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Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

憲法記念日

2005年05月03日 23時49分33秒 | 時事・社会
年を追うごとに、今日が何の日か意識しなくなるのは、
私が日和ってるから、とは思いたくないけど・・・。
これほど「憲法改正」が騒がれているにも関わらず、
実感として憲法が全然身近になっていないですよね。
新聞に、今の若者に憲法改正派が多いのは、憲法が何かを
知らず、自分たちには関係ないと思っているから、という
指摘がありましたが、「憲法を改正したら、生活がこんなに
豊かになります」みたいな具体的な話をしてくれる政治家や
専門家って、いないですよね。
(むしろ悪くなることのほうが多くて、具体的に話せない
 のかも知れませんが・・・。)

知らないといえば、なぜ「憲法記念日」がこんな中途半端な日
なのか、知らない方も多いのではないでしょうか。
1946年11月3日に現憲法が公布され、その6ヵ月後の
1947年5月3日に施行されたので、今日なのです。
問題はなぜ11月3日に公布されたのか、ですが、現在は
憲法公布の記念日として「文化の日」となっているこの日は、
元々「明治節」といって、明治天皇の誕生日を記念する祝日でした。
一部には憲法公布と明治節とは無関係でたまたま重なっただけ、
とする説もありますが、お役所が休みの日に公布するというのも
変なので、やはり意識的に選んだと見るのが自然でしょう。
(そういえば大正天皇の誕生日って、知られてませんよね。
 8月31日らしいですけど。ちなみに名前は嘉仁です)
この国は至るところに天皇制が根づいてるようで。

そういえば、郵政民営化のゴタゴタのおかげで法案提出は
見送られそうですが、「みどりの日」を「昭和の日」にする
動きが具体化しています。そのうち「文化の日」も「明治の日」に
なんて話も出てきたりして。何でそこまで露骨にやらなきゃ
いけないんでしょう? ちょっと恐ろしい時代ですね。
代わりに5月4日を「みどりの日」に、というのには思わず
笑ってしまいましたけど。

まあ、仮に憲法を全面改正するとしたら、第一章を「天皇」と
するのはやめてほしいですね。
現憲法がそうなっているのは、明治憲法の改正という形式を
とったからという説と、敗戦後の国民の一番の関心が
「天皇がどうなるか」だったからという説とがありますが、
いずれにせよ次も天皇を最初に扱わなければならない理由は、
日本が民主主義国である限りありえないわけですから。
逆にいえば、改正案でそこのところをどうしているかで、
その政党なり個人が「民主的」かどうかよくわかるわけです。
要チェック。

歴史は繰り返す?

2005年04月28日 01時02分29秒 | 時事・社会
このたびの列車事故で被害に遭われた方々やご遺族の方々の上に、
神様の慰めをお祈りいたします。

現時点で死者100人近く、負傷者450人以上。単独の列車事故として
は、戦後最悪だそうです。ちょっと調べてみましたが、複数の列車が
絡んだ事故で最悪の三河島事故('62)にも匹敵する大惨事です。
事故そのものに関しましては、まだ不明な点も多く、
またいろんな人が語っておられますので、私があえて何かを書くこと
もないかな、と思ってましたが、ふとある事件を連想したので・・・。

1990年7月6日、兵庫県立神戸高塚高校の校門で、一人の女子生徒
が校門に頭を挟まれ亡くなるという痛ましい事故が起こりました。
(奇しくも同じ兵庫県ですよね。)
連日ワイドショーで取り上げられ、「管理教育」が槍玉に挙げられて
いたように記憶しています。(保坂展人が引っ張りだこでした。)
当然、校門を閉めた教師が最もひどく叩かれてましたが、
「遅刻するほうが悪い」「他に方法がないじゃないか」という
同情論も少なからずありました。かなりの生徒が遅刻ギリギリの時間
に駆け込んでくるため、遅刻指導を公平に(厳密に)行おうとすれば、
校門を閉めるという方法をとらざるをえなかったのかも知れない。
でもそのために、閉まる門へ生徒が殺到するという悪循環。
厳しい罰があったとか、この日がテストだったからとも言われてます
が、起きるべくして起きた事件だったと思います。
そして犠牲となった女子生徒も、他の生徒たちも、被害者であると
同時にそのような状況を、もっといえば歪んだ「学校社会」をつくり、
支えていた一人であったことも否めない事実です。
倒れた女子生徒の上をまたいで登校した生徒がいたと聞いた時は、
背筋が凍る思いをしました。
あれから15年。
彼女の死は、生かされなかったのでしょうか?

運転士の資質に問題があったというような報道がなされていますが、
これは個人に責任を押し付けて済む問題ではなく、JRの問題であり、
スピードを求める社会の問題でもあります。
本当の「安全」は、結構非効率、遠回りだということを忘れると、付け
焼刃的な対策で終わって、また悲劇が繰り返されるかも知れません。

隣国の「暴動」に思う

2005年04月20日 01時32分58秒 | 時事・社会
このところメディアで「暴動」という言葉をよく目にします。
どちらかというと体制側の言葉のようで、正直、あまり好きな言葉
ではありません。でも行為そのものは、決してよいことではないの
は確かです。
「テロ」にせよ「暴動」にせよ、目的が正しければ手段が正当化され
るわけではありません。暴力に頼ることは、主張の正当性ではなく
力関係によって物事が決まるということを認めることになるからです。
権力による暴力の独占、少数者の権利の擁護、民主主義社会に
おいても「数の横暴」がまかり通る現実など、考えなければならない
問題は多いですけどね。
つい並べて書きましたが、「テロ」と違って「暴動」は、政治的行動と
いうより、群集心理の産物といったほうがいいでしょう。大義名分は
どこかに行っちゃう。流されやすい。だから、ファシズムにも容易に
転化するのは、歴史が示す通りです。

さて、お隣の中国の「暴動」は一向に収まる気配がなく、毎度のこと
ですが、ここぞとばかりに不安や危機感を煽ったり、中国を蔑視する
ような言説がまま見受けられます。
でも日本だって、似たようなものだという気がしないでもないですけど。
古くは「日比谷焼き討ち事件」や「米騒動」、関東大震災の時の朝鮮
人虐殺、戦後も「安保闘争」に「国際反戦デー事件」に「学園紛争」
等々ありました。
サッカーW杯フランス大会アジア地区予選でも、なかなか勝てない
時には荒れてました。身近なとこでは「阪神ファンの集団」なんかも
怖かったりします。今回も中国人への嫌がらせが多発しているよう
ですね。「日本人はあんな真似はしない」と言ってる人がいますが、
真っ赤な嘘です。
確かに中国政府は「暴動」を黙認し、責任を果たしていない面があり
ます。それは「歴史問題」によって免責されるものではありません。
でも「歴史問題」とは侵略という「歴史的事実」だけの問題ではなく、
日本がその責任をきちんと負っていないことが問題なのです。
教科書問題にしてもそう。別々の問題なんだけど、やってることは
一緒だから、お互いに「お前に言われたくないよ」てなことになって
しまうわけ。中国の「愛国教育」が悪いなら日本も「愛国心」なんて
教えなきゃいい。自国の「負の歴史」は率先して教えるべきです。
中国や韓国は「国際標準」でも
「見習うべき模範」でもないわけですから。
そういえば、ローマ法王の葬儀に元首・閣僚級が参列しなかった
のは、主要国では中国と日本くらいだそうで。外交センスも礼儀も
欠いた国同士、泥仕合というか、どんぐりの背比べというか・・・。

もひとつ思うのは、報道されてるのが「嘘」とは言いませんが、
誰が何をどういう意図で伝えてるか、を常に意識することが必要
です。たとえば先日の福岡県西方沖地震の際、当初全国ニュース
では玄海島と天神地区の映像が繰り返し流されるばかりでした。
福岡出身の私はもっと他のところの様子も見たいのに、
テレビは「絵になる」ところしか映しません。
政治的な問題だとなおさら、様々な「制約」が発生します。
メディアは中立公正なんてのは、幻想です。
「情報化社会」といわれてますが、本当に必要なことを正しく知る
のはむしろ難しくなってきているかも知れません。




最近の報道

2005年04月10日 02時12分52秒 | 時事・社会
先日報道された、京都の聖神中央教会牧師による性的暴行事件。
大変痛ましく、悲しく、またクリスチャンとして残念でなりません。

ところで、その事件を口実に、一部で特定メディアへの攻撃や
民族差別的発言がなされていることにも、胸を痛めています。
叩かれているのは御多分に漏れず「朝日」ですが、
その理由が「容疑者を永田保と報道してるから」というのには
あきれ返ってしまいました。
「在日」の人達が通名を使う理由と、実名報道の「意義」を
考えれば、「永田」姓を報じるほうが理に適っているわけで、
「正論」を自称する連中の底の浅さを露呈しているだけじゃん、と。
まあ「朝日」側も、本名を併記するという選択肢もあったわけで、
自ら招いた災いという側面も無きにしも非ずですが。
(でも他のメディアも、例えばオウム事件の松本智津夫をいまだに
「麻原彰晃」と呼んだりしてるわけだし。一緒じゃん。)
「金」姓にこだわるのには、「在日」であることを強調して
民族主義を煽ろうという意図が感じられてなりません。
それに乗らない奴には「偏向」のレッテルを貼るなんて、
まさにいじめの構図ですね。
大体メディアのそんな「偏向」がいけないのなら、
報道機関が複数存在する必要は無いわけでしょ?
「読売」と「産経」が合併してから言うのならわかるけど。

教会の「幹部」のリストがネット上で流されていたのにもびっくり。
宗教法人の役員だからある意味「公人」だとしても、
これって明らかに個人情報保護法違反でしょう。
それに「連帯責任」は悪しき「横並び主義」だ、というのが
教育問題における「正論」だと思ってたんだけどな。

九条

2005年04月01日 03時03分25秒 | 時事・社会
地名ではありません。憲法のお話です。
いきなり硬い話題ですが、衆参両院の憲法調査会も大詰めということで、
ここらで「声なき声」を上げとかなくちゃ、ということで。

  第二章 戦争の放棄
 第九条 [戦争の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認]
   日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、
  国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、
  国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、
  これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


自民党のセンセイ方も「戦争放棄は良いから一項は残す。
二項を変えて、自衛権を明記する」とかおっしゃってますが、
(でもその理由が「周辺諸国に配慮して」という声もチラホラ。
「押し付け」はダメなのに「自主規制」だったら良いわけ?)
たぶん世論調査でも「それならOK」って結果になるのでしょう。

でも、条文をきちんと読めばわかりますが、九条二項は
「前項の目的を達するため」と始まっています。
つまり一項の「戦争放棄」(日本の「平和主義」)は
「戦力の不保持・交戦権の否認」によって成り立つ、
言い換えれば、「戦力の不保持・交戦権の否認」によって
もたらされる「平和」を日本は目指す、というのが現憲法の論理です。

「理想主義」だとか「実情に合わない」とか、たたかれてますが、
二項を外して今度はどういう「平和」を目指すのかという理念、
どうやって「平和」を「実現」するのかというプロセスが、
九条改正論には欠落しています。
このままでは「平和主義」はただのスローガン、努力目標に
成り下がることでしょう。
ああ、おそろしや。