令和7年2月3日、私の空手道の師匠であり、人生の師匠でもある羽賀友信先生がご逝去されました。享年74歳、早すぎます…
師匠は、一昨年秋、末期がんで余命宣告を受けても、「体調不良の原因がわかってスッキリした。」とおっしゃり、淡々とされていました。
私が胃がんの告知を受け、自分を見失いかけ、右往左往したのとは正反対です。
そして師匠は、末期がんの宣告を受けてなお、「自身の為すべきことは何か」を常に考え、長岡市国際交流センターセンター長としての仕事をはじめ、携わっている様々な仕事を、それまでと変わることなく、粛々とこなしておられました。
新武会の錬成大会にも必ずご臨席くださり、選手を激励してくださいました。昨年11月の錬成大会の時などは、午前中まで長岡市で抗がん剤治療を受け、治療後その足で新潟市の会場まで足を運んでくださいました。
そんな師匠の姿に、あらためて「武道家の生き様」を教えられた思いでした。
師匠は常々、「空手は自分の人生の背骨だ」とおっしゃっていました。師匠は、空手道の修行を通して得た人生観を自身の人生の指針とされ、信念を貫かれて生きておられました。
1月中旬、師匠から「もう肝臓が限界になり、抗がん剤が使えなくなりました。緩和病棟が空き次第、入院して緩和治療をします。もう生きて退院は出来ません。」というLINEを受け取り、覚悟はしていたものの、涙が止まりませんでした。
すぐにも面会に伺いたかったのですが、ご家族以外の面会は難しいとお聞きし、ただただ心穏やかに過ごされることを祈っていました。
その後、緩和病棟に移られ、特別に面会をさせていただけるとの連絡をいただき、2月3日に伺うことにしていました。
その前日の2月2日、師匠のお嬢様から「今日来られませんか。」とのお電話をいただきました。「それは、危篤と理解して良いでしょうか。」という私の問いに、お嬢様は否定されませんでした。
予定していた稽古指導を師範代、指導員の皆さんにお願いし、すぐに長岡に向かいました。
ベッドに横になっている師匠は、ほとんど目を開けられず、言葉も、半分以上聞き取れないほど弱々しいものでしたが、私のことは分かってくださいました。
師匠から、「古俣くんと出会えて良かった。ありがとう」というお言葉をいただきました。私も、師匠への感謝をお伝えすることが出来ました。そして師匠は、「武道は、武術を超えた人を活かす道だ。」と仰いました。そのお言葉は、「単なる技術だけでなく、人生を豊かにする、人を活かす「道」としての空手を伝えて行きなさい。」という教えだと理解しました。
2月9日、お嬢様から、師匠が2月3日に亡くなられたとのご連絡をいただきました。「亡くなっても、葬儀がすべて終わるまでは内密にするように」と師匠から言われていたとのことでした。
「亡くなったと聞いたら、いくら家族葬でと言っても大騒ぎする者がいるかもしれない。既に生前葬を行ったのだから、もう皆に迷惑をかけるわけにはいかない。」という師匠のご意思だと思います。
お嬢様のおかげで、最後にお会いすることが出来、そして、これまでの感謝をお伝えすることが出来ました。本当にありがとうございました。
死を目前にしても、全く動じることなく、「自分は信念に基づいて精一杯生きた。何の悔いもない。」という姿勢を貫かれた師匠。本当に偉大な方でした。あらためて、こんな素晴らしい方に弟子として認めていただき、35年以上、共に歩ませていただいたこと、感謝してもしきれません。
今の自分があるのは、すべて師匠との出会いがあったからに他なりません。師匠と出会え、様々な教えを受けたことで、私の人生は本当に豊かで、充実したものになりました。
これからも、師匠の教えを胸に、師匠から教えていただいた「人を活かす、道としての空手」を若い人たちに伝えていきたいと思います。
師匠、どうぞゆっくりとお休みください。本当に、本当にありがとうございました。
緩和病棟に移られた際の師匠。真の武道家の姿がここにあります。

師匠のご遺影。昨年7月の新武会組手競技錬成大会の際、私と一緒に撮った写真の笑顔がとても良い笑顔だったので、ご遺影にしてくださったとのことです。本当にありがたいです。


師匠は、一昨年秋、末期がんで余命宣告を受けても、「体調不良の原因がわかってスッキリした。」とおっしゃり、淡々とされていました。
私が胃がんの告知を受け、自分を見失いかけ、右往左往したのとは正反対です。
そして師匠は、末期がんの宣告を受けてなお、「自身の為すべきことは何か」を常に考え、長岡市国際交流センターセンター長としての仕事をはじめ、携わっている様々な仕事を、それまでと変わることなく、粛々とこなしておられました。
新武会の錬成大会にも必ずご臨席くださり、選手を激励してくださいました。昨年11月の錬成大会の時などは、午前中まで長岡市で抗がん剤治療を受け、治療後その足で新潟市の会場まで足を運んでくださいました。
そんな師匠の姿に、あらためて「武道家の生き様」を教えられた思いでした。
師匠は常々、「空手は自分の人生の背骨だ」とおっしゃっていました。師匠は、空手道の修行を通して得た人生観を自身の人生の指針とされ、信念を貫かれて生きておられました。
1月中旬、師匠から「もう肝臓が限界になり、抗がん剤が使えなくなりました。緩和病棟が空き次第、入院して緩和治療をします。もう生きて退院は出来ません。」というLINEを受け取り、覚悟はしていたものの、涙が止まりませんでした。
すぐにも面会に伺いたかったのですが、ご家族以外の面会は難しいとお聞きし、ただただ心穏やかに過ごされることを祈っていました。
その後、緩和病棟に移られ、特別に面会をさせていただけるとの連絡をいただき、2月3日に伺うことにしていました。
その前日の2月2日、師匠のお嬢様から「今日来られませんか。」とのお電話をいただきました。「それは、危篤と理解して良いでしょうか。」という私の問いに、お嬢様は否定されませんでした。
予定していた稽古指導を師範代、指導員の皆さんにお願いし、すぐに長岡に向かいました。
ベッドに横になっている師匠は、ほとんど目を開けられず、言葉も、半分以上聞き取れないほど弱々しいものでしたが、私のことは分かってくださいました。
師匠から、「古俣くんと出会えて良かった。ありがとう」というお言葉をいただきました。私も、師匠への感謝をお伝えすることが出来ました。そして師匠は、「武道は、武術を超えた人を活かす道だ。」と仰いました。そのお言葉は、「単なる技術だけでなく、人生を豊かにする、人を活かす「道」としての空手を伝えて行きなさい。」という教えだと理解しました。
2月9日、お嬢様から、師匠が2月3日に亡くなられたとのご連絡をいただきました。「亡くなっても、葬儀がすべて終わるまでは内密にするように」と師匠から言われていたとのことでした。
「亡くなったと聞いたら、いくら家族葬でと言っても大騒ぎする者がいるかもしれない。既に生前葬を行ったのだから、もう皆に迷惑をかけるわけにはいかない。」という師匠のご意思だと思います。
お嬢様のおかげで、最後にお会いすることが出来、そして、これまでの感謝をお伝えすることが出来ました。本当にありがとうございました。
死を目前にしても、全く動じることなく、「自分は信念に基づいて精一杯生きた。何の悔いもない。」という姿勢を貫かれた師匠。本当に偉大な方でした。あらためて、こんな素晴らしい方に弟子として認めていただき、35年以上、共に歩ませていただいたこと、感謝してもしきれません。
今の自分があるのは、すべて師匠との出会いがあったからに他なりません。師匠と出会え、様々な教えを受けたことで、私の人生は本当に豊かで、充実したものになりました。
これからも、師匠の教えを胸に、師匠から教えていただいた「人を活かす、道としての空手」を若い人たちに伝えていきたいと思います。
師匠、どうぞゆっくりとお休みください。本当に、本当にありがとうございました。
緩和病棟に移られた際の師匠。真の武道家の姿がここにあります。

師匠のご遺影。昨年7月の新武会組手競技錬成大会の際、私と一緒に撮った写真の笑顔がとても良い笑顔だったので、ご遺影にしてくださったとのことです。本当にありがたいです。


ありがとうございますm(_ _)m