正太 「「怒りの毒」が原因で堕ちる代表的な地獄には、もう一つ「火焔地獄」というところがあるんだよ」
勇二 「とにかく、名前からして凄いよね。こんなところには、絶対、お世話になりたくないな」
正太 「この地獄は、この世に生きていたときに、「怒りの炎で他人を焼いてきた人」が堕ちる地獄なんだ。他の人たちを焼き焦がした怒りの炎によって、自分自身が焼かれている地獄なんだよ。
地獄っていうところは、よく言われるように「暗い」世界なんだけど、それ以外の一般的な特徴は「寒い」ということなんだね(だから、地獄霊がやってくると、たいてい寒気がして鳥肌が立つんだ。悪霊がいると実際に部屋の温度が下がるようなこともあるんだよ)。
ところが、この火焔地獄は全く逆なんだ。全身火だるまになりながら、焼ける苦しみで人々が絶叫している世界なんだよ」
勇二 「うーん。自分の怒りの炎で、自分自身が苦しんでるわけだね。生前、他の人に対して出した思いが、そっくり自分自身に返ってきてるわけだ、しかも十倍になって。
こんな世界が待ってるんじゃ、怒る気も起きなくなるよね。何十年も、何百年も、地獄の業火の中で絶叫する日々を送るくらいなら、怒りを鎮めるくらい朝飯前に思えてくるな」
正太 「「火焔地獄」というのは、「阿修羅地獄」よりも深いところにあるんだよ。同じ「怒りの毒」でも、もっと程度の激しかった人が堕ちている地獄なんだ。
前に、総理大臣であったにも関わらず、他人に対する怒りの心、カーッとくる衝動的な怒りが収まらなくて地獄に堕ちている人のことを話したよね。でも、そういう人は政治家だけじゃなくて、宗教家の中にもいるんだよ。
たとえば、ある教団の二代目の会長で、闘争と破壊の「折伏(しゃくぶく)大行進」というのを全国に繰り広げた人がいるんだけど、この人はこの「火焔地獄」に堕ちているんだよ」
勇二 「折伏大行進?」
正太 「そう。もう何十年も前になるけど、「日蓮宗以外は全部邪教だ」と主張して、神棚や他宗派の仏壇を捨てさせるような強引な布教を展開したんだね。
当時、この二代目の会長の指導のもとに活動した人たちのほとんどは、怒りのもとに行動して、死後「阿修羅地獄」に堕ちてしまったんだ。でも、会長だったこの人は、単に阿修羅地獄で止まらずに「火焔地獄」まで堕ちて、毎日、阿鼻叫喚の生活を送っているんだよ」
勇二 「うーむ。宗教家なら、それこそ「正しい心のあり方」を人々に説かなきゃいけない立場なのにね」
正太 「根本に、ほんとうの意味での「愛」の教えがないまま、「戦い」だけをやったら、「闘争と破壊」の世界が展開してくるんだね。「愛を広め、ユートピアを創ろう」という目的がなく、自分の団体の「拡張欲」だけで戦いを繰り広げると、そこに地獄が出現してくるんだよ」
勇二 「拡張欲だけで戦いをやると、地獄が現れる…、うーん」
正太 「それと、(これは今取り上げているテーマからは脱線しちゃうんだけど)「日蓮宗以外はすべて邪教だ」という教えは間違いなんだね。
お釈迦様の教えというのは、禅宗の中にも、浄土宗の中にも、それ以外の真言宗やいろいろな宗派の中にも、部分的にではあっても流れているんだよ。それだけじゃなくて、キリスト教にも、あるいはイスラム教の中にも真実なる仏の教えの流れは入っているんだ。
だから、「日蓮宗以外はすべて邪教だ」という教えは真実に反しているし、教勢を広げるための方便にすぎなかった、というのが真相なんだ。方便を本質と見誤ってはいけないんだよ。
それと、「『南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)』という題目さえ唱えれば救われる」という教えも真実じゃないんだ。
そもそも「南無妙法蓮華経」とはどういう意味かというと、南無というのは「帰依する」という意味、妙法というのは「妙なる教え」「正法」「正しい教え」、蓮華というのは「泥沼に咲く蓮の華」、経は「教え」 ― 。
要するに、「南無妙法蓮華経」というのは、「泥沼に咲くあの蓮の華のような、清らかな正しい教えに帰依します」という意味なんだ。毎朝、「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と唱えるということは、「正しい法に帰依します」「正しい法に帰依します」と言ってるのと同じことなんだよ。
じゃあ、「正しい法に帰依します」という言葉を口に出して言えば、地獄に堕ちている人はポンと天国に上がってこれるのか。この世に生きている人は、それだけで地獄に堕ちなくてすむのか、と言えば ― そんなことは全くないんだね。
真相はどうかというと、― お釈迦様が説かれた「正しい法」の内容を理解して、実践していかなければ、救われることはない ― ということなんだ」
勇二 「そりゃ、そうだろうね。いくら「よいことをします」って何百回唱えても、実際によいことをしなければ意味がないのと同じだね。これじゃあ「「チチンプイプイ」とおまじないを唱えれば、天国にいけますよ」と言ってるのと同じになっちゃうよね」
正太 「結局、「南無妙法蓮華経さえ唱えていれば成仏できるんだ」という「免罪符」をつくると、「じゃあ後は何をやってもオッケーなんだな。許されるんだな」という堕落のほうに流れていくんだね。お釈迦様が説かれた戒律も反省もいらなくなっちゃうんだよ。
「脱会すれば罰が当たる。祟りが起きる」と言って脅迫したり、悪口や暴力沙汰という仏教徒として恥ずかしい行為をしても平気でいられるのは、こうした都合のいい免罪符があるからなんだ」
勇二 「なるほどね。「これさえ口の中で唱えれば、天国行きバッチリです」なんていう、虫のいい免罪符はないわけだよね。あの世っていうのは、地上数十年のその人のトータルの「思いと行ない」で分かれてくるわけだからね」
正太 「ただし、日蓮その人に関しては、生前の思想と行動には功罪両面があったし、「他宗排撃」等のやりすぎた部分についてはあの世に還ってから反省を余儀なくされたけれど、やはり高級霊界に還っていることは事実なんだ。このことは、誤解がないように指摘しておかないといけないね。
同様の問題は、「『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を唱えれば救われる」と説いている浄土宗系統についても言えるんだね。ただ、こうした教えを説いた親鸞や法然といった人たちの本意は、「学問もできず、字も読めないような人たちに、最低限の信仰心を持たせよう」ということにあったんだね。当時の貧しく無学文盲の人たちに、何とか救いのきっかけだけでも差し伸べたい ― そうした深い人間愛が、背後にあったことは事実なんだ(親鸞や法然、唯円、蓮如といった人たちは菩薩界の方なんだよ)。
念仏を唱えただけで救われることはないんだけど、(難しいことはわからなくても)念仏を唱えるような信心のある生活をしてゆくうちに、だんだんいい人になって天国への道が開けることはあるんだよ。
しかし、これも題目同様、「無反省な人間を数多くつくってきた」という面は否定できないんだね。「念仏を唱えてるんだから、何をやろうが万事オーライなんだ」と安易に考える人たちが大勢出てきたことも事実なんだ。
実際、念仏宗が説かれて以降、「念仏地獄」という新しい地獄ができたんだよ」
勇二 「プッ、念仏地獄? 地獄でも念仏を唱えてるわけ?」
正太 「うん。冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、本当なんだ。地獄の岩陰に何百人も固まって「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とやっているんだよ。心を真っ黒にしたままね。
問題なのは、この人たちのところに、天使(菩薩)が行って「自分が過去に思ったこと行なったことを、一つひとつ思い出して反省しなさい。反省することによって、罪が拭われ、心が清くなれば、天国に還れるんですよ」と説得しても、「念仏さえ唱えれば全部チャラになるはずだ。天国に行けるんだ」と思い込んでいるから、受け付けないんだね。「反省なんて言われてない」とはねつけるし、逆に「きっと悪魔が唆しにきたんだ」「もっと深い地獄に連れ去ろうとしてるんだ」なんて思われちゃうんだよ。
こんなふうに、他力門系統の教えというのは、「人々に初歩的な宗教心を教える」という意味で大事な役割を果たしてきた反面、陰の部分も生んできたんだね。負の側面も決して小さくはないんだよ」
勇二 「なるほどな。いろんな面があるんだろうけど、霊界の真相に照らせば「題目や念仏を唱えただけでは、天国に還れない」ということは、はっきりしているよね。ここのところは、きちっと腑に落としておかないといけないね」
正太 「そうなんだ。ただ、これ以上話を続けるとドンドン脱線していきそうだから、そろそろ…」
勇二 「「本題に戻らないとね」。このセリフもほとんど「題目」みたいになってきたね(笑)」
勇二 「とにかく、名前からして凄いよね。こんなところには、絶対、お世話になりたくないな」
正太 「この地獄は、この世に生きていたときに、「怒りの炎で他人を焼いてきた人」が堕ちる地獄なんだ。他の人たちを焼き焦がした怒りの炎によって、自分自身が焼かれている地獄なんだよ。
地獄っていうところは、よく言われるように「暗い」世界なんだけど、それ以外の一般的な特徴は「寒い」ということなんだね(だから、地獄霊がやってくると、たいてい寒気がして鳥肌が立つんだ。悪霊がいると実際に部屋の温度が下がるようなこともあるんだよ)。
ところが、この火焔地獄は全く逆なんだ。全身火だるまになりながら、焼ける苦しみで人々が絶叫している世界なんだよ」
勇二 「うーん。自分の怒りの炎で、自分自身が苦しんでるわけだね。生前、他の人に対して出した思いが、そっくり自分自身に返ってきてるわけだ、しかも十倍になって。
こんな世界が待ってるんじゃ、怒る気も起きなくなるよね。何十年も、何百年も、地獄の業火の中で絶叫する日々を送るくらいなら、怒りを鎮めるくらい朝飯前に思えてくるな」
正太 「「火焔地獄」というのは、「阿修羅地獄」よりも深いところにあるんだよ。同じ「怒りの毒」でも、もっと程度の激しかった人が堕ちている地獄なんだ。
前に、総理大臣であったにも関わらず、他人に対する怒りの心、カーッとくる衝動的な怒りが収まらなくて地獄に堕ちている人のことを話したよね。でも、そういう人は政治家だけじゃなくて、宗教家の中にもいるんだよ。
たとえば、ある教団の二代目の会長で、闘争と破壊の「折伏(しゃくぶく)大行進」というのを全国に繰り広げた人がいるんだけど、この人はこの「火焔地獄」に堕ちているんだよ」
勇二 「折伏大行進?」
正太 「そう。もう何十年も前になるけど、「日蓮宗以外は全部邪教だ」と主張して、神棚や他宗派の仏壇を捨てさせるような強引な布教を展開したんだね。
当時、この二代目の会長の指導のもとに活動した人たちのほとんどは、怒りのもとに行動して、死後「阿修羅地獄」に堕ちてしまったんだ。でも、会長だったこの人は、単に阿修羅地獄で止まらずに「火焔地獄」まで堕ちて、毎日、阿鼻叫喚の生活を送っているんだよ」
勇二 「うーむ。宗教家なら、それこそ「正しい心のあり方」を人々に説かなきゃいけない立場なのにね」
正太 「根本に、ほんとうの意味での「愛」の教えがないまま、「戦い」だけをやったら、「闘争と破壊」の世界が展開してくるんだね。「愛を広め、ユートピアを創ろう」という目的がなく、自分の団体の「拡張欲」だけで戦いを繰り広げると、そこに地獄が出現してくるんだよ」
勇二 「拡張欲だけで戦いをやると、地獄が現れる…、うーん」
正太 「それと、(これは今取り上げているテーマからは脱線しちゃうんだけど)「日蓮宗以外はすべて邪教だ」という教えは間違いなんだね。
お釈迦様の教えというのは、禅宗の中にも、浄土宗の中にも、それ以外の真言宗やいろいろな宗派の中にも、部分的にではあっても流れているんだよ。それだけじゃなくて、キリスト教にも、あるいはイスラム教の中にも真実なる仏の教えの流れは入っているんだ。
だから、「日蓮宗以外はすべて邪教だ」という教えは真実に反しているし、教勢を広げるための方便にすぎなかった、というのが真相なんだ。方便を本質と見誤ってはいけないんだよ。
それと、「『南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)』という題目さえ唱えれば救われる」という教えも真実じゃないんだ。
そもそも「南無妙法蓮華経」とはどういう意味かというと、南無というのは「帰依する」という意味、妙法というのは「妙なる教え」「正法」「正しい教え」、蓮華というのは「泥沼に咲く蓮の華」、経は「教え」 ― 。
要するに、「南無妙法蓮華経」というのは、「泥沼に咲くあの蓮の華のような、清らかな正しい教えに帰依します」という意味なんだ。毎朝、「南無妙法蓮華経」「南無妙法蓮華経」と唱えるということは、「正しい法に帰依します」「正しい法に帰依します」と言ってるのと同じことなんだよ。
じゃあ、「正しい法に帰依します」という言葉を口に出して言えば、地獄に堕ちている人はポンと天国に上がってこれるのか。この世に生きている人は、それだけで地獄に堕ちなくてすむのか、と言えば ― そんなことは全くないんだね。
真相はどうかというと、― お釈迦様が説かれた「正しい法」の内容を理解して、実践していかなければ、救われることはない ― ということなんだ」
勇二 「そりゃ、そうだろうね。いくら「よいことをします」って何百回唱えても、実際によいことをしなければ意味がないのと同じだね。これじゃあ「「チチンプイプイ」とおまじないを唱えれば、天国にいけますよ」と言ってるのと同じになっちゃうよね」
正太 「結局、「南無妙法蓮華経さえ唱えていれば成仏できるんだ」という「免罪符」をつくると、「じゃあ後は何をやってもオッケーなんだな。許されるんだな」という堕落のほうに流れていくんだね。お釈迦様が説かれた戒律も反省もいらなくなっちゃうんだよ。
「脱会すれば罰が当たる。祟りが起きる」と言って脅迫したり、悪口や暴力沙汰という仏教徒として恥ずかしい行為をしても平気でいられるのは、こうした都合のいい免罪符があるからなんだ」
勇二 「なるほどね。「これさえ口の中で唱えれば、天国行きバッチリです」なんていう、虫のいい免罪符はないわけだよね。あの世っていうのは、地上数十年のその人のトータルの「思いと行ない」で分かれてくるわけだからね」
正太 「ただし、日蓮その人に関しては、生前の思想と行動には功罪両面があったし、「他宗排撃」等のやりすぎた部分についてはあの世に還ってから反省を余儀なくされたけれど、やはり高級霊界に還っていることは事実なんだ。このことは、誤解がないように指摘しておかないといけないね。
同様の問題は、「『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』という念仏を唱えれば救われる」と説いている浄土宗系統についても言えるんだね。ただ、こうした教えを説いた親鸞や法然といった人たちの本意は、「学問もできず、字も読めないような人たちに、最低限の信仰心を持たせよう」ということにあったんだね。当時の貧しく無学文盲の人たちに、何とか救いのきっかけだけでも差し伸べたい ― そうした深い人間愛が、背後にあったことは事実なんだ(親鸞や法然、唯円、蓮如といった人たちは菩薩界の方なんだよ)。
念仏を唱えただけで救われることはないんだけど、(難しいことはわからなくても)念仏を唱えるような信心のある生活をしてゆくうちに、だんだんいい人になって天国への道が開けることはあるんだよ。
しかし、これも題目同様、「無反省な人間を数多くつくってきた」という面は否定できないんだね。「念仏を唱えてるんだから、何をやろうが万事オーライなんだ」と安易に考える人たちが大勢出てきたことも事実なんだ。
実際、念仏宗が説かれて以降、「念仏地獄」という新しい地獄ができたんだよ」
勇二 「プッ、念仏地獄? 地獄でも念仏を唱えてるわけ?」
正太 「うん。冗談みたいに聞こえるかもしれないけど、本当なんだ。地獄の岩陰に何百人も固まって「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とやっているんだよ。心を真っ黒にしたままね。
問題なのは、この人たちのところに、天使(菩薩)が行って「自分が過去に思ったこと行なったことを、一つひとつ思い出して反省しなさい。反省することによって、罪が拭われ、心が清くなれば、天国に還れるんですよ」と説得しても、「念仏さえ唱えれば全部チャラになるはずだ。天国に行けるんだ」と思い込んでいるから、受け付けないんだね。「反省なんて言われてない」とはねつけるし、逆に「きっと悪魔が唆しにきたんだ」「もっと深い地獄に連れ去ろうとしてるんだ」なんて思われちゃうんだよ。
こんなふうに、他力門系統の教えというのは、「人々に初歩的な宗教心を教える」という意味で大事な役割を果たしてきた反面、陰の部分も生んできたんだね。負の側面も決して小さくはないんだよ」
勇二 「なるほどな。いろんな面があるんだろうけど、霊界の真相に照らせば「題目や念仏を唱えただけでは、天国に還れない」ということは、はっきりしているよね。ここのところは、きちっと腑に落としておかないといけないね」
正太 「そうなんだ。ただ、これ以上話を続けるとドンドン脱線していきそうだから、そろそろ…」
勇二 「「本題に戻らないとね」。このセリフもほとんど「題目」みたいになってきたね(笑)」