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Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

公約は口に甘し?

2006年08月16日 11時17分07秒 | 時事・社会
8・15靖国参拝の意向 首相「公約守るべき」

 小泉純一郎首相は9日午前、終戦記念日の8月15日に靖国神社を
参拝すると明言した2001年の自民党総裁選での公約に関し「公約は
生きているから、守るべきものだと思っている」と述べ、15日参拝の
意向を強く示唆した。訪問先の長崎市内で記者団の質問に答えた。
 首相は就任以降、1年に1回の靖国参拝を続けているが、中韓両国
への配慮から8月15日の参拝は見送ってきた。9月退陣を控え今年が
公約実行の最後の機会だが、15日参拝に踏み切った場合、A級戦犯
合祀(ごうし)を問題視する中韓を刺激し、一層の反発を招くのは必至
だ。
 首相は「いかなるものについても、みなさんも公約は守るべきものと
思っているのではないか」とも述べ、国民に対する公約の重要性を
指摘した。
                (2006年8月9日 (水) 13:05 共同通信)


本来ならば参拝前に書くべき記事でしたが、心身ともに参っていたの
で気休めに花火の記事などを書いて、後回しにしてしまいました。
「守るべきもの」である小泉首相の数々の「公約」は、どうなっている
でしょう。
「宿願」であった郵政民営化は、一応「実現」しました。とはいえ、首相
自身が当初描いていた通りの姿かどうかは知りません。
道路公団民営化も、形の上では移行しましたが、新たな道路は従来
の計画通り造られ、ETC利用者以外は値下げもされません。
一内閣一閣僚はあっさり放棄。「小泉ブーム」の立役者の一人だった
田中真紀子外相を擁護もしませんでした。
「自民党をぶっ壊す」というスローガンは、いつしか「自民党的なもの
=旧橋本派的政治手法」にすり替えられました。気がつくと、自身が
所属する森派が最大派閥に。他派も、役割は多少変質したものの、
解消される気配はまるでありません。単なる党内の権力闘争に過ぎ
なかったわけです。
国債新規発行30兆円枠に至っては、「守れなくても大したことでは
ない」とまで発言。
年金改革はどうなったのでしょう。構造改革って、結局何したの?

と見ていくと、「公約は守るべき」はこっちのセリフだよ、と言いたく
なるほど守られていないことがよく分かります。

実はここに、更に大きな問題が隠されています。
これらは、自民党総裁選挙の公約なのです。
総理大臣指名選挙は、ご存知の通り議会勢力によってほぼ機械的
に決まりますから、政策論争などやりません。
いくつかの公約は、国政選挙でも掲げられましたが、少なくとも8月
15日の靖国参拝は、党の公約にはなってないはずです。
つまりこれは、自民党員・議員に対する公約であり、総裁選勝利に
よって彼らの支持を受けたことにはなっても、国民全体の同意を得た
わけではありません。「小泉を総裁とする自民党が総選挙に勝った」
から全てが信任されたわけでもないのです。
それに、守られていない公約はどれも、まず自民党に対して守らせ
る(「抵抗勢力」を抑えて実現させる)べきものにも関わらず、果たせ
なかったものばかりです。野党の抵抗によるのではありません。
党総裁の公約を党が守らないのに、党とは無関係の、「公約」には
本来なりえない事柄を「守るべき」とは、詭弁もいいところです。

ちなみにこの「公約」、01年総裁選の前に遺族会副会長の尾辻秀久
議員から「終戦記念日に靖国参拝をしていただけるなら、遺族会は
あなたを応援します」と持ちかけられたのが事の起こりのようです。
当時の遺族会会長は、対抗馬だった橋本元首相。しかし彼は現職
だった時に、国内外の反発に配慮して一度きりで参拝を取りやめた
ために、遺族会からは見限られていたようですね。それで小泉首相
に白羽の矢が立てられた。首相も選挙のために靖国を利用しただけ
の話。
それを持ち上げたり美化したりって、TBSの「亀田報道」と一緒です
よね。違うのは、インチキをインチキと言えない雰囲気が作られて
いること。「心の問題」なら、異を唱えるのも自由のはずなのに。

「尊い犠牲」

2006年08月15日 23時53分47秒 | 時事・社会
大方の予想通り、小泉首相が靖国神社を参拝しました。
朝7時41分というのはちょっと意外でした。我が家は朝からテレビを
付けないので余計にそう思うのかも知れませんが、お盆休みという
こともあり、リアルタイムで見た人はそれほど多くないのではないで
しょうか。狙ったわけではないでしょうが。むしろ、政教分離に反する
との指摘を考慮して「公務に入る前の時間だから私的参拝だ」との
逃げ道を用意したのかな、と感じました。
靖国神社の参拝客が最近では最も多かったそうです。まさに「小泉
効果」、広告塔(「客寄せパンダ」のほうが適当かしら)です。靖国で
なければ立派な(?)スキャンダルになるところでしょう。中国・韓国
以前に、国内の他宗教信者が迷惑し、憤慨しているのです。良心的
な識者も国際政治的配慮からだけでなく、靖国神社そのものの抱え
る問題ゆえに批判しているのであって、別に中国・韓国に迎合・便乗
しているのでもありません。首相の参拝を支持する人たちはそうした
部分が見えていない、理解できていないように思います。
(そうした構造を理解できない人たちだから小泉首相を支持する、とも
言えますが。)

「これは毎回申し上げているのですが、日本は過去の戦争を踏まえ
反省しつつ、二度と戦争を起こしてはならない。そして今日の日本の
平和と繁栄というのは、現在生きている人だけで成り立っているの
ではないと。戦争で尊い命を犠牲にされた、そういう方々の上に今の
日本というのは今日があると。戦争に行って、祖国の為、また家族の
為、命を投げ出さなければならなかった犠牲者に対して、心からなる
敬意と感謝の念を持って靖国神社に参拝しております。今年もこの
気持ちに変わりはありません。」(総理インタビューより)


毎回同じ言葉の繰り返しで、いい加減聞き飽きました。こういうのを
「洗脳」と言うのではないのかな。韓国系の宗教団体ばかりを叩いて
いる場合じゃないでしょう。メディアもコメントを垂れ流すだけ。たまに
出演者が疑問を差し挟むとたちまち集中砲火を浴びる状況は、異常
です。
それにしても、「尊い犠牲」が「今日の日本を築いた」という理屈が
私には理解できません。「尊い犠牲」のおかげで日本は無条件降伏
できて、米国の庇護の下、戦後の復興・発展を成し遂げられた、と
いう皮肉でしょうか。戦争の愚かさに目を開かされ、恒久平和の実現
に向かわされて初めて、彼らの犠牲は「尊い」ものとなるのではない
でしょうか。
少なくとも、「戦争責任」を否定しないのであれば、行政のトップとして
「犠牲となった」人たちへの謝罪がまずあるべきです。理由はどうあれ、
戦争を回避できなかったこと、犠牲者を出したことは政治の失敗です。
総理大臣としての自覚があれば、「心の問題」と逃げて「職務放棄」
することはそれこそ良心が許さないはずですが。

また、安倍官房長官は首相のコメントについて「詳細にわたり参拝の
理由を述べ、問題点や論点、考え方を述べたと承知している」「大変
分かりやすくご説明された」との認識を示したそうです。
首相に、自分と異なる意見を理解する能力が無いということ以外に、
何がどう分かったのか、ご説明頂きたいものです。

またまた靖国問題

2006年08月08日 23時58分29秒 | 時事・社会
靖国合祀基準 東条元首相が厳格化

 第二次世界大戦末期、東条英機首相(兼陸相)=当時=が「戦役勤務に
直接起因」して死亡した軍人・軍属に限るとする靖国神社合祀(ごうし)基準
を陸軍秘密文書で通達していたことが5日までに分かった。
 文書は、靖国への合祀は「戦役事変に際し国家の大事に斃(たお)れたる
者に対する神聖無比の恩典」と位置付け、合祀の上申は「敬虔(けいけん)
にして公明なる心情を以(もっ)て」当たるよう厳命。原則として戦地以外で
の死者は不可としている。元首相自身の戦中の通達に従えば、戦後の同
元首相らA級戦犯は明らかに「合祀の対象外」となる内容だ。
 文書は1944年7月15日付で「陸軍大臣東条英機」名で出された「陸密第
二九五三号 靖国神社合祀者調査及上申内則」。原稿用紙29枚分で、原
文のカタカナをひらがなに直して戦後に書き写したとみられる。80年ごろに
旧厚生省が廃棄処分にした書類の一部として作家の山中恒氏が古書市で
入手した。
 防衛庁防衛研究所の史料専門官は「旧陸軍の秘密文書の書式に合致し、
内容にも矛盾がない」と原文を写したものにほぼ間違いないとしている。
 文書は、戦死者、戦傷死者以外の靖国神社への「特別合祀上申」対象者
として(1)戦地でマラリア、コレラなどの流行病で死亡した者(2)戦地で重大
な過失によらず負傷、病気の末に死亡した者(3)戦地以外で戦役に関する
特殊の勤務に従事し負傷、病気の末に死亡した者-の三つの要件に限定。
「死没の原因が戦役(事変)勤務に直接起因の有無を仔細(しさい)に審査
究明すること」を命じている。
                             (東京新聞 2006/8/6)


先日の「富田メモ」に続いて、何か示し合わせたかのように、またしても
靖国を巡る「スクープ」です。おかげで、8月6日朝刊の一面をさらわれて
しまいました。まあ、節目の年でなければ、原爆の日がトップニュースに
なることは無いのでしょうが。
内容的には、目新しいものではありません。A級戦犯となる東条自身が、
いかにも彼らしい詳細な指示を出していたという点での面白さはあります
が。
「富田メモ」で松平永芳宮司がクローズアップされていますが、私が再三
指摘している通り、あくまで合祀の主体は政府であり、その主目的は、
遺族に対する政治的配慮です。だから旧厚生省が関与したのです。
毎日新聞の調査では、14遺族中8遺族が分祀を受け入れてもよいと答え
たそうです(反対は3遺族)。また広田元首相の遺族は「合祀について
要望も同意もしていない」と語っています。勝手に祀って、取り下げも分祀
も認めない靖国神社の姿勢に、それがクリスチャンや韓国・台湾人の時
は無視していた人たちも、違和感を感じ始めているようです。
とはいえ、靖国神社の姿勢はおそらく変わらないでしょう。その教義や
思想に私は賛同はしませんが、政治的圧力で変わることがあってはなら
ないと思います。この際一気に国営化を、という目論みは断固として阻止
しなくてはいけません。

靖国は必要だ、国のために命を捧げた人を国が祀るのは当然だ、と言う
方たちにぜひ聞いてみたいのですが、過労死した公務員を祀る神社を
国が作ってくれたら、公務員は喜んで命を削って働くでしょうか。また、
そのような神社は必要でしょうか。
宗教は生きている者のためのもの、生きていくためのもの、と私は思う
のですが。

言葉の「乱れ」

2006年07月28日 23時58分07秒 | 時事・社会
慣用表現の使い方に乱れ・文化庁国語世論調査

 「怒り心頭に発する」「愛嬌(あいきょう)を振りまく」といった慣用句を
「怒り心頭に達する」「愛想を振りまく」と誤って使う人が4割以上いる
ことが26日、文化庁の2005年度「国語に関する世論調査」で分かった。
特に「怒り心頭…」は7割超が誤って使っており、慣用表現の使い方に
乱れが目立った。
 調査は今年2~3月、全国の16歳以上の男女3652人に実施。慣用
句や敬語の使い方について、2107人から回答を得た。
 激しく怒ることを表す「怒り心頭に発する」を、誤って「…達する」と使っ
ている人は74.2%で、正しく「…発する」とした14.0%を大きく上回った。
周囲に明るくにこやかな態度を示すことを意味する「愛嬌を振りまく」と、
正しい表現を選んだ回答は43.9%。「愛想がいい」との混同から「愛想
を振りまく」と誤ったのは48.3%だった。
 「怒り心頭に発する」の「心頭」は「心の中」を表すが、同庁国語課は
「『頭に来る』という表現を連想し『達する』としているのでは。間違って
使う人が多く、驚いている」としている。
                     (NIKKEI NET 2006/7/26 23:36)

他にも、「肝に据えかねる」(正しくは「腹に」)、「口を濁す」(「言葉を」)
もそれぞれ、18.2%、27.6%の人が間違ったのだそうですが、さすが
にこれは、「乱れ」ではなく「無知」だと思います。
「愛想を振りまく」は、アナウンサーなどもたまに間違えてます。油断
すると私も言っちゃいそう。でも「愛想笑い」を考えれば分かりますが、
「愛嬌」が「かわいらしさ」であるのに対して「愛想」は「いい顔」という
ニュアンスです。「作り笑顔」とまでは言いませんが、社交辞令のよう
なもの。だから相手によっては「愛想を尽かす」のです。
「怒り心頭に達する」が誤りというのはちょっと引っかかります。「心頭」
の「頭」は「辺り」という意味で文字通りの頭ではないとのことですが、
本来怒りは「心」ではなく「腹」から出るものだから、「心にまで及ぶ」
のであれば「発する」よりも「達する」のほうが適当だし、「心の底から
湧き上がる」という意味合いで「発する」を使いたいのであれば、これ
は何かが「外に出る・現われる」という意味の言葉だから、「心頭に」
ではなく「心頭より発する」というのが文法的には正しいと思います。
昔、テレビでも(「平成教育委員会」だったかな?)言ってました。
それと、「発する」は「ほっする」と読んだほうがいいのではないかと
思うのですが。

というように、「誤り」「乱れ」といいながら、元の慣用句自体に疑問点
を含むものもあったりするわけで、そんな言葉を盾にあれこれ言われ
ても・・・と思ってしまいます。
大体、言葉というものは時代と共に変化するものです。現在使われて
いる言葉も、本来の意味や用法が変化した(誤用も含めて)ものが数
多くあることは、古典をちょっと読んでみただけでもわかるでしょう。

「国語の乱れ」といえば、いまだに槍玉に挙げる人がいるのが「ら抜き
言葉」。でも、文法的には、「ら抜き」がされるのは、上一段・下一段
活用の動詞の可能用法にほぼ限られます。「られる」には可能以外
にも受け身や尊敬などの用法があるので、可能の場合は「ら抜き」に
統一したほうが合理的で、子どもにも分かりやすい、という指摘も
昔からされています。もういい加減認知されてほしいです。
それに、地方によっては「ら抜き」のほうが標準という所もあります。
メディアの影響もあって方言の認知度は高まってますし、画一化され
た「標準語」にこだわるのは、もうそろそろ終わりにしてもいいのでは
ないでしょうか。

日本は本当に自由な国か

2006年07月23日 23時22分00秒 | 時事・社会
昨日の記事に頂いたトラックバックから辿って、いくつかのブログを
読んでみましたが、どうしてネット上の意見はこうも偏るのだろう、と
今更ながらがっかりしています。
書こうと思った内容について、下調べすらせずに、想像や思い込み
だけで書いているのでしょうか。ネットを使えるなら、キーワード検索
くらい簡単にできそうなものですけど。意図的に情報を選別して読者
をミスリードしようとする「ネット右翼」は論外として、たとえ「日記」
程度としても、公開している以上、中身については責任を持つ、と
いうことすら未だに常識にならないのですから、困ったものです。
そのくせ、異なる意見に対しては容赦ない攻撃を加えます。「批判」
「議論」ならいいんですけど。
どうも私は、少なくとも日本においては、ネット社会の将来性などと
いうものを感じることがほとんどできません。

さて、この度の「富田メモ」スクープをめぐって、なぜか最初に報じた
日経ではなく毎度おなじみの朝日と、分祀論者と一緒に「左翼」が
批判されています。
朝日と「左翼」は、普段は天皇の政治利用を批判しているくせに、
こういう時だけ天皇の言葉を利用するのが「ダブルスタンダード」で
よろしくないのだそうです。
きっとこういうことを言う人は、熱烈な朝日の読者で、他のメディア
に触れたことがないんでしょうね。既存メディアの「報道」において、
都合のいいことやどうでもいいことを大きく報じて、都合の悪いこと
は隠すという「ダブルスタンダード」は日常茶飯事です。
それに、この発言を取り上げるのが「政治利用」なら、靖国問題は
「政治問題」だと認めることになります。「心の問題」と言ってきた
人たちの「ダブルスタンダード」は問われないのでしょうか。

ところで、学生時代に朝日に愛想をつかした私としては、なぜかく
も朝日が叩かれなければならないのか(それほど叩き甲斐がある
のか)、よく分かりませんでしたが、ある文章を目にしてその謎が
少し溶けた気がします。
そこにはこんな趣旨のことが書いてありました。
 朝日新聞は「インテリの新聞」ではあるけれど「左翼の新聞」
 ではない。本物の左翼は朝日なんて読んでいなかった。
消去法で仕方なく読んでる「左翼」も中にはいるでしょうが、「朝日
=アカ」なんてのは事実無根なわけですね。
それならなぜ、そんなデマが流されるのか。それは、「左翼」でも
何でもない実際の朝日の読者に、「『左翼』と思われたくない」と
いう恐怖感を植えつけて、転向させるためにほかなりません。
それが「恐怖感」である、という時点で、この国には「思想・信条の
自由」があるなんて、言えたものじゃないと私は思うのですが。

昭和天皇とA級戦犯合祀

2006年07月22日 01時33分12秒 | 時事・社会
昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀に強い不快感を
示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、
当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、
日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は
1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかに
していなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、
史料としての歴史的価値も高い。
                     (NIKKEI NET 2006/7/20 07:00)


「何を今更」って感じでよく読んでませんでしたが、日経のスクープ
だったのですね。それにしては、ネットではえらく短い記事だこと。
21日付朝刊では各紙一面トップで取り上げてましたので、改めて
内容をご紹介するまでもないかと思います。
巷では、早くも「捏造」説が広まっているようです。いつぞやも国会
で「偽メール騒ぎ」がありましたから思いつくんでしょうね。それと、
中国や「親中派」の人々を利する内容であり、小泉首相やその後
釜を狙う安倍官房長官にとっては打撃となるので「けしからん」と
いう感情も手伝っているようです。
けれどメモの真偽に囚われると、事の本質を見失ってしまいます。
「偽メール」と同様に、問題がうやむやにされてしまいます。実は
それを狙った陰謀なのでは?という解釈も面白いですけどね。
個人的には「首相が今年の8月15日の靖国参拝を回避し、次期
首相も参拝を自粛するための口実を得た」という、しおのさんの
指摘
(「大和ごころ。ときどきその他」)に共感を覚えました。

ところで、昭和天皇が靖国に参拝しなくなった理由について、「A級
戦犯合祀とは関係ない」という主張も以前からありました。例えば
櫻井よしこ氏は雑誌にこう書いています。

天皇家は、昭和50(1975)年11月21日の昭和天皇皇后両陛下の
参拝を最後に、今日まで、靖国神社には足を運ばれていない。
理由の説明は一切ない。ただ、推測は出来る。
時の首相、三木武夫氏は昭和50年8月15日に靖国神社に参拝
したが公用車を使わず、肩書きを記帳せず、玉串料を公費から
支払わず、閣僚を同行しないことの4条件を以て、「私的参拝」
だと述べた。
同年11月21日、前述のように天皇皇后両陛下は靖国神社と
千鳥ヶ淵戦没者記念墓苑に参拝された。ところが、前日の11月
20日の参議院内閣委員会で日本社会党がこれを問題にした。
野田哲、秦豊、矢田部理の3議員が質問に立ったのだ。追及を
受けた吉国一郎内閣法制局長官は遂に、天皇の参拝は、
「憲法第20条第3項(抵触=筆者・注)の重大な問題になると
いう考え方である」と答えた。
「信教の自由」を謳った第20条の第3項には「国及びその機関
は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と
記されている。
それでも陛下は翌日、予定どおり参拝なさった。陛下の参拝
とりやめは、参拝をめぐる政治的論争がおさまらないことを
懸念した宮内庁が決定したものと思われる。
“A級戦犯”が靖国神社に合祀されたのは、それから3年後の
1978年秋の例大祭のときである。そのことが新聞やテレビで
報じられたのはさらに半年後の翌79年春の例大祭の直前で
ある。3年の時間差と前後関係から、陛下の靖国参拝中止と
“A級戦犯”合祀を因果関係で結ぶのは無理だ。陛下が参拝
出来る状況を作るために“A級戦犯”を分祀するという主張は
俄に説得力を失う。
          (『週刊新潮』'05年6月9日号
           「日本ルネッサンス」第168回より引用)


このような「憶測」があたかも事実のように拡大再生産され、
富田メモ否定の根拠にまでされるのですから、「偽メール」は
決して一野党・一議員の問題ではないと言えると思いますが、
それはさておき、櫻井氏は(そして彼女と同様の主張をする
人たちも)故意にか不注意でか、ある事実を見落としています。
戦後の天皇の「御親拝」(天皇の靖国参拝をこう呼ぶのだそう
です)は、'75年までの30年間でわずか8回です。そして一度
も、連続して参拝した年はありません。つまり、最後の参拝と
A級戦犯合祀の間に3年間開いているからといって、ただちに
両者は無関係とは決め付けられないのです。
さらに、靖国神社の内規で合祀には「天皇の裁可」が必要と
されており、メモに出てくる松平宮司(当時)は「合祀名簿」を
昭和天皇に見せに行っています。その際、徳川侍従長(当時)
が相当の憂慮を表明したことは、既に知られている通りです。
それを無視して、かつ対外的には秘密裏に合祀を強行した
ことに対して、昭和天皇が怒らないほうが不思議でしょう。
小泉首相の言うように「天皇にも参拝の自由はある」かどうか
は知りませんが、仮に宮内庁の役人の政治判断によるもの
としても、昭和天皇自身の心情・意図はそれとは違っていた
(今回のメモにもある通りだった)と考えるほうが自然に思え
ます。

瀬戸際外交と経済制裁

2006年07月21日 01時15分19秒 | 時事・社会
北朝鮮のミサイル発射を受けて、国連安保理で北朝鮮への非難決議が
全会一致で採択され、サミットの議長総括でもミサイル・拉致問題に言及
されるなど、形の上では「国際社会」からのメッセージが発せられており、
日本のメディアは、それが日本の主体的外交の成果であるかのごとく
報じています。
しかし、「断固制裁」と息巻いていたにも関わらず、米国に梯子を外された
格好の安保理決議の顛末を見ていると、日本の外交は手詰まりである
ばかりか、「国際社会」で孤立しつつあるように感じます。「日米関係さえ
良ければ他国との関係もうまく行く」と小泉首相がのたまったのは、いつ
のことでしたっけ。当の米国が、日本を唯一のパートナーとは見做して
いないどころか、アジアにおいて相対的地位は低いことが、図らずも暴露
されてしまったわけです。
そんな中で、最後まで強硬に「制裁」を主張し続けた日本の姿勢を、「中国
やロシアを妥協に導いた」などと賞賛する報道が目立ちますが、果たして
そうでしょうか。「主体的外交」どころか、米国の観測気球の役割をさせられ
ただけにしか見えません。議長声明と非難決議の間での綱引きになる、と
いうのは、ある程度の知識と冷静さがあれば初めから読めていことであり、
日本の行動が結果を大きく変えたと言える証拠はどこにもありません。
それに、仮に日本の「主体的外交」の結果流れが変わったとするならば、
日本の取った手法こそ、「制裁決議」をちらつかせて「国際社会」の危機感
を煽り、最終的に「非難決議」で念願であった「圧力」の足掛かりを築いて、
メンツも保つという「実」を取る、「瀬戸際外交」にほかなりません。
なんて書くと、「そういう駆け引きは、外交の常識だ」などと反論が返って
きそうですが、とすれば、北朝鮮だって特別なことはしていないわけです。
「独裁・人権抑圧・テロ支援国家」であり「何をするか分からない」という
イメージゆえに叩かれているに過ぎません。
ミサイル問題にしたってそうです。迎撃体制の整備とか、先制攻撃とか、
威勢のいい言葉が踊っていますが、そのように軍事力を肯定するならば、
ミサイルの保有や発射実験はそれこそ北朝鮮の当然の権利であり、何ら
非難されるいわれは無いことになります。六ヵ国協議の中心議題でもある
「核開発」とは明らかにレベルが違います。
ミサイルなら、在日米軍も中国も持っています。専守防衛の建前で飛距離
が短いものなら、自衛隊にもあります。ミサイル発射がいけないのではなく、
北朝鮮だから駄目、ということなのです。
その論理で行くと、「靖国参拝をやめないから駄目」という主張も、決して
無視できない筈なのですが・・・。

もうひとつ気になるのが、経済制裁です。結局当面は日本だけ(偽札問題
を理由に米国は既に金融制裁を行なってますが)で、さほど影響は無いと
思いますが、日本国内の世論の異常な偏りが気になるところです。
かつて「ABCD包囲網」と呼ばれた経済制裁を受けた日本は、太平洋戦争
へと突入して行きました。それを「自衛のための戦争」だったと主張する
人たちは、北朝鮮が「自衛のために」暴走しても、それを許すのでしょうか。
歴史は繰り返します。今、それをどう認識するかが問われています。

ボクを発射台にのせて

2006年07月05日 23時55分21秒 | 時事・社会
世間と一緒に騒ぐつもりはありませんが、予定変更します。
タイトルからお分かりの通り・・・分かんないかな?
ニュースを見た時に私の頭の中で流れた、ザ・ブルーハーツの
「ミサイル」なのですが。

どなたかがテレビで、「国際社会の不安・批判を無視した暴挙」
とコメントしてたのを聞いて、某首相の靖国参拝や、某大統領の
対テロ戦争と一緒じゃん、と思ってしまいました。
発射情報はかなり前から流れていて、オーストラリア辺りからは
テポドン以外のミサイルも発射するかも知れない,という情報も
伝わっていたにも関わらず、某首相は外遊に出かけ、某大統領
と呑気にプレスリーに興じている始末。えひめ丸事件の報告を
受けながらゴルフを続けていた前首相よりもタチが悪いかも。
帰国まで発射を待ってもらえて、本当に悪運の強い人です。

米国の独立記念日とスペースシャトル打ち上げに合わせた今回
のミサイル発射は、北朝鮮はもはや日本を相手にはしない、と
いう意思表示だと思います。
某首相の「最後のサプライズ」として3度目の訪朝があるのでは、
と一部で噂されていた中での、先の金英男氏の件と、今回の件
は、死に体となった現政権に見切りをつけて、対米交渉一本に
絞った、としか見えません。実際、米国は極めて冷静に対応して
いますし。
日本の反発・強硬姿勢も既に織り込み済みでしょう。というより、
逆効果に終わる可能性が高いと思います。
日本単独で経済制裁しても効果が無いことは以前から指摘され
ていますが、むしろ日本海沿岸(特に山陰)地方で、貿易停止の
悪影響が出る懸念があります。そうなると、地元では竹島近海
での漁業権確保を求める声が高まるでしょう。韓国による竹島
海域調査と相俟って、両国の関係悪化は必至です。日韓両国
が対立、しかも領土絡みでとなると、中国やロシアも日本の側
には付けなくなります。それこそ北朝鮮の思う壺です。
プライドと根拠の無い自信の塊で突っ走るとどうなるか、サッカー
W杯で痛い目に遭って分かったと思ったんですけどね。

今回、思ったほど飛ばずに日本海に落ちたのが、たまたまなの
か、根本的な問題なのか、それとも狙ったのか、定かではあり
ませんが、必要以上に懸念することは無いのではないか、と
私は感じます。北朝鮮に戦争を仕掛ける能力は無いことが逆に
証明されたのではないか、と。一度にこれだけ打ち上げたのは、
実は「武装解除」かも知れない、というkaetzchenさんの深読み
も、あながち的外れではないかも知れません。
それに、もっと大きな脅威が私たちの周りにたくさんあることから
目をそらされないようにしなくてはなりません。
中国や米国の核実験にも経済制裁するわけじゃないですしね。
「世に倦む日々」の悲観的なシナリオ通りに事が進んでるのが、
悲しくもあり恐ろしくもあります。
海外脱出も考えなきゃいけないのかな。

心神耗弱

2006年07月03日 22時50分51秒 | 時事・社会
新聞で読んでいた筈ですが気づかず、HOME★9さんのブログ
取り上げられているのを読んで、驚いたニュースがありました。

3人刺殺:心神耗弱認め、被告を無期懲役に減軽 東京高裁

 東京都江戸川区の荒川河川敷で99年にホームレス仲間3人を
刺殺したなどとして殺人や死体遺棄などの罪に問われた無職、
安藤義雄被告(59)に対し、東京高裁は27日、死刑とした1審・
東京地裁判決(03年6月)を破棄し、無期懲役を言い渡した。須田
賢裁判長は「覚せい剤使用の影響による心神耗弱の状態にあり、
周囲のホームレスが敵との幻覚・妄想の下で殺害した」と判断し、
刑を減軽した。 
 判決によると、安藤被告は99年9月8日、荒川河川敷で当時57~
61歳の仲間の男性3人を相次いで刺殺。別の男性にも切りつけた。
翌日、3人の遺体を荒川に遺棄した。1審判決は仲間とのトラブル
の末の事件と認定し「覚せい剤の影響は否定できないが、行動を
制御することが著しく困難な状況にはなく責任能力が認められる」
として被告側が控訴していた。【佐藤敬一】

              (毎日新聞 2006年6月27日 20時30分)

刑法39条 心神喪失者の行為は、罰しない。
     2 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

HOME★9さんの記事を読んで頂ければお分かりかと思いますが、
今回の判決は、この刑法39条を「文字通り」適用したものです。
HOME★9さんも指摘していますが、過去の判例ではアルコール
や麻薬、覚醒剤の摂取により、故意に心神喪失に陥った場合は、
刑法第39条1項「心神喪失者の行為は、罰しない。」は適用され
ないとされています。飲酒運転を考えれば分かりやすいでしょう。
罪に問わないどころか、事故でも起こせば「危険運転致死傷」で
重罰に処せられます。
今回のケースも、その時の精神状態が問題ではなく、「なぜそう
なったのか」が問われるべきで、さもないと、裁判所が薬物使用
を推奨する結果になりかねません。
薬物に関しては、どれが本当に体に悪くてどれがOKなのか(現状
は全て「違法」ですが)とか、タバコや酒も似たような物じゃないの
とか、正直よく分からないのですが、犯罪を誘発するのであれば、
重罰を、というHOME★9さんの主張に私も賛成です。

ところで、このところ裁判で、この「心神喪失(耗弱)」が争われる
ケースが目立っています。そして「心神喪失(耗弱)」を主張する
弁護人や、それを認める判決を出した裁判官に対しても、激しい
攻撃がなされるようになりました。
確かに「方便」として使われているようなケースも見受けられます
が、法が定めている以上、それを主張することは当然の権利です
し、それを認める判断を下すのも裁判官の権限です。
「異常心理」としか言いようの無い犯罪者が増えた、或いは国民
全体が病んでいるとも言える状況で、現行の法体系が有効か、
という問いはあるでしょうが、「時代の変化」や「世論」を口実に、
裁判所が恣意的に法を解釈・適用することの危険性を見逃して
はなりません。
「法治主義」は、権力の言いなりになることではなく、法を楯に
力で押すことでもなく、法の精神を守り、生かすことである筈です。
では、現在の「法の精神」とは何か、次回考えたいと思います。

過ちを繰り返さないために

2006年06月27日 00時14分30秒 | 時事・社会
靖国訴訟に関しては、昨日と一昨日の記事で一応終わりにするつもり
でしたが、1997年に最高裁が違憲判決を出した「愛媛玉串料訴訟」に
おける、尾崎行信裁判官の意見を、ぜひご紹介したいと思いまして、
もう一日引っ張らせていただきます。

「本件玉串料の奉納が金額も回数も少なく、問題とするほどのもので
はないと主張されており、これに加えて今日の社会情勢では、昭和
初期と異なり、もはや国家神道の復活など期待する者もなく、その点
に関する不安を杞憂に等しいとも言われる。しかし、われわれが自ら
の歴史を振り返れば、そのように考えることの危険がいかに大きいか
を示す実例を容易に見ることができる。人びとは大正末期最も拡大さ
れた自由を享受する日々を過ごしていたが、その情勢は、わずか数
年にして国家の意図するままに一変し、信教の自由はもちろん、思
想の自由、言論・出版の自由もことごとく制限禁圧されて有名無実に
なったのみか、生命身体の自由までも奪われたのである。『今日の
滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』との警句を身をもって体験
したのは最近のことである。情勢の急変には10年を要しなかったこと
を想起すれば、今回この種の問題を些細なこととして放置すべきでは
なく、回数や金額の多少を問わず、常に発生の初期においてこれを
制止し、事態の拡大を防止すべきものと信ずる。
 さらに、わが国における宗教の雑居性、重層性を挙げ、国民は他者
の宗教的感情に寛大であるから、本件程度の問題は寛容に受け入
れられており、遺憾などと言ってとがめだてする必要がないとする者
もある。しかし、宗教の雑居性などのために、国民は宗教につき寛容
であるだけでなく、無関心であることが多く、他者が宗教的に違和感
を持つことに理解を示さず、その宗教的感情を傷つけ、軽視する弊害
もある。信教の自由は、本来、少数者のそれを保障するところに意義
があるのだから、多数者が無関心であることを理由に、反発を感ずる
少数者を無視して、特定宗教への傾斜を示す行為を放置することを
許すべきではない。」

これに先立つこと20年、'77年の津地鎮祭訴訟最高裁判決において、
当時の最高裁長官で、無教会の熱心なクリスチャンでもあった藤林
益三裁判官が、「地鎮祭は慣習化した社会的儀礼であり、宗教的効
果は薄い」との法廷意見に対し「神社神道の固有の祭式で行われて
おり、宗教的儀式であることは明らか。本件は極めて宗教的色彩が
濃い」との反対意見(他4名)を述べ、さらに「国家と宗教が結びつけ
ば、信教の自由が侵害される。少数者の宗教や良心は、多数決を
もっても侵犯されない」との追加反対意見も出しています。そして、
「夕暮れ時に、光がある」(ゼカリヤ書14章7節)という言葉を残した
と伝えられています。
今がどのような時代か、その中で私たちは何に目を向けるべきかが
問われているのではないでしょうか。