先日、ある知人の方から伺ったお話です。その知人のお子さんは小学校高学年で、バドミントンを習っているそうなのですが、その指導者の指導がひどいというのです。曰く
「感情にまかせて暴言を吐く」
「技術については、実際にやって示すことなく、口頭で説明するだけ。子供たちが上手く出来ないと、『何故出来ない』と怒鳴る」
「上手く出来ない子を皆の前に出し、悪い手本のように言って、その子をおとしめるような言動をする。」等々…
さすがに暴力を振るうようなことはないようでしたが、話を聞いていて、あきれかえってしまいました。この「指導者」は、一体何を「指導」したいのだろう…。そして同時に、怒りを覚えました。こんな指導者が、指導者として認められているという現実に…
そんな話を聞いて、あらためて「指導」ということについて考えてみました。
私が空手を始めてから、今年で44年になります。そして、空手を始めて7年目の23歳の時から、指導に当たるようになりました。指導歴は、今年で36年になります。指導をするようになった当初は、まだ子供たちを指導することはなく、一般の方だけでしたので、指導というより、「一緒に稽古する。」というスタンスでした。
平成11年(1999年)、当時小学1年生だった長男の友人のお母様から、うちの子供に空手を教えてもらえないかと頼まれ、それではと、私の子供たちと長男の友人の男の子に空手を指導し始めたのが、新武会ジュニア教室の始まりでした。それまで、一般の方にしか指導経験はありませんでしたので、子供たちへの指導は、試行錯誤の連続でした。私が子供たちへの空手指導を始めてから、口コミで入門者が増え、最盛期には100人近い子供たちを指導するようになっていました。
指導を始めた当初は、恥ずかしながら感情にまかせて怒ったり、大声を出したりしたこともありました。本当に未熟な指導者でした。ただ、そんな時は必ず稽古後に落ち込んでいました。何故、怒ってしまったんだろう、何故大きな声を出してしまったんだろう、と…。
そして、自分なりに「指導」というものを深く掘り下げて考えるようになりました。
「指導の原点」は何だろうと考えた時に、真っ先に思い浮かんだのが、師 羽賀友信会長が、新武会という団体を立ち上げた時のお言葉「新武会は人を育てる道場でありたい。」でした。
羽賀会長は昔から、「強いだけならゴリラの方が強い。」とおっしゃり、腕っ節の強さだけを求めることを戒めていました。いくら腕っ節が強くても、空手が強くても、粗暴であったり、非常識であったりしたら、誰からも相手にされません。単なる空手の強さなど、何の意味もないのです。
大切なことは、空手の稽古を通じて、空手の強さ、上手さを求める課程で、人間性を磨くこと、人格を高めること、そのことが重要であり、それこそが、羽賀会長のおっしゃる「人を育てること」なのです。
別に聖人君子になれ、ということではありません。他者を敬い、思いやり、礼を尽くす気持ち、辛いこと、苦しいことに耐え、努力を惜しまず、物事をやり通す気持ち、他者や、すべての物事に対する感謝の気持ち、そんな気持ちを持った人間に、そして、どんな物事に対しても、真摯に向き合う人間に育って欲しい、ということです。
そのためには、まず私がそんな人間を目指さなければなりません。なぜなら、弟子や生徒は、指導者の鏡に他ならないからです。
粗暴な指導者、人を人とも思わないような指導者は、おそらく同じような指導者に指導されてきたのだと思います。自分が理不尽な指導を受けたから、自分もそういう指導をしてもいいのだと、思い込んでいるのです。
「業界の常識、世間の非常識」という言葉があります。ある特定の狭い分野の中では常識とされていることが、世間一般から見たら非常識である、ということです。スポーツ指導における暴言、暴力などはまさにそれだと思います。指導者たる者、まず自分の振る舞いが世間一般の常識から外れていないか、常に自らを振り返る姿勢を忘れてはならないと思います。
また、スポーツ指導者の多くが、とにかく競技に勝つことが第一の勝利至上主義に陥っていることも、理不尽な指導の根底にあると思います。そしてそこには、強い選手、強いチームを育てた指導者として自身を誇示したいという名誉欲も見え隠れします。
各々の競技で勝利を目指すことはとても大切なことですし、スポーツの目的は「競技試合に勝つこと」であることは厳然たる事実です。指導者も選手も、「勝利」という目的に向かって努力をしています。しかし、勝つため、勝たせるために、罵声を浴びせ、出来ないことをなじり、果ては暴力を振るうなど、決して許されることではありません。そんな指導を受けた人間が、健全に育つことなど、あり得ません。
そして、仮にそんな指導を受けた個人やチームが勝利を収め、チャンピオンになったとしても、そんなものに何の価値があるのでしょうか。
指導者たる者、常に生徒の人間的な成長を第一に考えるべきで、感情にまかせた言動や、つまらない自己顕示欲など、決してしてはならないし、持ってはならないと考えます。
「自分自身が、まず礼儀正しくする。相手が誰であれ、例え幼い子供であろうとも、礼を尽くして接し、ひとりの人間として尊重し、真摯に向き合う。」
「自分自身が一修行者であることを常に自覚し、向上心を持って自ら先頭に立って稽古し、更なる高みを目指す姿勢を示し続ける。決して口先だけの指導をしない。」
「感情にまかせて暴言を吐いたり、怒鳴ったりしない。但し、注意すべきことは毅然とした態度で注意する。」
「間違えたり、上手く出来ないからといって、決して怒ったり、叱ったりしない。」
「結果よりも経過を評価する。」
現在、私がこれまでの拙い経験から、指導者として常に心がけていることです。
スポーツの世界には引退というものがあり、選手(実践者)と指導者は明確に別れているのでしょうが、武道の世界に引退はありません。武道家は、指導者となっても常に実践者でもある、というのが、私の考えです。死の直前まで、否、死してなお、あの世に行っても修行を続けること、それが武道家としての覚悟であると思っています。
自分は、まだまだ未熟で拙い指導者だと思っています。否、これからもずっと、そう思って指導に当たって行きます。何故なら、「自分は良い指導者だ。自分は優秀な指導者だ。」そう思った瞬間、優秀な指導者も慢心した愚かな指導者になってしまうと思うからです。
これからも空手道を通じて社会に有益な人材を育てて行くべく、全身全霊で指導に当たっていく覚悟です。我が師、羽賀友信先生が、古希を迎えられてなお、武道家としての生き方を体現し、私たちを導いてくださっているように…
平成11年(1999年)11月 ジュニア教室初めての昇級審査
平成12年(2000年)8月 ジュニア教室初めての夏季合宿
平成12年(2000年)11月 ジュニア教室第1回錬成大会
子供たちを指導するようになった初期の頃の懐かしい思い出です。
空手道新武会ホームページ
「感情にまかせて暴言を吐く」
「技術については、実際にやって示すことなく、口頭で説明するだけ。子供たちが上手く出来ないと、『何故出来ない』と怒鳴る」
「上手く出来ない子を皆の前に出し、悪い手本のように言って、その子をおとしめるような言動をする。」等々…
さすがに暴力を振るうようなことはないようでしたが、話を聞いていて、あきれかえってしまいました。この「指導者」は、一体何を「指導」したいのだろう…。そして同時に、怒りを覚えました。こんな指導者が、指導者として認められているという現実に…
そんな話を聞いて、あらためて「指導」ということについて考えてみました。
私が空手を始めてから、今年で44年になります。そして、空手を始めて7年目の23歳の時から、指導に当たるようになりました。指導歴は、今年で36年になります。指導をするようになった当初は、まだ子供たちを指導することはなく、一般の方だけでしたので、指導というより、「一緒に稽古する。」というスタンスでした。
平成11年(1999年)、当時小学1年生だった長男の友人のお母様から、うちの子供に空手を教えてもらえないかと頼まれ、それではと、私の子供たちと長男の友人の男の子に空手を指導し始めたのが、新武会ジュニア教室の始まりでした。それまで、一般の方にしか指導経験はありませんでしたので、子供たちへの指導は、試行錯誤の連続でした。私が子供たちへの空手指導を始めてから、口コミで入門者が増え、最盛期には100人近い子供たちを指導するようになっていました。
指導を始めた当初は、恥ずかしながら感情にまかせて怒ったり、大声を出したりしたこともありました。本当に未熟な指導者でした。ただ、そんな時は必ず稽古後に落ち込んでいました。何故、怒ってしまったんだろう、何故大きな声を出してしまったんだろう、と…。
そして、自分なりに「指導」というものを深く掘り下げて考えるようになりました。
「指導の原点」は何だろうと考えた時に、真っ先に思い浮かんだのが、師 羽賀友信会長が、新武会という団体を立ち上げた時のお言葉「新武会は人を育てる道場でありたい。」でした。
羽賀会長は昔から、「強いだけならゴリラの方が強い。」とおっしゃり、腕っ節の強さだけを求めることを戒めていました。いくら腕っ節が強くても、空手が強くても、粗暴であったり、非常識であったりしたら、誰からも相手にされません。単なる空手の強さなど、何の意味もないのです。
大切なことは、空手の稽古を通じて、空手の強さ、上手さを求める課程で、人間性を磨くこと、人格を高めること、そのことが重要であり、それこそが、羽賀会長のおっしゃる「人を育てること」なのです。
別に聖人君子になれ、ということではありません。他者を敬い、思いやり、礼を尽くす気持ち、辛いこと、苦しいことに耐え、努力を惜しまず、物事をやり通す気持ち、他者や、すべての物事に対する感謝の気持ち、そんな気持ちを持った人間に、そして、どんな物事に対しても、真摯に向き合う人間に育って欲しい、ということです。
そのためには、まず私がそんな人間を目指さなければなりません。なぜなら、弟子や生徒は、指導者の鏡に他ならないからです。
粗暴な指導者、人を人とも思わないような指導者は、おそらく同じような指導者に指導されてきたのだと思います。自分が理不尽な指導を受けたから、自分もそういう指導をしてもいいのだと、思い込んでいるのです。
「業界の常識、世間の非常識」という言葉があります。ある特定の狭い分野の中では常識とされていることが、世間一般から見たら非常識である、ということです。スポーツ指導における暴言、暴力などはまさにそれだと思います。指導者たる者、まず自分の振る舞いが世間一般の常識から外れていないか、常に自らを振り返る姿勢を忘れてはならないと思います。
また、スポーツ指導者の多くが、とにかく競技に勝つことが第一の勝利至上主義に陥っていることも、理不尽な指導の根底にあると思います。そしてそこには、強い選手、強いチームを育てた指導者として自身を誇示したいという名誉欲も見え隠れします。
各々の競技で勝利を目指すことはとても大切なことですし、スポーツの目的は「競技試合に勝つこと」であることは厳然たる事実です。指導者も選手も、「勝利」という目的に向かって努力をしています。しかし、勝つため、勝たせるために、罵声を浴びせ、出来ないことをなじり、果ては暴力を振るうなど、決して許されることではありません。そんな指導を受けた人間が、健全に育つことなど、あり得ません。
そして、仮にそんな指導を受けた個人やチームが勝利を収め、チャンピオンになったとしても、そんなものに何の価値があるのでしょうか。
指導者たる者、常に生徒の人間的な成長を第一に考えるべきで、感情にまかせた言動や、つまらない自己顕示欲など、決してしてはならないし、持ってはならないと考えます。
「自分自身が、まず礼儀正しくする。相手が誰であれ、例え幼い子供であろうとも、礼を尽くして接し、ひとりの人間として尊重し、真摯に向き合う。」
「自分自身が一修行者であることを常に自覚し、向上心を持って自ら先頭に立って稽古し、更なる高みを目指す姿勢を示し続ける。決して口先だけの指導をしない。」
「感情にまかせて暴言を吐いたり、怒鳴ったりしない。但し、注意すべきことは毅然とした態度で注意する。」
「間違えたり、上手く出来ないからといって、決して怒ったり、叱ったりしない。」
「結果よりも経過を評価する。」
現在、私がこれまでの拙い経験から、指導者として常に心がけていることです。
スポーツの世界には引退というものがあり、選手(実践者)と指導者は明確に別れているのでしょうが、武道の世界に引退はありません。武道家は、指導者となっても常に実践者でもある、というのが、私の考えです。死の直前まで、否、死してなお、あの世に行っても修行を続けること、それが武道家としての覚悟であると思っています。
自分は、まだまだ未熟で拙い指導者だと思っています。否、これからもずっと、そう思って指導に当たって行きます。何故なら、「自分は良い指導者だ。自分は優秀な指導者だ。」そう思った瞬間、優秀な指導者も慢心した愚かな指導者になってしまうと思うからです。
これからも空手道を通じて社会に有益な人材を育てて行くべく、全身全霊で指導に当たっていく覚悟です。我が師、羽賀友信先生が、古希を迎えられてなお、武道家としての生き方を体現し、私たちを導いてくださっているように…
平成11年(1999年)11月 ジュニア教室初めての昇級審査
平成12年(2000年)8月 ジュニア教室初めての夏季合宿
平成12年(2000年)11月 ジュニア教室第1回錬成大会
子供たちを指導するようになった初期の頃の懐かしい思い出です。
空手道新武会ホームページ