石井信平の 『オラが春』

古都鎌倉でコトにつけて記す酒・女・ブンガクのあれこれ。
「28歳、年の差結婚」が生み出す悲喜劇を軽いノリで語る。

絶望の時代に歌われたのは「希望の島」だった

2009-08-18 08:07:08 | 音楽
同志社グリークラブ創立百周年に寄せて

石井信平


日本人にとって戦時歌謡や軍歌は常に懐かしい。いつのまにか、それらの歌は、この先どこへ行くのか行方が知れない日本に、束の間の「元気」をくれそうな状況になってきた。

 今や圧倒的な少数者となった戦争体験者の一人を神戸に訪ねた。私がかつて在籍した同志社グリークラブの先輩だ。この人は戦時中の若者には珍しく、軍歌のたぐいを特別に嫌った。「音楽の根源にあるものは何か、当時そればかりを考えていました」

 今年、創立百周年を迎える男声合唱団「同志社グリークラブ」の第16代学生指揮者だった遠藤彰(84)はそう語った。日中戦争は泥沼化し、日米関係が悪化の一途をたどっていたころ、合唱の世界も、信時潔の「海ゆかば」や「海道東征」など戦意高揚ものしか歌えない空気が充満していた。「同志社グリーだけはミサやモテットを静かな透明な演奏で歌い、際立っていました」

 しかし、昭和15年に、あこがれて入学した遠藤は、キリスト教的自由主義のシンボルであった同志社も、時代の中でひとり楽園ではありえないことに気づく。すでに昭和12年、同志社高商では「神棚事件」がおこっていた。剣道部道場の神棚をめぐって、クリスチャンの湯浅八郎総長は配属将校団と対立して退陣した。学内には「国防研究会」が勢力をのばし、「愛国教授」たちが跋扈していた。

 昭和16年1月、遠藤は学生指揮者に就任する。選んだ曲はシューベルトの「ドイツ・ミサ」、メンデルスゾーン「ベアティ・モルトゥイ」、詩篇「新しき歌もて」など。そして、繰り返し歌ったのが「希望(のぞみ)の島」だった。

 「本当に声を出して歌えるのが嬉しい歌でした。よく歌ったものです。何かを訴えている、我々の心を奮い立たせるものがありました」

  遥か隔つ海の彼方に
  波風静かに
  四時花咲き薫りは満つ
  あわれこの島よ
  希望の島、希望の島
  ものみな足り満ち、陽は落ちず
  花散らぬ、喜びの常世辺(とこよべ)

 オイッチニの2、4拍子が全盛の頃、珍しい3拍子で、破調のシンコペーションもある。「センスのある、歌おうとしている背後に、何か別のものを歌っていました。学生にとって、この歌は一種の黙示録でした」

 満州事変以降の「総動員体制」が若い世代を追いつめていた。学生の特権も卒業と同時に奪われ、戦地に召し集める「赤紙」が待っていた。

 「命令を出すのは天皇であり、いくら抵抗してもダメという雰囲気が大学を支配していました。黙示録だと僕が言ったのは、ヨハネ黙示録は紀元1世紀、ローマ帝国によるキリスト教徒への弾圧の中で書かれました。あれは、普通の人が読んでも信者以外には分からない。何を訴えたいのか、歌うものだけが分かち合えたのがあの歌でした」

 遠藤自身は昭和17年10月に繰り上げ卒業。直ちに本籍地の福島県会津若松の連隊に召集され、総勢260人の幹部候補生の教育を受けた。戦友たちは次々に南方へ送られていった。遠藤は本土決戦のために最後の6人に残され、敗戦の日を迎える。戦後、彼は同志社大学神学部教授となり、広島女学院院長の名誉ある地位を得た。

彼の戦後の業績で特筆すべきは、ヨーロッパに留学して「新約学」学び、豊富な人脈をつくり、1983年から92年、4度にわたり後輩のグリーメンたちを欧州演奏旅行に引率したことだ。大聴衆を前にケルンの大聖堂で歌い、ライプチッヒの教会でバッハの真髄に触れたとき、遠藤と若いグリーメンたちは、まさに世代を越えて「音楽の根源」に触れたのである。

 戦死したグリーメンで忘れられない人は? 

 私の質問に彼はしばらく絶句して言った「一番仲がよかったテノール、明石出身の神学部学生で南方に向かう輸送船が撃沈され、海の底で死にました」。彼は「希望の島」にたどり着けなかった。

 その島は黙示録であり、現実にはあり得なかった。莫大な数の兵士たちが上陸したガダルカナル、ニューギニア、レイテなど現実の島々には、ひどい殺戮と、戦友を殺して肉を食いあう飢えが待っていた。兵士たちは国策の被害者では済まなかった。現地の人々にとっては加害者でもあった。 

「希望の島」はグリークラブでは長く忘れられていた。しかし、去年の定期演奏会でアンコール曲として現役グリーメンが歌ったのは、実に60年ぶりのこの曲だった。「あの頃と状況が似てきた」とはよく聞く。若い、鋭敏な神経は今どんな時代状況を感じ取っているのだろうか? 再び「黙示録の時代」が来るのであろうか?

 10月10日、京都での「同志社グリークラブ百周年」記念フェスティバルで、生き残った遠藤たちの世代は戦死した仲間たちへの鎮魂の歌として「希望の島」を歌う。決して「懐かしい」からではない。(敬称略)


2004年8月27日 朝日新聞・夕刊 文化・芸能欄に寄稿


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