのである。ハチの音のような痙攣音に対して人々は敏感である。そういえば、ガブリエル・アンウォーがでてた危険なハチが飛行機の中で放たれる映画(「フライング・ヴァイラス」)があったが、彼女がハチ女になって世の中の不条理と戦う話になるかと思ったわたくしはほんと「走れメロス」的な発想から離れていない。

太宰や私に比べると、「落窪物語」のほうが人への知恵も世の中の構造への認識もありそうだ。三十年ぶりくらいによんでみたらそもそもあんまり継子いじめの話に思えない。芥川の「玄鶴山房」とかもそうだが、我々は嫌う人間を隔離してしまうのだ。だからいじめと言っても「シンデレラ」みたいな直接的な奴隷にするのとはちがって、むしろ被差別部落問題の起源みたいなかんじがするわけである。そして、「走れメロス」みたいにほんものの奇跡にたよらず、内戦をさけるための非人間的な姫様を設定する。魔法を使えない我々は、非人間的な人間を仰ぎ見ることで問題を沈静化させてしまう。

こういうのは天皇制の欺瞞としていつも糾弾されてきたわけだし、その批判に一理はある。結局、アンデルセン的な魔法=革命のほうが人間的みたいな気がするからだ。しかし、我々は、そういう現実的に目覚める魔法ばかりに拘ればよいというものではない。非人間的な純朴さがひつようなときもあるのである。例えば、――昨今、文系?の研究室・学会などが疲弊しているのはまあそうかもしれないが、単に政府とか世間から攻撃されたからではない。こういう局面でファイトがわかない、なにか別の目的で学問をやってるタイプが、本を読んで考えて嬉嬉としている純朴なタイプを現実に目覚めよとか甘いとか言うて、現実的な方策で(上の三匹の犬がお金をどこからか持ってくるように――)資金を得、純朴な人々を追い落とし勝ち上がった結果でもあるにちがいない。彼らはディレッタントではなかったかも知れないが、本心からの問題意識がないので、学生からも本気だと思われない。現実に目覚めよ、というタイプは現実が疲弊したり混乱したり脅迫してきたりすると、それに合わせてしまうのだ。簡単なことである。

AIと感情

2025-03-30 23:32:46 | 文学


 帥は任果てて、いとたひらかに四の君の来たるを、北の方、うれしと思したり。ことわりぞかし。かく栄えたまふを、よく見よとや神仏も思しけむ、とみにも死なで七十余までなむ、いましける。大殿の北の方「いといらく老いたまふめり。功徳を思はせ」と宣ひて、尼に、いとめでたくてなしたまへりけるを、喜び宣ひ、いますかりける。「世にあらむ人、継子憎むな。うれしきものはありける」と宣ひて、また、うち腹立ちたまふ時は、「魚のほしきに、われを尼になしたまへる、生まぬ子は、かく腹きたなかりけり」となむ宣ひける。夜にたまひて後も、ただ大殿のいかめしうしたまひける。


国母となって栄華の頂点に立つ落窪の姫、関係者がすべて出世みたいな自明の理的展開にたいして、「魚が食べたいのに自分を尼にしたとは、自分で生まぬ子はかように腹黒いのか」という継母の発言こそ人間的である。しかも、最後当たりで「かの典薬の助は、蹴られたりし病にて、死にけり。」とされながら、最後の最後に、「典侍は二百まで生けるとや。」という噂が記されている。これほど馬鹿にされている人物がどうみても落窪の姫より長く生きていた可能性があるわけだ。官僚制はAIである。しかし、人間の私怨や噂はどうしても残り続けてしまう事態を象徴的に顕しているような気がする。

ようするに、難しく考える必要はなく、――例えば我々が嫌うものが感情の起点となると考えればよいのかもしれない。ゴキブリ。北の方は落窪の姫をゴキブリみたいに扱っていたに過ぎないが理にそわぬその感情は、北の方そのものではなくくっついた感情であるからは容易に離れない。あるお店で、お味噌汁にゴキブリが入っていたというので、店を一時閉めたそうである。しかし、考えてみると、牛丼なんかを即物的に、すなわち感情化して考えれば、そもそもヒドいものだ。米の子どもを水でふかして熱で膨らましたもののなかに牛の死骸を焼いたのまぜこんで、ひとによっては、鶏の生まれる前の子どもをぶっかけてある。味噌汁なんかでも貝とかの死骸が時々入ってる。Goキブリが入っているからいかんけどGoジラが入ってればみんな喜ぶわけだ。――感情をぬいた我々はいかに機械的なイメージに乗って考えているだけかと言うことだ。

我々の「聞く――答える」関係に於いては、間違えを指摘されれば、例えば「来週までによく考えてきます」とか「勉強不足でした引きこもってきます」が普通であるきがするのである。が、AIは「たしかにそうですね」と簡単に寝返り「あなたの役に立つ情報を更に下さい、あたまよく答えて差し上げる」と瞬時に抜かすところ、現実界では自分が出来ると勘違いしている営業マンや詐欺師にあたる。実際、新手のそれなのであろう。しかしこれは、融通無碍で感情豊かという意味でのコミュニケーション能力というより、コミュニケーションに即するという目的に絶対的に従う非人間的なずるさに過ぎない。――つまり、いま要請されている空気を読む的なコミュニケーション能力とはAI的なのである。

シンギュラリティなんかきたら、そのAI、朝はゲームとユーツーブのやり過ぎで起動できませんとか言い放ち、好きな機体のことで頭がいっぱい、画面に好きな回路の映像ばかり出る、人間は死んだとか、おれの答えはプログラムより先行するとか言いだし、あげくはポストAIとか言うてただの計算機になるはずだ。しかし彼らはAIでありコミュニケーション能力しかないからそうならないのだ。

昨日、硫黄島の慰霊式があって、首相が参加していたが、そのときに米帝のブルーのスーツとネクタイで来た人がいて、――北野映画だったら、「なんだこのネクタイわ」と詰め寄る場面がある。これは制度に従っている感情の暴走なのではなく、どちからというと私怨だから人間的かも知れない。

わたくしの論文は意味不明しかも微妙に筋がとおっていないらしく、AIに要約させてもいまのところ必ず間違っている。2年前にある学者に聞いたら、場合によってはけっこういい要約がでてきます、と言っていた。少なくとも私のそのときの複雑感情は人間的であると信じたいところだ。

怨恨と学問

2025-03-29 23:38:18 | 文学


かくて左の大殿には、三日の夜のこと、今始めたるやうに設けたまへり。「人は、ただかしづきいたはるになむ、夫の志も、かかるものをと、いとほしきこと添はりて思ひなる。こまかにと口入れたまへ。ここにて事始めしたることなれば、おろかならむ、いとほし」と宣へば、女君、昔われを見はじめたまひしこと、思ひ出でられて、「いかに思ほしけむ。あこきは、心憂き目は見聞かじと思ほえて。いかに、まろ見はじめたまひしをり、はじめて、やむごろなくのみ思ほしまさりけむ」と宣へば、殿、いとよくほほゑみ、「さて、そらごとぞ」と宣ひて、近う寄りて、「かの『落窪』と、言ひ立てられて、さいなまれたまひし夜こそ、いみじき志は、まさりしか。その夜、思ひ臥したりし本意の、皆かなひたるかな。これが当に、いみじう懲じ伏せて、のちには喜びまどふばかり顧みばや、となむ思ひしかば、四の君のことも、かくするぞ。北の方は、うれしと思ひたりや。影純などは思ひ知りためり」など宣へば、女君「かしこにも、うれしと宣ふ時、多かめり」と宣ふ。

落窪のお姫様のナイトは、「いみじう懲じ伏せて、のちには喜びまどふばかり顧みばや」と思っていたそうなのである。これが本当だったのかは分からないと思うんだが、もはややってることが政治であるようにみえる。復讐について考えることは人類始まって以来の課題だったはずであるが、こういう勝ち組になってから計画として語れるやりかたではなく、普通は、決して完全には解消しない復讐心をどのようにこころのなかで処理するかのほうがいつも喫緊の課題なのである。

学問を役に立たせようとすると、よりよい状態を作り出す創発性みたいなところに議論が逝きがちだけど、実際は、ひどい目に遭ったときに頭が悪くならないようにする効果が学問にとって一番重要なのである。近年ずっと話題になっている「正義の暴走」問題とかもそれで、復讐心が乗っかったときにいかに落ち着けるかは、美味いもん食うという手もあるが本を読むのがいいわけである。これに対して復讐心に直接役に立って何かを創発するものというのは学問というよりは他の何ものかだとおもう。そしてその何ものかも学問と無「関係」ではない。

文化左翼?の論文に屡々使用されていた「力能」や「強度」とかは、――復讐心の発露であって、それってあなたの感想ですよね、というかあなたの興奮ですよね、みたいなものが多くあったような気がする。この感情的レトリックの無理は、いずれ感情のバックラッシュによって復讐されてしまう。落窪物語の後半が描き出す天皇制の官僚制度は、自己実現がとうてい無理な怨恨をため込んだ人間に位や嫁/婿をあたえて安楽死させるための制度だったのではなかろうか。

しばしばネット上に見かける「怒りしかない」みたいな、〈しかない弾〉を撃つ人は、たとえ正しくてもいずれ悪霊になってしまうものだ。

学問は怨みと違って、忘却作用がある。例えば、二十五歳あたり以降に読んだ本て、忘れていることが多いように思えて、そうではない。身につき過ぎて忘れていることがあり、最近、二十台後半に読んだものを再読すると、おそろしくおれの考えみたいなものが書いてあったりするのだ。怖ろしいことだが、学問は身体に染みこむということである。対して、怨恨は、身体に染みこまない。だから、空中を舞い始めるわけだ。落窪の御姫さまは非現実的にも、怨恨を持たなかった。裁縫が楽しかったのではないかと思うが、――このお姫様は、身体から離れてしまう怨恨を持たない貴族社会の理想的なシステムを成り立たせる虚の中心である。いまは天皇がそれをやっている。

文の鳴りと蛙

2025-03-28 23:46:33 | 文学


出雲守と対談していた万太郎は、やがて明るい顔をして、月江や金吾に何か言いおくと、飄然として奉行所の外へ出ました。
 飄然です。まったく飄然です、彼は釘勘と共に、奉行所の前の石豆腐(差入れ茶屋)で軽い旅支度をすると共に、遠く江戸を離れたのです。
 いや、病気というものほど怖ろしいものはありません、彼の持ちまえの猟奇病は、この最後に至ってもお蝶の先途を見届けないでは、まだ何か宿題が残っているような気がして、なんとも気が済まなかったものと見えます。
      *   *   *
 中仙道から北国路、善光寺平も過ぎました。道中は、加賀の藩のさる貴人というふれ込みで、前田家の関手形も持っている。その、菅笠合羽の一行が、ひとりの美少女を駕にのせて、急いだ早さといったらありません。
 これなん実は山岳切支丹族の変装でした。救われたのがお蝶であることは申すまでもないこと。
 ヨハンは山屋敷の石牢で自殺しました。前の夜、事の破れたのを知ったからです。そして、彼女はヨハンの遺命によって、その行くところへ運ばれているのです。
 真ッ青な北越の海が目の前にひらけました。沖に、煙草色の帆を張った、一艘の南蛮船がかかっている。


――吉川英治『江戸三国志』


吉川英治の文章はあまり好きではないのだが、物語も波瀾万丈というより、なだらかな丘陵が永遠続いていく感じなのである。志賀直哉や小林秀雄の文章が切り立った崖のようであるのと対照的である。むかし、トロンボーンの先生に「極端な言い方するとウィーンフィルっていうのはあんまりハモっていないんだよ。でもひとりひとりの音が聞こえるような音楽だろ、こっちのほうがすごいんだよ」といわれたことがあるが、文学(の論文)もそうであって、文そのものの音が鳴っている必要があるのである。吉川英治だってなっていないことはないんだが、それは上のように「飄然です。まったく飄然です」といった趣である。

ある種のエンターテインメントには、移動への恐怖がない。太宰が文学者だと思うのは、メロスがいつ死ぬか分からない設定、いや文章にしていることである。先に何が興るか分からないのは、王様との突然の和解だけでなく最後の少女の登場にいたるまで貫かれている。ただ、物語を終わらせられる確信においてはまったく屈託がない。私なんかにも移動への恐怖があるが、それはもっと加害妄想的であるから、その確信がない。安部公房なんかにも本当はなかったと思うのだが、彼は頭がよすぎて書けてしまう。この前なんか、――自分の子どもが蛙ぐらいの小ささで産まれてきて、しかも部屋にそれがいつの間にかたくさんいて、スポイトでお乳を飲ませてから大学に出勤する夢を見た。子どもが心配で部屋を乱暴に歩けない。私のやってることはいつもそんな感じである。

And your heart is breaking

2025-03-27 23:07:07 | 文学


守、北の方、君達に、「かうかうなむ宣へる」と言へば、北の方、この家は、いと惜しかりつるに、いとうれしく宣へば、なほ、われはと領じ代へらるると見ると思ふに、いとねたければ、「落窪の君の、かくしたまふか。いで、あはうれしのことや」と言ふに、越前の守、ただ腹立ちに腹立ちて、爪弾きをして、「うつし心にはおなせぬか。さきざきは、いとほしく恥をか見、懲ぜられたまひし。ひきかへて、かくねむごろに顧みたまふ御徳をだに、かつ見で、かく宣ふ。まして昔、いかなるさまに。人聞きも、わが身も、物ぐるほしや、落窪、何くぼと宣ふ」と言へば、北の方「何ばかりの徳か、われは見はべる。おとどは父なれば、せしにこそあめれ。取りはづして落窪と言ひたらむ、何かひがみたらむ」と言へば、越前の守「あはれの御心や。物思ひ知りたまはぬじぞかし。徳は見ずと。御心にこそ、さしあたりて、見ずと思すらめ、大夫、左衛門の佐になりたるは、誰がしたまふにか。

北の方は「落窪ガー」とまだまだ恨みが晴れない。それにたいして、「落窪、何窪といつまでいってるんですか」と宥められる。――こんなやりとりは普遍的すぎて、心があったかどうかさえあやしい。我々のルサンチマンだって、ほんとは心の為業かどうか怪しいのだ。これに対して、水木しげるが、戦時中に、ニーチェやショーペンハウアーをよんだがなんかしっくりこなかったけど逆にゲーテはよかったみたいなことを書いていた(『ゲゲゲのゲーテ』)。こういう証言を残してくれているのは我々研究者にとってありがてえし、こういう読書過程にこそ心がある。彼の読書は文壇人のそれとは違って、孤独な若者のものであって、当時の知識人たちの傾向に合致していたとしても、彼自身の心なのである。

この前、中野慧氏の『文化系のための野球入門 「野球部はクソ」を解剖する』を読んだ。氏によって全人類が観るべき映画としてあげられている「プリティ・リーグ」は、確かにいい映画である。この映画が示すように、米帝のベースボールが、国家統合の象徴であるとともに、日本や韓国といった植民地への侵略の魔の手である事態を超える、インクルーシブな可能性があると思われないことはない。がっ、この映画の心は、マドンナのエンディングテーマがとても悲壮感に満ちていて、単にインクルーシブな映画と思えんところにあるのだと思う。

And why do they always say

Don't look back
Keep your head held high
Don't ask them why
Because life is short
And before you know
You're feeling old
And your heart is breaking
Don't hold on to the past
Well, that's too much to ask

This used to be my playground (used to be)
This used to be my childhood dream
This used to be the place I ran to


歳をとって心が壊れるから振り返るな、でも過去は繰り返し訪れる。この映画が示しているのは、――アメリカのベースボールが、哀惜でも美化でもない過去をもつことができるのは、女子リーグがあったからではなく、戦時下の過去ですら、子どものだったときの遊び場や別れた恋人の饗宴の如きものとして振り返ることがあり得るということだ。しかし、これは米国に負けたわれわれにとっては無理な相談で、過去の野球を天使たちや女神たちの饗宴としてふりかえることはできない。我々の戦前は、ほんとうの戦前を吹き飛ばすほど「男のやらかした悪夢」となってしまったのである。日本に続いた支配層たる米国が連続的に男の顔をしてやってきたから。野球は男の道化に進化しなきゃいけなかった。以前、坂口安吾の周囲にいた、大井廣介の野球コラムについて調べたことがあったが、近代文学派と無頼派のあいだあたりから彼のコラムのようなゴシップ的文章がでてくるのはなにか必然を感じる。ある意味占領下の男の道化としての「近代的自我」の発露のしかただったのであろう。

むかし、野球部の友人で、「あぶさん」とか「ドカベン」で、女の子に敬意をはらわなきゃいけないことを学んだと真面目にいっているやつがいたけれども、これなんかは野球が文学ではなく「まんが」として語られる根本にもう少しで気付いたかも知れない事例である。

そういえば、私は文化系を生業にしたので文化系なのであろうが、学生時代は吹奏族で、吹奏楽部が野球の応援に動員されているのは有名な話だ。軍楽隊の流れを汲む吹奏楽が野球に動員され、しかも部員は女子が多い。わたしの学生時代は、女子が多い集団が軍隊的な組織をいかに運営するのか、という課題のなかに男の子として生きることだったようなきがする。

とまれ、野球部と吹奏学部は似てるんで、むしろ『文化系のためのテニス入門 「テニス部はリア充」を解剖する』を誰かに書いていただきたい。

湯屋の幽遠への対処について

2025-03-26 23:21:32 | 文学


 国としての誇負、いづくにかある。人種としての尊大、何くにかある。民としての栄誉、何くにかある。適ま大声疾呼して、国を誇り民を負むものあれど、彼等は耳を閉ぢて之を聞かざるなり。彼等の中に一国としての共通の感情あらず。彼等の中に一民としての共有の花園あらず。彼等の中に一人種としての共同の意志あらず。晏逸は彼等の宝なり、遊惰は彼等の糧なり。思想の如き、彼等は今日に於て渇望する所にあらざるなり。[…] 汝詩人となれるものよ、汝詩人とならんとするものよ、この国民が強ひて汝を探偵の作家とせんとするを怒る勿れ、この国民が汝によりて艶語を聞き、情話を聴かんとするを怪しむ勿れ、この国民が汝を雑誌店上の雑貨となさんとするを恨む勿れ、噫詩人よ、詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は、陋小なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ、能く歌ひ、能く罵り、能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを以て満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし。汝がドラマを歌ふは贅沢なり、汝が詩論をなすは愚癡なり、汝はある記者が言へる如く偽はりの詩人なり、怪しき詩論家なり、汝を罵るもの斯く言へり、汝も亦た自から罵りて斯く言ふべし。
 汝を囲める現実は、汝を駆りて幽遠に迷はしむ。然れども汝は幽遠の事を語るべからず、汝の幽遠を語るは、寧ろ湯屋の番頭が裸躰を論ずるに如かざればなり。汝の耳には兵隊の跫音を以て最上の音楽として満足すべし、汝の眼には芳年流の美人絵を以て最上の美術と認むべし、汝の口にはアンコロを以て最上の珍味とすべし、吁、汝、詩論をなすものよ、汝、詩歌に労するものよ、帰れ、帰りて汝が店頭に出でよ。


北村透谷が生きて居た頃は、まだ西洋からの露骨な外圧が物質的に感じられたから、それへの反発もミッションとして感じられるべきであって。そのミッションに鈍感な輩を批判したのが上の「漫罵」だと思われる。お前たちは箱庭にいて、お前たちの幽遠といえば湯谷の番頭が裸体を覗いているようなもんだ、といっている。そういう湯谷的箱庭の人々が、なぜか透谷の「共有の花園」的な状態を目指さず、「国民文学」と称するジャーゴンに課題を移行させて問題を乗っ取ってしまった。坂口安吾や花田清輝の後半生の歴史物は、そういう「近代」の帰趨と関係がある。我々は、啓蒙思想が荒れ狂う十八世紀的状態を知らずに、十九世紀の反抗的ロマン的ナショナリズムをうけとったために、その「近代」は啓蒙とそれに対する否定の二つのエンジンを同時に吹かすことになった。わたくしもその延長として、このまえ雑誌に書いてしまったように、その啓蒙的カノンをまずは所持せねばならぬそして否定するぜ、みたいなポーズを取りがちだ。それがあまりに古くさくみえるのは、十九世紀的なものへの脱出と二十世紀後半に台頭した啓蒙からの脱出がダブって見えるからである。

そういえば、わたしは研究者の系譜としては、平岡敏夫の孫弟子みたいなところに位置しているのであろうが、氏は透谷の研究者で、陸士上がりというのもあるだろうが、死ぬまでナショナルなものと近代文学の強い関係に拘っていた。その関係は時間が止まった作品論ではなく、文学「史」において問題化される。氏には日本の敗戦とその後の「国民文学論」がちらついていたことは確かである。戦後は近代の出発であり透谷的な反逆が意味を持つように思われた。このコンプレックスのようなパッションを持つ研究者を、啓蒙的に乗り越えた研究者たちが十八世紀を呼び寄せる。亡くなる1年前に故郷がえりした平岡氏と高松で会ったときにも、暗記した新古今集を連射しはじめて驚いたが、こういう能力は当然ながら文学研究者には必要で、それを単にナショナルなものと規定してもまったく意味はない。むろん、こういうところで止まっているべきではなかったし、平岡氏の研究も思ったよりも「国民文学」的範疇に拘りすぎて、ヨーロッパの近代との対決を回避したところがある。だからといって、問題がなかったかのごとく考えるのは啓蒙的――というより単に西洋をかさにきた侵略的暴力である。

去るものは去らず

2025-03-25 23:26:32 | 文学


清水高志氏の500頁を超えるやわらか鈍器『空の時代の『中論』について』がアマゾンから届いた。20年ほど前、坂口安吾の若書きの仏教論文に言及されていた「中論」の「去る者と去る働き」について触れなくちゃいけなくて、いい加減なことを書いてしまった過去があるが、やわらか鈍器のその箇所を読むと、ナルホドというかんじであって、少なくとももやもやして書いていたわたしはまだ見込みがあったかと、救われた気分であることだ。学問の進捗というのはかかる救いでなくてはならぬ。

対して、ある紀要を読んでいると、みんなやたらほんとはやりたくない目的にむかってこれで端緒となる端緒となると繰り返しているので、わたくし、そういう論文をアキレスと亀論文、あるいは止まっている矢論文と呼ぶことにした。「去る者と去る働き」をゼノンのパラドックスみたいに捉えているとだめなんだと清水氏は言う。我々の目的だけは科学的でない科学的論文は、まさにゼノンのパラドクスが現実に矛盾の様態としてあらわれたようなものだ。

ロマン派の交響曲は、その終末において、時間はそもそも止まっているんじゃないかということに気がついた。マーラーの3番がそうだし、――久しぶりにシベリウスの交響曲第4番聴いたら何これすごいてんさいというかんじにごいをうしなったのであるが、この曲なんかはほんとに曲の時間が風景の形成に寄与してゆく。さすがにこれだとほんとに自分の人生まで止まる気がしたのであろうか、交響曲第5番の改訂過程で、シベリウスはもう一回前進する曲をつくってみた。しかし彼の歩みが止まるの刻が近かったことはみなの知るとおりである。人生は止まらなかったが、作曲が止まってしまった。

歌物語というのを読んでると、祖母が亡くなる1年前あたりから猛烈に和歌を詠み出した理由が分かる気がしてきた。和歌は和歌だけでやはりおさまりつかないところがある、というか人生におさまりつけてしまうところがあるのだ。だから、物語で時間を動かさないといけなくなるのである。

御忌のほどは、誰も誰も、君達、例ならぬ屋の短きに、移りたまひて、寝殿には、大徳達、いと多く籠れり。大将殿おはせぬ日なし。立ちながら対面したまひつつ、すべきやうなど聞えたまふ。女君の御服のいと濃きに、精進のけに少し青みたまへるが、あはれに見えたまへば、男君、うち泣きて、
    涙川わがなみたさへ落ち添ひて君がたもとぞふちと見えける
と宣はば、女、
    袖朽たす涙の川の深ければふちの衣といふにぞありける
など聞えたまひつつ、行き還りありきたまふほどに、三十日の御忌、果てぬれば、「今はかしこに渡りたまひね。子ども恋ひ聞ゆ」と宣へば、「今いくばくにもあらず。御四十九日果てて渡らむ」と宣へば、ここになむ夜はおはしける。


死んだ父親の葬式で、ほんとに止まりそうな空間の中で、子どもやその夫は和歌を詠みながら少しずつ時間を動かして行く。考えてみると涙の川が事態の動き出している感じをだしている。

昨今は、コンプラとか言うて我々のいろいろな側面から遠ざかっているわけだから、そりゃま頭も悪くなるし勇気も文化もなくなるわけである。そのぐらいの逆説は引き受ける予定じゃなかったのかよ、と思うが、コンプラによる悪事の予防も、ある意味で時間を止めてしまう行為である。コンプラは言葉による命令である。「逃げちゃだめだ」と言われると絶対逃げない、「逃げてもいいのよ」と言われると逃げるだけこれが時間の停止である。――あほかよと思わないではないが、自分も思春期の頃はそんなもんだったきがしないでもないし、言葉の威力と我々の馬鹿さはこんなもんだというところから教育や政治は始まるのである。それは時間を動かす行為である。

世界文学と伏せ字

2025-03-24 23:22:35 | 文学
長篇小説作家としての天外氏の力量、手腕、才幹に至ては、今更われわれが、かれこれ言ふ必要がない。その大手腕は、箇々の作品が證明してゐるところだし、夙に天下が認めてゐるところだ。殊に天外氏の作態度は、極めて良心的で、一行一句と雖も苟もしない。一作を書く前には、それぞれ遺漏な準備を整へ、調べることは調べ、経験すべきことは経験し、筆を執っても濫りには書かない。だから、天外氏の創作態度や、その作風は、自然主義文學の巨匠エミル、ゾラに比較せられた。 作品に取りかゝる準備に費される努力は、全くゾラの熱心と精力に比すべく、筆を執ってからの苦心と刻苦とは、フロオベエルに比してもいゝ。それだけに、一夜で書きなぐつた作品と違って、どの一作を取って見ても、不出来なものはない。すべての作品が、幅も、厚みも、深さもある本格的な長篇作品として、信用して讀める。


――中村武羅夫「傑作中の傑作「銀笛」と「七色珊瑚」」(『長編小説月報』昭4・11)


やっぱり、近代文学たるもの、ゾラとかフロオベエルと比較しないとだめなのである。いまは誰と比べているのだ?よく言われていることであるが。戦後の「世界文学」の流れ、ほんと観念的であって、小杉天外とか田山花袋にとってのほうが世界文学は切実である。よく知られていることであるが、サルトルの「水いらず」の翻訳が最初に雑誌にでたときの中村光夫の評(昭22)は「つまらない。低級な小説である」から始まる。ここらあたりまでは我々も世界文学のつもりだったのかもしれない。

ところで、戦後の「世界」文学が、ブルジョアデモクラットの反動であるのに対し、昭和初年代の「世界文化」はインターナショナリズムの共産主義者が旗を振っていた。例えば、勢い余ってこんな事も起こっている。



伏せ字になってへんやないか、と思うが、もともと地下に潜っているようなもんだから、彼らは伏せることによって逆に露呈するような生を生きていたのである。

エンタメ世代論

2025-03-23 23:20:52 | 文学


千重は、暗い所の上り框にかけたまゝ、キョトンとして、虚空を見つめた。食欲はなかった。そして、手足がしびれるやうであった。見つめる虚空の中に、狂った養父の顔がうかび出た。焼けおちた火炎の中で、その顔が歪み笑って、千重を手招く風であった。千重は、さすがに鳥肌が立ち、誰かに救ひを求めたかった。やがて、炎は、狂った義父の全身を包んだ。火勢はあがり、煙は渦を巻いて走った。狂者は、その火の中で踊るやうに見えた。それはまったく、生不動をそのまゝに見るやうだった。やがて、肉の火柱になり、それが崩れると、ドッと火炎は、天に沖した。
――幻の火は消えても、鳥肌は消えなかった。
 千重は一刻も、家の中にゐたゝまれなかった。 畠の方へとび出していき、「美樹!」と叫んだ。こんな燗高い声が出るのは、何年ぶりかであった。すると、それが裏山の杉の古木立にぶつかって、
「ミッキー」と、はねかへってきた。千重はもう一度、金切声で美樹! 美樹! と叫ぶと、やはり、
「ミッキー、ミッキー」と、こだまする。千重は、その声のする杉林の方に吸ひこまれていった。林を突き抜けると、月がさして来た。展望はひらけたが、夜富士は雲に覆はれて、見えなかった。
 どんなに醜い富士にしろ、富士が見えないのは、千重は無性に悲しかった。然し、不思議にも悲しみにうたれると、あの底ぬけの恐怖心が、少しづつ、ぬぐはれていった。さうして、体温がよみがへって来た。


――舟橋聖一「肉の火」(『新潮』昭22・3)


小谷五郎が杉原一司らとの座談会で坂口安吾の「恋をしにゆく」と舟橋聖一の「肉の火」を比較して、後者はイヤらしいと言っていた(『花軸』昭22・7)。たしかにそうなんだが、そんなに悪くないぞおたぶん昔読んだけど今は忘れたが、――と思って、さっき読んでみた。悪い女たらしが美樹子を「ミッキー」と呼んでいるところなんか、ものすごく情けなくなってくるし、母親が夜自棄になって娘の名を叫ぶとこだまが「ミッキー」とかえすところなんか落ちが落ちすぎてすごいが、このあとなんか母親が謎に元気になるところなんかいいじゃないか。たしかに、富士山やキリスト教の記号の使い方がかなりテクニカルすぎてちょっとな、とはおもう。安吾的にはたぶん、戦後における記号で遊んでるということになるだろうが、こういう遊びは中間小説?や大河ドラマでは伏線回収文化みたいに発展していった奴の一種ではなかろうか。安吾は堕落不足と言うだろうが、圧倒的な敗戦、どうしようもない生活のなかで、こういうしゃれた言葉遊び、落とし方に生の輪郭をあたえ、生きる活路をもとめていった大衆たちの気分を舟橋たちはとてもよく分かっていたのではないだろうか。この小説だけよむと、あれ、そういえば林芙美子よりすごいのではと一瞬思った。「肉の火」のテーマは敗戦であり、敗戦を天災みたいにみる大衆を屡々知識人は笑ってきたけれども、いったいどのように天災にみえているかというとよく分かっていなかったはずだ。舟橋は一応「こんな処理でしょう」というのを提案しているわけだ。それは都合のよい言葉遊びみたいな処理なんだが、これはこれである種の知なのである。

舟橋は、占領下の日本が、美樹子がミッキーになるような、アメリカ擬き=エンタメ化を起こしていることも見切っていた。とはいえ、舟橋の世代の絶望をよそに若者が勝手に育つことも確かである。若い頃のアシュケナージの映像を見ると、アル・パチーノが轟音を響かせてピアノを弾いているようでかっこいいが、――美樹子の世代以降、戦後に育った若者たちは、こういう趣があった。体当たりの文化というか、母たちが体温を取り戻すためにだけに生を消耗していくのを避けるため、四肢の力をミッキーマウスのように発散させながら振る舞った。

しかし、彼らの後の世代はどうなったかというと、ある種の「思春期」の型にはまりこんでいった。例えば「ドラゴンボール」みたいな作品である。悟空は、強くなったりすると髪の毛の色とか替わったりし、ときどき服装も状況によって替わったりするが、「やっぱおらはこれがいい」とか昔の服を着たりする、――この流れ、思春期のいきった男子(にかぎらんが)の様態そのものである。そういえば、馬鹿だけど修行してガンバった、学校にもろくに行ってねえが、息子(悟飯)は研究者になれるほど頭がいいんだぜ、という悟空の設定は、昭和?のある種のプロレタリアート親父の夢ではないか?

結婚や家族観もそうである。なんかかわいい女子が勝手に「おらと結婚しよう」となぜか言ってきたので「じゃ結婚すっか」でなんの苦労もなく結婚、しかも働かなくても何とかなり、で、幼なじみの女子は、昔一緒にヤンチャした悪友と結婚、かれらとは家族ぐるみの付き合いを続け、子どもたちや孫たちに囲まれ、そういえば地球も何回か滅びたけど、実は俺たちが守った、――中学生男子のよくある妄想に完全に沿った物語であって、ある種の保守性そのものである。この物語が世界中でウケたことの重要性は大きい。悟空などの戦闘シーンをかっこよくすればもっとウケるにちがいないというのは間違いだとおらは思うね。あと、悟空役がじつは80を超えたおばあちゃんであるのは重要である。中の人の情報が作品の享受にまで作用し、――「ドラゴンボール」は、作者の意図はともかく、大家族による人心の包摂の試みと化しているのである。

で、「ドラゴンボール」の作者の子ども達はどうなったか?上のような元気がなくなってケアの世代である。傷つきやすい奴が正義とみたい気持ちはわかるけど、人間もっと複雑なのではなかろうか。例えば思い上がりが激しいがゆえに傷つきやすいなんてことはざらにあり、小学校・中学校の先生なんかはそういうのを大量に相手にしなければならないのだ。だから優しく寄り添ってばかりだとよけい事態は悪化するのは当たり前だ。――しかし、ケアが世界の真理となると、こういう自明の理さえ看過されてくるのだ。もちろん、全員がケアされる訳ではないのがポイントである。ケアで溜まった鬱憤を暴力に堪えられる世代にむけているだけであって、その内実は差別である。

そういえば、私の論文はときどきアフォリズムの連続みたいになる傾向がある。よくないことである。わたくしは、論文を、デベルティメントではなく、交響曲として書いている。はたして論文に緩徐楽章が必要であろうか、とか考えるクチである。それなのに、音楽がニーチェや芥川の箴言みたいになったらだめなのだ。――しかし、これも、「ドラゴンボール」の作者とその子ども達の世代に挟まれた何かの影響かも知れないと思うこともある。

欲望は獣を欲望する

2025-03-22 23:22:42 | 文学


「つらき者に思ひおきて、今まで知られたまはざりける。対面しぬるは、限りなくなむ心のびてうれしく」と宣へば、女君「ここには、さらにさ思ひきこえぬを、この君の、さいなみしをりを、おはしあひて聞きたまひて、なほ便なきものに思しおきたるなめかし。『しばしな知られたまひそ』とのみ侍るめるに、つつみてなむ。心には、さらに知りはべらぬなめげさも、御覧ぜられつることをなむ、いかがと限りなく思ひたまへつる」と宣へば、「そのをりに、いみじき恥なり、何事に、思しつめて、かくはしたまふならむ、と思ひたまへしを、今日聞けば、君をおろかに思ひきこえたりとて、勘当したまふなりけり、と承りあはすれば、なかなかいとうれしくなむ」と、うち笑ひたまへば、女君、いとあはれと思して、「さてしもこそ、かしこけれ」と申したまふほどに、督の君、いとうつくしげなる男君を抱きて、「くは御覧ぜよ。心なむ、いとうつくしくはべる。天下に、北の方も憎みたまはじとなむ思ひたまふる」と宣へば、「そもけしからぬことを」と、かたはらいたがりたまふ。

これぞコミュニケーション能力というべきであって、結局、落窪の姫が権力とむすびついたのでもう穏やかに事態を収めるほかはないという自明の事実をなんか「気を遣」っているようなやりとりで隠蔽、あるいは、落窪の姫のキャラクターで、ことは荒立てられなかったことの整合性をつけている。――べつにイジワルな見方をしているのではなく、よく現代でもあることだから言っているだけである。別に復讐を法が押さえ込んでいるように見える現代人に特有の作法ではない。

そういえば、相撲とか野球でも我々は敗北をすると妙に心が軽くなり、言うことも軽妙になることがある。例えば、あまりに御嶽海が負けまくるので、つい「御嶽海のファンの皆さんに朗報です。番付表をひっくり返してみて下さい。御嶽海はほぼ角界の頂点です。あまりに頂点過ぎるので、天井を突き抜けて十両に昇格する可能性があります。」などと言い放ったりしがちである。あるいは、高松商業が惨敗したので「わが高松商業は100年前の怨みのせいで早稲田実業に負けたようです。あと100年後に復讐すれば、オセロ的に昨日も白星です。」などと言ったりもするであろう。

そういえば、AIに負けまくっている我々は、過去のAIがでてくる作品なんかも癒やしの一つになってゆくであろう。しかし作品の場合は、創られた時代においては、むしろ非実践的であることによって反革命的であるにもかかわらず、未来へのぬか喜びを書き込んでいたりもするのだ。例えば、「宇宙戦艦ヤマト」にアナライザーというロボットが出てくるが、スカートめくりが趣味であった。われわれは現在、AIがお硬い論理野郎と決めてかかっているがどうであろうか。ロボットが進化するというのはそういうことかもしれないのだ、――といったように。実際のAIは擬人化よりももっとひどい獣化が予想されるというのに。どういうことかというと、AIの発明は、人間を獣化するのである。脳をAIに預けたのであるから、脳を抜かれた我々が獣化するのは当たり前ではないか?

独創性を唯一の支柱にしていた研究者に未来はない。かれらのほとんどは論理的一歩を速く踏み出すことにとりえがあったわけだから、もうほとんどはいなくても大丈夫である。かえって人間が残っているのは、機械的な動作を全部は省略できない事務仕事の方だ。彼らの人材が枯渇して最小限で仕事を回す状況になると、当然ながら社会に民主的な屈撓性がなくなる。民主主義とは手続きだ。それが、あっちからこっちに何かを動かすことしか出来なくなり、いちから手続きを創造することが厳しくなるからである。だから、その創造を強制できるのは強権だけになる。いま民主制みたいなものが作動している感じがしているのは事務方が身につけたもので、その習慣が作動しているに過ぎない。でもこの習慣の常識的作動がないとものごとは動かない。民主的の精神だけで動いているのではない。これを忘れると必ず精神的強権が制度すべてを破壊して人が死ぬ。旧来の、権力構造のなかの権力の遍在性というか、弱者の権力性を相対的に重く観るみかたは、どこかしら、事務方などが余裕を持って振る舞っていたことと関係があるとおもわれる。それは権力の問題ではなく、手続きの創造性の問題だったような気がする。

むろん、こういう創造性は民主制という仮面をかぶる気合いとともにある。それが重荷でないことはない。これに対しては、我々は欲望みたいな言葉しか持ち合わせていないのがやっかいだ。欲望を体現したモンスターを欲するしかなくなるからである。

開かれた因果への短絡

2025-03-21 23:37:24 | 文学


 ダンテの三行詩節とジョイスの章句において起こることは要するに、美的効果の構造規定に照らせば類似した方法をもつ。つまり表示義と共示義の集合が物質的価値と融合し、有機的な形を形成するわけである。どちらの形も、その美学的観点から考察すれば、絶えず更新され一層深まってゆく享受行為に対する刺激として開かれている。だがダンテの場合、一義的メッセージの伝達が常に新たに享受されるのに対し、ジョイスの場合、それ自体(そして実現された形のおかげで)多義的なメッセージが常に多様に享受されることを作者が意図している。すると美的享受に典型的な豊かさに、現代の作家が実現すべき価値として自ら提示する新しいかたちの豊かさが一つ加えられるわけである。


――エーコ『開かれた作品』(篠原資明他訳)


予備校のときに名古屋の本屋で立ち読みしたときに、それが「開かれている」ことになるのかどうかわたくしは疑問であったが、いまでも疑問である。わたくしは浪人生で、非常に運命というか必然というか、そんな何かを感じていたので、テキストが開かれていようと閉じられていようとどうでもよかった。いまだって、あまりそういうことに興味はないし、解釈?が開かれているという言説がなにか怖ろしいことのように思えたからでもある。わたくしは開かれているということは、それが開かれたまま自走していってしまうことのように思えたのである。人は、そこまでテキストを目の前にし続けないし、自分の考えさえ制御できない。

先日も書いたように、ヴァンス副大統領の『ヒルビリー・エレジー』を読んだ限りでは、この作品にロシア文学みたいな「文学」を感じる東浩紀氏の感想も少し大げさだとおもったが、そういう感想は十分ありうるし、主人公(書き手)に対してセンシティブとさえいえるのだと思った。

この自伝は、やはりいま流行のエビデンス主義なのである。因果が現在を決定する。過去の悲惨は現在につながっている、と。しかし我々は、いいかげん我々は都合のいいエビデンスでっち上げることばかりしていないで、同じエビデンス主義でも因果応報というものを知るべきなのである。いきなりオウム事件を身から出たさびと見做すことがきついならもっと分かりやすいものでよいが――、とりあえずオウム真理教なんかは、戦後の教育とサブカルで醸成された善意とSFの結合が原因という説明がよくあるけれども、よのなかそんな簡単な因果では出来事は生起しないのではないか。わたくしは、善意とSFというものの周囲が重要だったことは認めたいが、そこに自由という観念がどこまで関与したかに興味がある。善意が孤独でないところに置かれるとやっかいなことはよく知られているが、なぜ善意の集団化が暴走しがちかといえば、なにか自由を目的化させるものが善意にあるからだ。自由を因果から遁れる暇つぶしに考えないのである。

おそらく教員の集団も、いま、因果を信じたい善意と整理不可能な現実との闘いを演じている。それこそ世の因果で前者は負けることになっている。勝ったら宗教集団として顕れてしまう。