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Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

「神道は宗教に非ず」か? 後編

2006年06月26日 00時44分04秒 | 時事・社会
そして最後に、「出ました」って感じの定番です。「神道は宗教に非ず」
当該記事のコメントの中には、こんな補足がありました。
「神道は宗教に非ずは私の発明ではなく旧憲法下の通説です。それ
は、禍々しい国粋主義だけではなくヘーゲルの絶対精神の歴史的
特殊な現実への具現という筋悪とはいえない哲学を根拠にしていま
す。このロジックは戦前カソリック教会も承認したもので、現在も(政治
的には拙かったにせよ)論理的に間違いとはされていません。要は、
宗教を社会学的に定義するのではなく法的に定義するとき我が神州
の憲法は神道をイデオロギーの中核として含んでおり、ならば憲法的
に内在する神道は20条-89条で問題になる「宗教」ではないという
ことです。」
ヘーゲルが何と書いたは存じませんが、それがこの文章を理解する
助けになるとは思いません。とにかく論理が滅茶苦茶。
「宗教」を「法的に定義する」と神道は「宗教ではない」のであれば、
なぜ神社は宗教法人格を取得できるのでしょうか。尤も、宗教法人
法は、宗教を定義づけてはいませんが。というより、権力者の都合で
特定の宗教に有利な定義づけがなされる場合以外に、法的な定義
が存在したためしはありません。
憲法が「イデオロギーの中核」として含むものは政教分離に触れる
「宗教ではない」なら、キリスト教も仏教も「宗教ではない」ことになり
ます。つまり「国教」という概念は否定されなければなりません。
にも関わらず、別の記事では「国教」を持つ国などの「緩やかな政教
分離」を引き合いに出し、政治の宗教への関与を正当化しようとして
います。 それに、この論理で行けば、イスラムこそ最も当てはまり
そうなものですが、それについては一切言及していません。言及でき
ない、と言ったほうがいいかも知れませんね。一緒にされると困るで
しょうから。
現憲法の「イデオロギーの中核」のどこに神道が含まれているのか、
全く明らかにされていません。もしそうなら、その憲法を変えようと
いう動きに対して批判を加えていただきたいものです。
カトリックだけでなく、後にはプロテスタントも仏教も受け入れました
が、激しい抵抗もありましたし、戦後は否定しています。「論理的に
間違いとはされていません。」というのは、定説ではなく、肯定派の
論理です。そのことは、御本人も「旧憲法下の通説です」とわざわざ
断わっていることからも明らかです。

細かい突っ込みはこの辺までにして、本質的な部分に入りますが、
松尾さんや彼に類する主張をする人々の一番の問題点は、自らの
「宗教とは何か」という定義を明らかにしていないことです。
「宗教ではない」ことの論証には熱心ですが、その他の宗教を宗教
たらしめているものは何か、ということには決して触れません。
「宗教ではない」神道にはそれが無いことを証明すれば、たちどころ
に問題は解決する筈なのですが、今日に至るまでそうなっていない
ところを見ると、定義づけは不可能なのでしょうね。ならば、「宗教で
はない」という認定も、到底できっこないわけです。
第二に、「公の宗教」論についてですが、こういう概念は「個の確立」
「個人の権利の完全な保障」があって初めて成り立つものです。
近代以前においては、宗教とは集団・公のものでしかありませんで
した。個人の信教の自由の芽生えが「個」と「公」の二項対立を生む
のですが、そこで「個」を優先させるというのが近代法の精神であり、
それを保障する制度が政教分離です。西洋近代思想をスタンダード
とする・しないは自由ですが、松尾さんは一方でそれを認める発言
もしていますから、日本の「前近代性」を誇っているようにしか見え
ません。まあ、神社神道も基本的に「個」の宗教ではありえないの
で、釣り合いは取れてますけどね。
第三に、「権利とは少数者を守るためのものだ」という視点が完全に
欠落した、多数者の論理に終始している点も看過できません。結局
このような主張をする人たちは、異なる意見を持つ少数者を「異端」
「キチガイ」扱いして、「サヨク」などとレッテルを貼って、見下して、
優越感に浸ることでしか自分を保てない人たち(それ自体、ある意味
宗教的ですらありますが)の手助けをしてるに過ぎないのですが、
それで満足なのでしょうか。

「神道は宗教に非ず」か? 前編

2006年06月25日 00時08分24秒 | 時事・社会
昨日の記事に、なかなか素敵なトラックバックを頂戴したので、今日は
予定を変更して宗教談義を少々。
ちなみに、昨日の記事を書いた時点では、最高裁は憲法判断を「回避」
したと認識してましたが、判決文をよく読むと、「合憲」と明言こそできな
かったものの、こっそり容認しています。

判決理由で今井裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の
信仰生活などに対して圧迫、干渉を加える性質のものではなく、他人
が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の
感情が害され、不快の念を抱いても、被侵害利益として損害賠償を
求めることはできない」と指摘。その上で「内閣総理大臣の地位に
ある者が靖国神社を参拝した場合も異なるものではない」と判示した。
さらに、こうした点も踏まえ、「本件参拝が違憲であることの確認を
求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らか」とした。
                                  (産経新聞)


要するに、首相であっても私人ならOK、ということのようです。
ところで、小泉首相は会見では「内閣総理大臣 小泉純一郎として、
個人として」と訳の分からないコメントで煙に巻いているにも関わらず、
裁判では一貫して「私人」としての参拝だと主張しています。
こんな風にその時々の都合で自分の主張を変える、いい加減な人物
の参拝が、そんなに嬉しいのですかね、賛成派の人たちは。
結局、小泉個人がどういう人間だろうと、どんな信仰を持っていようと、
「内閣総理大臣が参拝した」という事実が欲しいだけですよね。これが
宗教と政治の癒着でなくて何でしょう。そこを問わずして、何が「信教
の自由」「政教分離」でしょう。

TBを送ってくれた松尾光太郎さんは、当該記事によると「神道は宗教
に非ず」「神道は近代主権国家日本の実質的意味の憲法のパーツの
一つである」「元来、政教分離原則とは、「社会的威力たる教会組織
が公的権力の行使に容喙関与すべきではない」という主張にすぎず、
社会学的観察からは宗教的行為と看做されるすべての行為を国家や
地方自治体に対して認めないというものではない」という考えをお持ち
だそうです。
順番は逆になりますが、3番目から検討していきます。

まず「政教分離原則とは、「社会的威力たる教会組織が公的権力の
行使に容喙関与すべきではない」という主張にすぎず」という前提が、
一般論のように書かれていますが、全くの誤りです。
政教分離原則は、「宗教対立」を逃れてヨーロッパから「新大陸」へ
渡った人々が、信教の自由を保障するために、公権力が特定の宗教
を支持或いは排除しないよう求めたことに由来します。言ってみれば
「アメリカン・スタンダード」です。GHQの「マッカーサー憲法」がこの
原則を含んでいるのも、一つはそのためです。
さらに、以前にも何度か触れましたが、GHQの「神道指令」、天皇の
「人間宣言」と併せて、憲法の政教分離規定は、日本の軍国主義の
精神的支柱であるとされた「国家神道」と国家権力を切り離すことを
目的に盛り込まれたものです。
それにしても、松尾さんが本気でそう思ってらっしゃるのなら、公明
党=創価学会と手を組み、キリスト教右派の「容喙関与」を受け入れ
ているブッシュ大統領と盟友の小泉首相こそ、「不倶戴天の敵」では
ないかと思うのですが、どうなんでしょうね。
前提が誤っていますから、後段も当然誤りです。

続いて2番目ですが、これは「大日本帝国憲法」に限れば、ほぼ妥当
すると思います。正確に言えば、パーツの一つどころか、両者は一体
であると言えるでしょう。
現憲法も手続き上は明治憲法を「改正」したものですので、無関係で
はない、と言えなくもありませんが・・・。上で述べた通り、現憲法は
神道との断絶を意図して作られていますので、これも誤りですね。
ただし「実質的」というのが、憲法そのものではなく、もっと根源的な
この国のありようを指したものだとすれば、分からなくもありません。

長くなりましたので、続きはまた明日。

最高裁の存在意義

2006年06月24日 00時01分24秒 | 時事・社会
最高裁、憲法判断せず 小泉首相靖国参拝訴訟 (共同通信)

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝は政教分離を定めた憲法に違反し、
精神的苦痛を受けたとして、日韓の戦没者遺族ら278人が国と小泉首相
らに損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷で
あった。
 今井功裁判長は「参拝で原告らの法的利益が侵害されたとはいえな
い」として原告の上告を棄却した。原告敗訴の2審大阪高裁判決が確定
した。参拝の公私の別や憲法判断はしなかった。
 歴代首相の靖国参拝をめぐる訴訟で最高裁判決は初めて。損害賠償
請求の前提となる「被害」が否定され、同様の訴訟で今後、地・高裁が
憲法判断に踏み込まない傾向が強まりそうだ。


信教の自由を巡っては、「目的効果基準」を打ち出した津地鎮祭訴訟や
自衛官合祀拒否訴訟、箕面忠魂費訴訟では合憲、愛媛玉串料訴訟で
は違憲と、これまで最高裁は憲法判断を回避してきませんでしたので、
今回どのような判断を下すか注目していたのですが、見事に逃げました。
先日も、光市の母子殺害事件の上告審で、高裁差し戻しを決定しました
が、通常差し戻し審で最初の時と同じ判決が出ることは無く、事実上の
死刑判決と受け止められています。それなら何故、最高裁自身が死刑
判決を出さなかったのでしょう。私は死刑制度には基本的に反対の立場
ですので、この事件に関しては近いうちに稿を改めて論じたいと思います
が、立場の違いは措くとしても、自衛隊や日米安保を巡る「統治行為論」
や、戦争責任など「過去の清算」での時効判断、そして原告の適格性を
理由にした「門前払い」など、最高裁が自らの役割を放棄したかのような
判決が相次ぐことには、強い憤りを覚えます。三権分立なんてのは絵に
描いた餅かも知れませんが、下級裁判所の模範となるような判決を出せ
ない「三番目の裁判所」に過ぎないなら、「最高」裁判所とは言えません。
無責任・モラルハザードがはびこる今日、それを糺すべき最高裁までが
責任回避に走るなら、もはや存在意義は無いと言っていいでしょう。

イラクと自衛隊と牛肉

2006年06月23日 05時30分19秒 | 時事・社会
陸上自衛隊のイラク派遣部隊の「撤収」が発表されました。政府がこの
言葉を使ってから、メディアから一斉に「撤退」が消えてしまいましたね。
ネガティブイメージを消すのに躍起、ということでしょうか。
この間の活動について、「サマワの新生児死亡率が3分の1に減った」
とか「自衛隊が『給水』した水は市民の元には届いていない」とか、様々
な情報が飛び交っています。前者はサマワ母子病院の2002年上半期
データとの比較のようです。だとすると、「イラク戦争」の「開戦前」から、
サマワの衛生環境は非常に悪かったということになります。「復興支援」
とは趣きが異なってきますし、「湾岸戦争」以降の対イラク経済制裁など
の悪影響は無かったのか、十分な検証が必要です。後者については、
例えばフランスのNGO「ACTED」の活動ぶりなどを伝え聞くと、「日本の
自衛隊が給水活動の中心を担った」などという自己宣伝報道はかなり
怪しく思われます。少なくとも、「人道支援」ならば隊員の安全に関わる
最重要事項以外は情報をすべて開示し、きちんとチェックを受けるので
なければ、こうした批判を否定することもできないでしょう。
(会計検査院はイラクまで行って調べることはしないでしょうし。)

一方で、航空自衛隊の輸送業務は活動範囲を拡大します。
安倍官房長官は「空港は非戦闘地域」だとのたまったそうで。さすがは
ポスト小泉。頭の構造がそっくりなようです。
そもそも輸送業務は軍事行動そのもの。要は「兵站」です。何を以って
「非戦闘地域」と言うのか定義が分かりませんが、例えば自衛隊機が
在日米軍の基地間の武器輸送を請け負ったりすることが可能なのか
(そもそも日本がそんなことをする必要があるのか)を考えると、これは
「協力」ではなく立派な連合軍です。そう考えないと辻褄が合いません。

「空自支援拡大は陸自撤収とセット」という指摘は、さすがに日本国内
のメディアでも目にします。が、私にはもう1つセットになっているように
思えてなりません。それは米国産牛肉輸入再開合意です。あまりにも
良すぎるタイミング、そして国民の不安の声を全く無視した、最初から
「結論ありき」だったとしか思えない経過と内容。日米首脳会談への
手土産としてだけでなく、「陸自撤収」でますます高まるであろう米国
の厭戦ムードと対日バッシング(それはブッシュ大統領の支持率にも
影響します)への対応として意味合いを含んでいるでしょう。ブッシュと
小泉はお互いに「唯一の頼れる相手」のようですから。
しかし、600人の隊員の帰国のために全国民の食の安全を放棄したと
なると、「自衛隊員が無事に帰れて良かった」では済まされません。
さらに、空自も海自も「撤収」するには、何を提供しなければならないか
と考えると、先が思いやられます。少なくとも「安倍首相」だとね。

※補記
「空港は非戦闘地域」発言は額賀防衛庁長官でした。
ただし安倍官房長官も「空自撤収は状況を適切に判断して」と述べて
おり、現時点では「問題なし」と判断していることは明らかです。

カメ

2006年06月21日 05時36分21秒 | 時事・社会
ポイントに亀、列車に遅れ 呉線       (中国新聞ニュース'06/6/20)

 19日午後10時半ごろ、呉市安浦町のJR呉線安登駅に入ろうとした三原発
広行き下り普通列車が、構内のポイントが切り替わらず停車。運転士が点検
したところ、体長25センチのクサガメがポイントに挟まっていた。
 電気系統担当の社員が駆け付け、約1時間10分後、ポイントを逆方向に替
えてようやく取り除いた。カメは既に死んでいた。この間、普通列車は現場に
立ち往生。JR西日本広島支社は、乗客七人をタクシーで目的地へ送った。
上り1本も30分遅れ、2本で計60人に影響が出た。
 広島支社によると、カメがポイントに挟まるケースは過去にもあるものの、
「ここまでの遅れが出るのは異例」という。


カメさんにはとんだ災難でしたが、ちょっぴりのどかな話題です。
わざわざ新聞が報じるネタか?というご指摘はあるでしょうが。
それにしても2本の遅れで影響を受けたのが60人って、JR呉線の三原~広
間の利用者は本当に少ないんですね。利用減→列車削減→不便になって
ますます利用者離れ という負の連鎖に、ローカル線はどこも陥っているよう
に思います。呉線は自然災害の影響も受けやすく、すぐ止まりますし。
車窓からの景色は抜群なんだけどな。

剣を取る者は

2006年06月17日 23時58分43秒 | 時事・社会
私の所属教会が主催する、年に一度の講演会。
今年は、愛媛玉串料訴訟の原告弁護団の一人でもあったK弁護士を講師に
迎えて行なわれました。K弁護士は現在、小泉首相靖国参拝違憲四国訴訟
の原告弁護団長も務めています。ちなみに愛媛玉串料訴訟には、K弁護士と
同じ教会のメンバーでKGKのOBでもあるF弁護士も、復代理人弁護士として
関わっていました。面識はありませんが、こちらで勝手に近しく思っていて、
同じバプテストの群れにそのような働きをされる方がいることを誇りに思って
いましたので、今回お会いできてとても嬉しかったです。

靖国神社国営化反対運動から政教分離の問題に関わるようになったという
K弁護士は、戦時下の宗教弾圧で投獄され失明したという牧師(奥様が手を
引いて集会に参加していた)との出会いによって、信教の自由は命をかけて
も守らねばならないと決意されました。
戦中生まれで、私の父よりも年上のK弁護士ですが、今なお熱く燃えて走り
続けておられる姿や言葉に、背筋が正される思いがします。

今日の講演では憲法について、時間を割いて分かりやすく説いてくれました。
様々な事情・思惑が絡み合って、敗戦直後の短期間に作られた現憲法です
が、それ故に類まれな「平和憲法」となったことを「神の賜物」と言われたの
に、妙に納得しました。というのも、私たちクリスチャンにとって、聖書こそ神
からの「押し付け」にほかならないからです。その聖書を「神のことば」として
受け入れ、信じているクリスチャンこそ、「押し付け」憲法を主体的に受け入
れ、守り抜くことができるのではないか、と思いました。

今回の演題は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」でした。K弁護士も喝破して
いましたが、靖国問題も「愛国心」も、結局は日本を「戦争のできる国」にする
ことが目的にほかなりません。憲法改正の目指すところも同じです。
しかし、一寸考えれば分かりますが、日本は軍事力は持っていても、戦争を
遂行するだけの国力がありません。もし戦争になれば、国民を待っているの
は「恐怖と欠乏」です。
そして、一度憲法を変えてしまったら、再び「戦争の惨禍」「原爆の悲劇」を
繰り返さない限り、元には戻らないだろう、とK弁護士は語りました。何百万
(アジア全体を考えれば何千万)人もの犠牲を無にして同じ轍を踏む愚を、
決して許してはなりません。
この「剣を取る者は皆、剣で滅びる」は、沖縄・伊江島で平和運動を続けた
故 阿波根昌鴻氏が掲げた言葉でもあります。阿波根氏はクリスチャンでは
ありませんが、米国人には米国人のように接しようと聖書を読む中で、この
言葉に感銘を受け、それに「命どぅ宝」の思いを込めて訴え続けました。
クリスチャンの独りよがりではなく、普遍性を持ったメッセージを持つ言葉だ
と信じます。

講演後、1つだけ質問をしました。この手の話をすると必ず返ってくる、
「理屈は分かるが、それは日本国内しか通用しない論理で、米国が世界を
支配しているのだから、節を曲げてもそれに従うしかないのでは?」という
主張に、どう対応すればいいのですか?と。
それに対するK弁護士の回答は明快でした。
とにかく運動をすること。大きな集会や、例えば先日の岩国の住民投票の
ように、目に見える形で民意が表わされることを、政治家は(そして米国も)
最も恐れている。国民が憲法を正しく理解できるような運動を続けることで、
改憲の動きを押し返していくことだ、と。
これは決して楽観論ではありません。現場の最前線にいるK弁護士だから
こそ言える言葉であって、私も現場に出て行く(と言うと語弊があるかな?
別に日常と切り離されたものではないのですが)ことで、本当に共感・共有
できる重い言葉だと思います。
日和ってるつもりは無いんだけど、知らず知らずに生活保守主義に陥って
しまっている私にとって、いい刺激を与えてもらいました。

メディアとどう向き合うか その3

2006年06月16日 23時55分49秒 | 時事・社会
大学に入って一人暮らしを始めて、念願が叶ったことの1つが、朝日新聞の
購読でした。その頃は、昭和天皇の「癌スクープ」や、珊瑚落書き捏造など
もありましたが、それでも朝日といえば「反権力」のシンボルというイメージ
はまだ健在でしたし、読者はそういう朝日を期待し、支持していますから、
私もその輪に加わりたかったのです。
当時、広島には朝日の印刷所が無く、大阪から来ていました。なので地域
欄以外は大阪版と同じ記事で、映画ガイドすら載っていませんでした。
輸送の関係上、締め切りも早く、一日遅れの記事や全く載らないケースも
あり、テレビが無かった頃は歯がゆい思いをしました。特にプロ野球の結果
が、試合が少しでも延びると途中までしか載らないのが悲しかったです。
そんなこんなで、折角読み始めた朝日新聞にもがっかりさせられていたの
ですが、追い討ちをかけたのが、当時大詰めを迎えていた、PKO法を巡る
攻防の報道です。
カンボジアの歴史と米国・日本の関わり、UNTACの性格などを考えると、
「カンボジアのことはカンボジア人自身が決めるべき」という当たり前のこと
を阻害するような行為はすべきでない、と私は考えていましたが、朝日は
推進派の「国際貢献」論の土俵に乗ってしまったために、「自衛隊派遣こそ
もっとも効果的な貢献であり、世界の常識でもある」という推進派の主張を
打ち崩すことができませんでした。「日本は何もしないことこそ、カンボジア
人にとって真の貢献だ」という私の友人の投書も、見事ボツになりました。
この時に私は、メディアの限界を悟りました。(本多勝一の著書を読むと、
それよりずっと以前から、朝日の体質は変わっていたようですが。)
それでも「他よりはまだましかな」としばらく読み続けていましたが、'94年
に「政治改革」と称して小選挙区制が導入された際に、朝日も長年の主張
を何の断わりも無しに放棄して小選挙区制導入賛成に転じたのを見た時、
読むのをやめました。
とはいえ、一人暮らしの学生には新聞無しの生活は辛いものがあるので、
地元の中国新聞を取ることにしました。取ってみて、中国新聞の原爆報道
が質・量ともに他を圧倒していることを知りました。全体的にはむしろ保守
的(少なくとも朝日よりはそう見えた)ですが、その一点だけでも読む価値
はある、と私には思えました。それと、地方紙は地元情報が充実していま
す。たとえ記事が、ある事実を充分に(時には全く)伝えていないとしても、
例えばイベント情報で紹介されてるのを見て参加した集会で、その真実が
語られる、というケースだってあるわけです。
「新聞はどうでもいいことだけを載せて、本当に必要なことは書かない」と
いう指摘(例えば「報道写真家から」のこの記事この記事を参照)もあり
ますが、「どうでもいいこと」の中に、真実にたどり着くヒントやきっかけが
隠れていることだってあるわけです。(そうでなくても、「どうでもいいこと」
も、豊かな人生を送るのには役立つかも知れませんし。)書かれたことを
鵜呑みにして、それだけが全てだと思い込んでしまってはいけませんが、
(今の新聞が、そう思わせるだけの「権威」を持っていることの弊害は、私
も認めますが)、そこをわきまえた上で利用するなら、毎月の購読料も
決して高いとは思わないのですが。少なくとも、NHKの受信料よりは。

メディアとどう向き合うか その2

2006年06月15日 19時19分01秒 | 時事・社会
映画『初恋』の中で、機動隊がデモ隊に襲いかかる場面かありました。その場
に出くわしたヤスが「やれやれー」とけしかけていると、機動隊員が彼も警棒で
殴り倒して、下半身不随となる重傷を負わせ、助けようとした亮やテツ、タケシ、
一緒にいたユカも巻き込まれて負傷するその場面は、岸に三億円強奪計画の
実行を決意させる、この映画の中では大変重要な出来事です。
原作をまだ読んでない私は、この映画にこんな場面が出てくるとは予想もして
いませんでした。文化庁もよくこの映画を支援しましたね。縦割り行政の賜物
でしょうか。
私の父も、'69年に佐世保にエンタープライズが初寄港した時に、やじ馬で見物
に行ったら機動隊員に蹴られまくって、脚が腫れあがるという目にあいました。
でも、この映画を見るであろう若い人たちの多くは、そうした歴史は知らないで
しょうし、警察がそんな酷いことをするなんて思ってもみないかも知れませんね。
そういう人たちにぜひ、劇場に足を運んでもらいたいものです。
'60年安保の時は、テレビカメラがデモ隊の後方から、制圧する機動隊を写した
ため、権力の暴力に怒った市民が更にデモに加わる、という連鎖が起きました。
それに懲りた権力は、'70年安保の時には、テレビカメラを機動隊の側に引き入
れ、デモ隊の「暴力」を写させました。「過激派」というレッテルもこの時に貼られ
ました。これによって大衆の支持を失った運動は、分裂・先鋭化の負の連鎖に
陥り、連合赤軍事件でとどめを刺されました。
米国が、メディアの告発と、それによる反戦運動の高まりによって、ベトナムで
敗北したのと同じ頃に、日本のメディアは権力と一体化していたわけです。或い
は、「湾岸戦争」以降の米国のメディア操作も、日本の先例がヒントになったの
かも知れません。
私がこの、安保報道による世論操作の事実を知ったのは、大学生の時でした。
学園紛争ははるか昔、「しらけ世代」も「新人類」もとうに過ぎ去り、バブルもはじ
けた'90年代のことですが、メディアを取り巻く状況は変わらないどころか、むしろ
悪くなっているように感じました。そのことについては、また明日。とにかく、報道
というものが、どういうスタンスで、何をどう伝えるかによって、かくも変わるものか
と愕然とさせられました。だから、受け取り方が問われるのです。


メディアとどう向き合うか その1

2006年06月14日 17時42分10秒 | 時事・社会
昨日の朝刊は、一面の大半がサッカー ワールドカップの対オーストラリア
戦の結果記事でした。スポーツ紙じゃあるまいし、他にも大事なニュースが
いっぱいあるのに。そんなことだから、ネットかぶれの人たちだけじゃなく、
心ある人たちからも「新聞なんてもういらない」という声が上がるのに。
一日経つと、それなりに冷静な分析も載るようになりました。私は中継も
ニュース映像も見てないけど、伝え聞く限りでは、両監督の力量の差、とり
わけジーコ監督の選手交代の拙さが勝敗を分けたようですね。でも、その
程度のことは、わざわざ新聞が一日遅れで紙面を割くまでも無いでしょう。
試合分析ではなくもっと根本的、構造的な問題を掘り下げるのが、新聞の
役割ではないでしょうか。
別に私は、新聞は「ヘッドライン配信」的なものから手を引け、と言うつもり
はありません。ネット上ではそういう主張がまかり通ってますが、それは
ネットユーザーだから言えること。情報弱者にとっては新聞が貴重な(人に
よっては唯一の)情報源だったりするわけです。ネットで情報収集するには
ダイヤルアップ従量制だと辛いものがありますが、ADSLが使えない地域
って意外とあります。パソコンだって安いものじゃありません。そういえば、
マイクロソフトがWin98とMeのサポートをついに打ち切ったそうですね。現在
発売されてるXPも2年後には終了予定とのこと。もちろんPCそのものは、
壊れない限り使えますが、貧乏な素人は手が出せなくなるかも知れません。
ネットも携帯も無かった頃(といっても、ほんの10年ほど前の話ですが)、私
はラジオだけの生活を送ったことがあります。テレビは無かったら無いで困り
はしませんが、ラジオは情報の絶対量が少ない上、聞き逃したら終わりなの
で、活字メディアは必要だと痛感しました。
今の新聞が、本当に必要な情報を正しく伝えているか?という問題はありま
すし、資本の論理や政治の支配によって、もはや公正な「報道」は期待でき
ない、という指摘にも同意しますが、それでも利用価値はあるし、少しでも
世のためになるよう、変えていく努力も必要だと思います。「ネットの可能性」
なんて言われますが、既存メディアに変わるものを新たに作るのも、容易な
ことではないですから。

私はサッカーには興味無いし、何度か書いた通りナショナルチームが嫌い
なので、ワールドカップもどうでもいいのですが、私がこのブログに何か書く
と逆のことがよく起こるので、「日本代表ファン」(サッカーファンではない)の
ために書いてあげようかと思います。専門家でもファンでもない素人の予想
ですが、私は日本は3戦全敗で一次リーグ敗退すると予想しました。人間の
やることに絶対はありませんから、番狂わせが無いわけじゃないにしても、
冷静に分析すれば日本が不利であることは明らかでしょう。もちろん、本当
の通・ファンなら巧い選手や強いチームのファンでなければならない、という
ことはないし、個人的なひいきはありでしょうが。
でも少なくともメディアは、判で押したような「ニッポンガンバレ」の翼賛報道
だけではなく、素人には分からない情報や見方を(シビアなものも含めて)
提供することも大事な役割である筈です。
どんな理由であれ、それを放棄して一部の都合の良い情報しか流さない
なら、カルト集団や独裁国家と変わりありません。

深刻な産科医不足

2006年06月09日 23時51分18秒 | 時事・社会
隠岐病院、11月から複数医師赴任
                        中国新聞ニュース '06/5/14

 ▽島内出産再開へ
 島根県隠岐の島町の隠岐病院が、常勤の産婦人科医師を確保できず
院内出産への対応を断念した問題で、同病院を運営する隠岐広域連合
(連合長・松田和久隠岐の島町長)は13日、11月から複数の常勤医師の
派遣を受けられるめどが立った、と発表した。島根県が新たに医師を確保
したためで、島内での出産が再開できる見通しとなった。
 県や同連合によると、赴任の内諾を得たのは県外の医師。離島での1人
体制では医師の負担が大きく、複数体制の構築が課題だったが、県が医
師を確保できたことで県立中央病院(出雲市)が支援体制を組めるように
なった。同病院からの派遣も加え、2人体制での常駐を想定している。
 12日夜、医師確保の見通しを県から伝えられた松田町長は13日、町役
場で会見。「島内で安全、安心な体制で出産できることになり、大変うれ
しい。島民に対し責任が果たせた」と話した。
 隠岐病院の後任の産婦人科医師をめぐっては、同町と島根大医学部と
の交渉で、安来市立病院の医師(62)が一時、赴任の意向を固めたが、
支援体制の在り方などをめぐって調整が難航していた。
 隠岐病院では、同大からの派遣医師が引き揚げられた後、県立中央病
院から臨時的な派遣を受けてきた。しかし、同病院でも医師不足が深刻
となり、4月15日以降の派遣を断念。島で出産を予定していた妊婦は、本
土での出産を余儀なくされた。今月12日までに19人が松江市などに渡り、
七人が出産している。(城戸収)

 ▽関係機関 欠かせぬ協調
 【解説】 隠岐病院(隠岐の島町)で常勤の産婦人科医師が不在となった
問題は、県が新たに県外の医師を確保したことで事態が打開する見通しと
なった。だが、これは「対症療法」でしかない。産婦人科に限らず、医師不
足という構造的な問題は今後、中山間地域などでもさらに深刻さを増す。
公立病院とそれを開設する自治体、県、県内唯一の医師養成機関の島根
大医学部。難局に立ち向かうには三者の役割分担を明確にし、真の協調
関係を構築する必要がある。(城戸収)
 県が隠岐病院の後任医師の確保に力を注いだのは、病院を運営する隠
岐広域連合に名を連ねていることや、離島という特殊性があったからだ。
 各地の病院が医師不足に悲鳴を上げる中で、すべてのニーズに応える
力は県にはない。そして、人材確保に一義的に責任を負うのは病院と自治
体であり、県は支援者との立場。しかし、県の「正論」がどこまで自治体に
理解されているだろうか。
 今回の後任探しの過程では、関係機関の対立が露呈した。隠岐の島町
側が島根大医学部産婦人科教授と交渉し、いったんは安来市立病院の
医師が赴任の意向を示したが、支援体制などについて「県への不信感」
から態度を保留したという。背景に、産婦人科医療体制や人事権などを
めぐって県側と教授側との意見の対立があった、と関係者は口をそろえる。
 ただ、県や同町は一貫して、「医局」人事ではなく、組織としての責任を
明確にする大学人事扱いでの派遣を求めた。地域医療機関への医師派
遣の役割を担う島根大医学部として内部調整できず、答えを出せなかった
ことは、町民や妊婦たちを振り回すことになってしまった。
 この先も間違いなく続く医師不足という現実を見据え、関係機関がいか
に歩調を合わせ、自らの役割と責任を果たせるか。隠岐病院問題が映し
出した課題である。


先日、'05年の合計特殊出生率が1.25にまで下がったことが報じられて
いました。政府の少子化対策も、「百年安心」の「改革」も全く効果を発揮
しなかったわけです。猪口少子化対策担当大臣は「結婚件数の増加は
明るい兆し」などとのたまってましたが、晩婚化も進んでいますし、少子化
は今に始まったことではなく、これから結婚適齢期を迎える人がどんどん
減っていくわけですから、子どもの数が劇的に増えることはまずありえま
せん。「第三次ベビーブーム」は起こらない、というのが専門家の一致した
見方です。
人口も1899年に統計を取り始めて以来初の自然減となり、この国の将来
が案じられるところです。
ところが、子どもを産もうにも産科医がいない地域があるというのですから
困った話です。少し前には、岩手県が中国人の研修医を受け入れたこと
で騒がれていましたが、産科医の不足は深刻化しているようです。

それにしても、最終的にはどうにか目途が立ったとはいえ、隠岐でも医師
の確保に苦労するようでは、竹島を実効支配したとしても、人が住むのは
到底無理だろうな、と思わずにはいられません。
「くれてやればいい」という朝日新聞の主張はどうかと思いますが、結局
のところ生活がかかっている地元の漁業関係者を除けば、シンボリックな
存在でしかないのかな。