空手バカなオヤジの日常

新潟の空手道場「空手道新武会」で稽古に励む、空手バカオヤジの徒然記

32歳

2022-05-25 15:51:52 | 日記・エッセイ・コラム
令和4年5月、長女が32歳の誕生日を迎えました。
大学院に籍を置きながら、別の大学の研究員を務め、さらに今春から、また別の大学の非常勤講師を務めることになったとのことで、多忙ながら充実した毎日を送っているようです。私生活でもよき伴侶に恵まれ、親としてこれほど嬉しいことはありません。

長女へ
これからも常に感謝の心を忘れず、真摯に生きてください。ずっとずっと、幸せを祈っています。父さんと母さんの娘に生まれてきてくれて、本当にありがとう。

長女0歳の頃
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シン・ウルトラマン

2022-05-24 16:23:18 | アニメ・特撮
令和4年5月13日は「シン・ウルトラマン」の公開日!ということで、午前9時からの初回を観るため、朝から気合いを入れて映画館に向かいました。余裕を持って自宅を出たつもりでしたが、しっかり朝の渋滞に捕まり、映画館に着いたのが午前8時50分(゚▽゚*) ギリギリセーフでした。

初代ウルトラマンのテレビ放送が始まった1966年(昭和41年)、私は5歳、保育園の年長でした。当時の多くの子供たちが夢中になったように、私もウルトラマンに夢中でした。保育園で毎日のようにウルトラマンごっこをしていたことを、今でもうっすらと覚えています。
私が20代、30代になると、かつての多くの特撮作品やアニメ作品がビデオソフトになり、市中に出回るようになりました。子供の頃、夢中になって観ていたウルトラマンをはじめとした諸々の作品を、あらためて観ることが出来るようになったのです。
あらためて大人になった視点で初代ウルトラマンを観直してみると、もちろん稚拙な部分も多々ありましたが、それ以上に、作り手側の熱意と気概が十二分に伝わってくる、素晴らしい作品であるということを再確認出来たのでした。

前置きが長くなりましたが、要は「私は還暦を過ぎても今だにウルトラマンが大好きだ!」ということでして…(^_^;) そんな中、「エヴァンゲリオン」で著名な庵野秀明さんがウルトラマンの映画を作るというのですから、期待しないわけには行きません。ということで、初日、初回を観に走ったわけです。

で、観終わっての感想は、「さすがは庵野さん!」と、大満足の作品でした。

それにしても、まさかウルトラマンの母星、「光の星」が地球人類を滅ぼそうとゼットンを送り込んだという設定には、ひっくり返りました。月を背景にしたそのゼットンがエヴァに見えたのは、私だけではないはず…

そしてそして、長澤まさみさん演じたところの、「浅見弘子」、最高でした。個人的には、完全にウルトラマンに変身する神永新二よりも主役でした。そして、エヴァの葛城ミサトさんとダブったのも、私だけではないはず…

バイプレーヤーでは、なんと言ってもメフィラス星人人間体の山本耕史さん。歳を取られる毎に、いい役者さんになられたなぁと感じておりましたが、メフィラス星人、本当に良かったです。神永新二役の斎藤工さんとの居酒屋シーン、ウルトラセブンのダンとメトロン星人とのちゃぶ台を挟んでのシーンのオマージュと推察しますが、それに匹敵する名シーンだと、個人的に思います。

シン・ウルトラマンのウルトラマンには、カラータイマーがないことが話題でしたが、個人的には全く違和感ありませんでした。てか、1966年の初代ウルトラマン放送時も、ハヤタ隊員がウルトラマンに変身する際の、ウルトラマンが右拳を突き出して飛び出してくるシーンでは、カラータイマーはなかったはずです。(初代ウルトラマンの映像を観て確かめましたが、間違いありませんでした。)
あらためて観ると、カラータイマーはウルトラマンのスマートな容姿にはとても違和感のある異物のように思います。

「シン・ウルトラマン」を、他の作品と比較するのは意味がないかもしれませんが、庵野さんがかかわった作品として、個人的には「シン・ゴジラ」の方が面白かったと感じました。
「シン・ゴジラ」の場合は、人間対ゴジラという、とてもシンプルな対比で作品を構成出来ましたが、「シン・ウルトラマン」は、初代ウルトラマンの様々なエピソードを盛り込んだため、2時間弱という映画の尺では、個々のエピソードが散漫な印象を受けたのです。
もちろん、あくまで二作品を見比べてということで、「シン・ウルトラマン」もとても面白く、個人的には大満足の作品でした。次はいよいよ「シン・仮面ライダー」、今から楽しみで仕方ありません(*^▽^*)

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空手道新武会 令和4年(2022年)春後期昇段・昇級審査会

2022-05-23 15:58:59 | 空手 エッセイ
4月24日(日)、新潟市亀田総合体育館柔道場におきまして、「令和4年 春後期昇段・昇級審査会」を開催いたしました。

例年、春期昇段・昇級審査会は3月に開催しておりますが、今年は新型コロナによるまん延防止等重点措置で、新潟道場が1月下旬から3月上旬までの間、稽古休止を余儀なくされてしまい、まん延防止等重点措置の中でも稽古を継続出来た長岡道場の審査を3月に行い、新潟道場の審査を例年より約1ヶ月遅らせ、今回実施したものです。

今審査には、新潟道場生30名が挑みました。そのうち昇段審査に挑んだのは、I二段、S二段、K初段の3名です。

I二段は小学生の時に入会し、高校卒業後は福島県の大学に進学、大学時代は極真館福島県支部に入門し、今春極真館二代目館長に就任された岡崎寛人先生はじめ、極真館福島県支部の諸先生にご指導を受け、極真館の黒帯も允許されました。昨年春、かねてから志望していた職業に就いたのですが、道場に定期的に通うのが難しい土地に転勤となってしまいました。そんな中でも、社会人として多忙な日々を送りながら、稽古を怠らず、修行を続けています。
審査一週間前に行われた、極真館様主催の春季全日本空手道選手権大会では、組手競技の全日本ウエイト制大会軽重量級で準優勝、型競技大会一般男子の部で第3位入賞並びに試し割り賞を受賞と見事な成績を収めました。

S二段は、32歳の時に新武会に入会し、社会人として多忙な日々を送りながら、地道に稽古に励んできました。武空杯自由組手大会でも何度か最優秀選手賞を獲得するなど、実績も残しています。

K初段は18歳、小学1年生の時に入会し、その後、弟さん2人も入会し、兄弟3人切磋琢磨しながら修行に励んでいます。中学に進学してからは、柔道部と空手を両立し、中学卒業後は、長岡市の工業高等専門学校に進学、親元を離れ、寮生活をしながらも、新武会長岡道場に通い、中学時代同様、学校の柔道部と空手を両立させています。
審査一週間前に行われた、極真館様主催の春季全日本空手道選手権大会では、組手競技の全日本ウエイト制大会軽量級に出場、見事に優勝を果たしました。

審査では、三名とも見事に課題をクリアし、昇段を成し遂げました。

また、昇級審査に挑んだ27名の道場生たちも、皆、緊張の中、真剣に各課題に臨んでいました。

道場生の皆さん、審査でいくら段級位が上がり、黒帯の金線が増えようと、帯の色が変わろうと、常に向上心を持って、努力精進を続けてください。「自学自習の出来ない者に、真の上達なし」「帯は人がくれるもの、実力は自分でつけるもの」です。皆さんのこれからに期待しています。

審査を終えて


見事昇段!左からK二段、S三段、I三段


3人の昇段を皆で祝福


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挑む ~その2~

2022-05-18 19:52:47 | 空手 エッセイ
五十代半ばを過ぎ、「もう一度試合に出場したい。」という気持ちが沸き起こり、考えた末、「60歳、還暦を迎えたら、もう一度試合に出場しよう。」そう密かに心に決めたのでした。ところが…

57歳の夏、胃がんの告知を受け、胃の全摘手術を受けたのです。試合出場どころか、空手を続けていけるのか、指導を続けていけるのかさえわからない状況に陥ってしまいました…
それでも、術後1ヶ月ほどで指導に復帰し、その後、半年、1年と時が過ぎていく中で、今までどおり稽古をこなし、ライトコンタクトですが、自由組手も行えるまでに回復して行きました。この間は、とにかく稽古が出来る、指導が出来るようになれば、という思いだけで、試合出場など頭の片隅にもありませんでした。

そんな中、新型コロナの影響で大変な社会情勢になって行きました。長期間の稽古休止、やっと再開出来ても、稽古時間の短縮やマスクを着けての稽古を強いられる等、従来どおりの稽古が出来なくなり、また、全日本大会も2年続けて中止となってしまいました。そして、気がつけば私も還暦を迎えていました。もはや、試合出場など願っても届かない状況になっていました。

そんな中、二年続けて中止となっていた極真館様主催の春季全日本大会が、今年は開催されることを知ったです。

以前、「演武」というタイトルのブログでも述べましたが、私は、「リラックスした状況でなら難なく出来ることも、試合や審査、演武といった、緊張や不安、恐怖という自身の心の弱い部分と向き合わなければならないような、特別な状況下でも出来なければ、本当に出来るとは言えない。」と考えており、「自分自身を緊張感のある特別な状況下に置き、自分自身にプレッシャーをかけ、そんな中で実力を発揮するための稽古」を欠かしてはならない、と思っています。51歳を最後に、試合から遠ざかった私にとって、この「緊張感のある特別な状況下で実力を発揮する稽古」は、大会での演武でした。毎年秋の型競技錬成大会の際に演武を行うことが、私にとっての大切な稽古でした。

しかし、胃がんの手術後、私はそんな「緊張感のある特別な状況下での稽古」を行わずにいました。術後の体力の衰えや体調変化等で、演武をやろうという気力も、覚悟も出来なかったのです。全くお恥ずかしい限りです。

そんな私でしたが、還暦を迎えたこともあり、いつまでも自分を甘やかしていてはダメだ、と一念発起し、道場生の皆に、60歳になろうと、代表師範という立場になろうと、挑戦する姿勢を示そう、何より、自分を厳しく律しようと、四年ぶりに錬成大会で演武を行いました。そして、演武を行ったことで、再び「還暦になったらもう一度試合に出場したい。」という昔の思いがよみがえってきました。

そんなところに、極真館様から、今年は春季全日本大会を開催します、とのご連絡をいただいたのです。もはや覚悟を決めるしかありません。思い切って型競技大会に出場申し込みをしたのでした。
以前大会に出場していた頃は、「試合も稽古の一環」という思いと同時に、「出場するからには結果を出したい。」という思いがありました。しかし今回は、「結果は二の次。もう一度試合場に立ちたい。試合の独特の緊張感の中に身を置くことで起こる、自身の心の中の様々な葛藤に立ち向かい、持てる力をどこまで出せるか。61歳という年齢でどれだけの型を打てるか。自分自身に挑みたい。」という思いでの出場でした。

そして迎えた試合当日。確かに緊張はしましたが、試合場で型を打っている間は、楽しくて仕方ありませんでした。予選、決勝とも20点以上の高得点をつけていただき、結果は準優勝。思ってもみない好成績でした。

61歳になり、癌という病を乗り越え、再び試合場に立つことが出来た…。本当に、本当に幸せな時間でした。

これからも、現状に満足することなく、常に自分自身に挑み、精進を続けて行こう、そういう覚悟をあらためて持たせてくれた全日本大会出場でした。

全日本大会を開催し、出場させてくださった、極真空手道連盟 極真館の盧山初雄会長、岡崎寛人館長はじめ、極真館の諸先生方、大会関係者の皆様に、心から感謝申し上げます。ありがとうございました。



追記その1
試合後、極真館の盧山初雄会長にご挨拶させていただき、「還暦の記念に出場させていただきました。」と申し上げたところ、「次は古希があるから。」と返されてしまいました。70歳まで生きていたら、また出場しなければ…(^_^;)

追記その2
全日本大会当日、二女が会場まで応援に来てくれ、三年ぶりに会うことが出来ました。そして、
「相変わらずチャレンジする姿を見られて嬉しかったよ。予選も決勝も、お父さんの型の方が良かったよ。」
と言ってもらえました。また、当日は仕事で来られなかった長女も、後日試合の動画を見て、
「私が審判だったら、父の型の方に高い得点つける。」
と言ってもらえました。
もちろん、娘たちは優勝出来なかった私を慰めるために言ってくれているのは重々承知ですが、それでも、娘たちが「お父さんの型の方が上」と言ってくれたことは、準優勝したこと以上に嬉しかったです。本当に、本当に、ありがとう。

追記その3
長女から、「来年以降も父には出場してもらって、脅威&驚異の名物オヤジになってほしい。」と言われてしまいました。そっか~、よし! 来年以降も、あの世に行くまで毎年出場してみるか!?(^◇^;)

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挑む ~その1~

2022-05-09 21:21:02 | 空手 エッセイ
令和4年4月17日(日)、東京国立代々木競技場第二体育館で開催されました、極真空手道連盟 極真館様主催の「2022年春季全日本空手道選手権大会」のうち、「全日本空手道型競技選手権大会」に、私も選手として出場して参りました。

私が初めて試合に出場したのは、17歳、高校3年生の時、新潟市秋季市民体育祭の空手競技部門「極真ルールの部」への出場でした。もう44年も前のことです。
今では信じられない話ですが、その年の秋季市民体育祭では、極真会館新潟支部関川道場と伝統派の新潟市空手道連盟とが協力して、同じ日、同じ会場で、何と極真ルールと伝統派ルールの両方の試合が行われたのでした。私は当初出場する予定ではなく、先輩方の応援のため会場に行ったのですが、「欠場者が出たから、代わりにお前出ろ。」ということになり、急遽出場することになったのです。大会に向けた稽古を積んでいたわけでもなく、何の覚悟もない状態での出場です。当然のことながら、勝てるわけなどありません。見事に1回戦負けでした。

極真会館時代、その後も「裏日本(新潟県)大会」「全日本ウエイト制大会」「全東北大会」等に出場しましたが、裏日本大会で一度準優勝出来たのが最高成績でした。
極真会館を退館し、羽賀先生の弟子となり、新武会となってからも「新武会自由組手大会」(現在の武空杯自由組手大会)に37歳まで出場し、優秀選抜賞(準優勝)が最高成績でした。


38年前、極真会館 第5回裏日本(新潟県)大会で準優勝

その後は、指導と自身の修行に専念し、試合に出場することはなかったのですが、子供たちを指導していく中で、昔は行われていなかった極真空手の型競技試合が行われるようになり、子供たちが型競技試合に出場するようになってから、自分も一度型競技試合を経験したいと思い、45歳の時に、極真館様主催の「全日本空手道型競技選手権大会」に出場したのでした。極真空手の型は、極真会館新潟支部関川道場時代に学んでおりましたが、あらためて極真館の型について、教則動画や教則本で研究し、また私どものような他流派も参加出来る型競技講習会に参加させていただいて学んでいきました。

そして出場した初めての型試合。何を間違えたのか、優勝してしまいました。そして、翌年、翌々年も優勝し、何と三連覇してしまいました。この間、長女も全日本青少年大会型競技高校女子の部を三連覇し、2006年(平成18年)から2008年(平成20年)までの三年間、親子そろって大会三連覇するという記録を作ることが出来ました。自分で言うのも何ですが、「親子そろって大会三連覇」などという記録は、現在まで私たち親子以外はおりませんし、これからも達成する方はまずいないであろう、すごい記録ではないかと自負しております。


2008年(平成18年)第4回全日本型競技大会で優勝。極真館 岡崎寛人先生(現二代目館長)、長女、長男、次女と


2010年(平成20年)第6回全日本型競技大会で三連覇、長女も全日本青少年大会型競技高校女子の部を三連覇し、親子そろっての三連覇を達成

翌年は、型競技大会は欠場し、組手の全日本壮年大会に出場して準優勝、その翌年は再度全日本型競技大会壮年男子の部に出場し、優勝することが出来ました。45歳からの5年間、優勝4回、準優勝1回という、自分でも信じられないような好成績を残すことが出来、試合はもう卒業しようと決めたのでした。


2012年(平成22年)第8回全日本型競技大会で4度目の優勝。この時、49歳でした。

それから二年後の2011年、私がちょうど51歳になった時、組手の全日本壮年大会に、これまで設けられていなかった51歳以上のクラスが新設されることになりました。これまで、型競技では優勝することが出来たものの、組手競技では準優勝が最高で、一度も優勝経験がなく、そのことがずっと心のどこかに引っかかっていたのですが、私が51歳になるのを待っていたかのように、51歳以上のクラスが新設されたのです。私には、「もう一度チャンスをやるから、チャレンジしてみろ。」と空手の神様が言ってくださっているように思えたのでした。

「組手でも優勝する。」そう心に決めて出場申込みをし、大会までの約二ヶ月間、自分なりに徹底して追い込んだ稽古を行いました。そして迎えた大会では、何とか優勝することが出来たのでした。


2012全日本壮年大会 51歳以上軽量級で優勝することが出来ました。

全日本大会型競技では三連覇を含む四度の優勝、全日本組手競技でも優勝、試合実績としては、もう十分だろうと思い、51歳を最後に、試合からは卒業したつもりでおりました。

しかし、五十代も半ばを過ぎた頃、「もう一度試合に出場したい。」という気持ちが沸き起こってきたのです…

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