goo blog サービス終了のお知らせ 

Naked Heart

その時々の関心事をざっくばらんに語ります

郵政民営化って何?

2005年06月06日 23時58分33秒 | 時事・社会
国会では野党も復帰して審議が再開されたようですが・・・
「審議拒否」が効果があるかどうかはともかく、
「出席して議論する中で法案の問題点を明らかにすべきだ」
という原則論的な批判はいかがなものでしょう?
問題点はとっくに明らかだと思うんですけど。
国民に周知していないとしたら、それは野党のせいじゃなく
マスコミの努力が足りないんだと思いますけどね。

「民で出来ることは民へ」がキャッチコピーになってますが、
鉄道インフラを抱えた旧国鉄や、当時は通信を独占していた
旧電電公社と違って、今の郵政三事業をそっくりそのまま
民営化しなきゃいけない理由は見当たりません。
民間企業の参入や委託を拡大し、事業を縮小・廃止するのが
本当の「民で出来ることは民へ」ではないでしょうか。

「郵貯・簡保が国債を買い支えているから、無駄な公共事業
がなくならない。改革を進めるために元を断つ必要がある」と
いう「入口論」も幅を利かせていますが、これもおかしな理屈
です。歳入不足を補うための補正も含め、国債発行額は国会
で予算化されています。買い手がいるから売るのではなく、
ニーズがあるから発行するのです。郵便局だけではなく銀行も
国債は買っていますがそれでも足りずに、「市中消化の原則」
を崩して日銀の国債保有まで求めたり、海外にまで売り込みに
行ったりしているのが現状です。出口を狭めなければ、新たな
買い手探しに走るだけです。
それに「入口論」が正論なら、税金の無駄遣いを無くすためには
大幅減税を実施すればいいことになりますが、誰もそんなことは
言いません。財政が成り立たないことがわかってるからです。
まあ仮に実行したとしても、無駄な所は削らずに、減らしては
いけない所が削られそうですが。

「民営化すればサービスが向上し、料金も下がる」という根拠の
ないデマまで流されていて、かなりの人が信じています。
民間の銀行と郵便局、どちらが対応が良いか、料金が安いか、
実際利用すれば一目瞭然です。(条件が違うことは、ひとまず
措きます。)分社化すれば、郵便料金の値上げは必至です。
また、経営効率化のためには大量リストラも避けて通れない
でしょう。公務員だと簡単にリストラできないので、民営化して
自分の手を汚さずにリストラしようという魂胆でしょうか。
でも、失業者が増えれば、また景気が悪くなるのに。

郵便局が唯一の金融機関、という人・地域は、そんなに多くは
ないかも知れませんが、そういう人は他の分野でも不利益を
被ってばかりいる「弱者」であることが多く、それを切り捨てる
ことは行政の責任放棄です。
それに、地銀や農協はあっても都銀の支店がなければ、東京
や大阪への送金でも、出張先でちょっとお金を引き出すのにも
高い手数料を取られるなど、地方のハンディは大きいのです。
地方で郵貯のニーズが高いのには、そんな理由もあります。

「郵便局がコンビニになれば便利になる」・・・。
地方ではコンビニ1店舗新規出店するだけで、地域経済に大きく
影響するのです。下手すれば、商店街が1つつぶれます。
それに、採算が取れるなら大手チェーンがとっくに出店してます。
都会の論理で地方を振り回すのはやめてほしいものです。

それでもやらなきゃいけない「郵政民営化」って、何?

予防接種

2005年06月01日 23時56分27秒 | 時事・社会
5月30日に厚生労働省が、「日本脳炎の予防接種の積極的な勧奨を
差し控える」旨の勧告を出したことで、昨日から保健現場は混乱して
いるようです。大体「積極的な勧奨を差し控える」なんて、奥歯に物が
挟まったような表現してますけど、通達の内容を見ると実質「中止」の
ようですね。ただ、本人(というか保護者)が希望すれば、医療機関で
接種を受けれるようですが。
日本脳炎ワクチンによるとみられるADEM(急性散在性脳脊髄炎)の
健康被害を考慮しての判断だそうです。感染のリスクよりも副作用の
リスクが高い、ということですね。ただ、より安全性の高いワクチンが
開発・供給されれば接種勧奨を再開の予定、なのだそうです。

日本脳炎に限らず、予防接種に関しては、必要性を疑問視する声が
小児医療現場の良心的な医者たちから出されています。
安全性(有害物質やアレルゲン物質の使用、医療事故の危険など)
有効性(ワクチンの効果は長続きしない、ウイルスの型が違うと効果
     がない、など)
を考慮すれば、昔と違って感染症で死に至ることはまず無い現在、
皆が予防接種を受けなければならないことはないはずです。
ではなぜ予防接種が無くならないかというと、ワクチンを製造・販売
している医薬品メーカーと、保健行政と、多くの医者との利害の一致
に基づく「予防接種キャンペーン」に国民が踊らされているからです。
我が家ですか? うちは「自然主義」ですので、娘には予防接種は
一切受けさせていません。それでも元気に育ってます。
「親の思想を子どもに押し付けて」と批判する人もいますけど、薬に
頼るのも一つの思想でしょう。無自覚であるほうがタチが悪いと思い
ますけどね。(ちなみに私は、子どもの頃は「病気のデパート」でした
ので、病気の子どもの苦しみはちゃんと理解してますよ。)

「戸外へ出るときには、できる限り長袖、長ズボンを身につける等、
日本脳炎ウイルスを媒介する蚊に刺されないよう注意喚起を行う。」
って、予防接種しなくてもこれで大丈夫なんだったら、もういらないと
思うんですけどね。お役人の考えることはわかりません。

愛国教育

2005年05月28日 23時50分11秒 | 時事・社会
シンガポールで約10年宣教師をされた方の講演を聞きました。
東南アジアの国に関しては、海外経験のない私はほとんど
知りませんので、とても新鮮なためになる話ばかりでしたが、
愛国教育に関する話はとりわけ興味深かったです。

シンガポールでは、日本統治下の3年半について、小中学校
で詳細に学ぶそうです。日本軍の残虐行為をまとめた特別な
教科書まであります。追体験のための模擬演習まであるのだ
そうです。
なぜそこまで教えるのかというと、「二度とそのような侵略を
受けないために、自分たちの国は自分たちで守る」という意識
を国民に植え付けるためだそうです。日本と違って、いざという
時は簡単に国外に脱出するお国柄なので、愛国心を育てて、
つなぎとめようという意図があるようです。
なので、現在の日本に対して特別な感情は抱いてないようだ、
というお話でした。あくまで個人の経験に基づく判断ですので、
どこまで一般化していいものかわかりませんが。
(中国や韓国だって、実際そこに居合わせた人たちの話では、
過激な行動はごく一部の場所・人々に限られていたようです
し、一般の感情としてはそれほど「反日」ではないのかも。)

それはともかく、アジア諸国の「愛国教育」と日本のそれとの
違いについて、少し考えさせられました。
中韓では行き過ぎの面があるものの、基本的にアジアでの
「愛国教育」は侵略された側の視点で「二度と悲劇を繰り返
さないために」行われています。ところが日本で「愛国教育」
というと、過去の悲劇を直視せず、功績や繁栄を強調する
ことで「誇り」を植え付けようという類いのものです。
日本では戦争被害について学ぶのは「平和教育」ですよね。
私の知る限りは、一部の人が騒ぐほど「加害責任」には触れ
られていませんが、「戦争はよくない」という抽象論で終わる
ものがほとんどだと思います。日本が唯一被害を受けたのが
対米戦争なので、アメリカへの遠慮もあるかと思いますが、
戦争責任を国民がきちんと追及しなかったことが、このような
中途半端な「平和教育」を生んだ要因だろうと思います。





祝日

2005年05月27日 00時40分47秒 | 時事・社会
確か5/3の記事とコメントでちょっと触れましたが、
「昭和の日」について改めて書きたいと思います。
(前の記事を思わせぶりな結びにしたのはこのためです。)

今年が平成17年ですから、高校1年生は平成生まれなんですね。
先日は、昭和60年代生まれの母親にも出会いました。
時代は確実に変化しています。それに抗おうとする、右寄りの
思想の持ち主たちの動きも激しくなっているようです。
昭和天皇が亡くなった直後から、4/29を「昭和の日」にしようと
する動きはありました。結局昭和天皇の植物学者としての功績や
自然への愛着とか何とかを持ち出して、「みどりの日」に落ち着き
ましたが、この時期に改めて「昭和の日」に変えられたことを考え
ると、「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の
将来に思いをいたす」というのは建前で、昭和天皇に直接結びつく
祝日を4/29に作りたかっただけだろうな、と思わずにいられません。

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来
に思いをいたす」のが良いか悪いかはともかく、それが4/29である
必然性は無いといっていいでしょう。私が思いつくだけでも、
・昭和が始まった日 12/25
・昭和天皇即位の礼 11/10
・太平洋戦争開戦の日 12/8
・敗戦記念日 8/15
・昭和が終わった日 1/7
などのほうが、まだ裕仁天皇個人ではなく「昭和」という時代を象徴
する日としてベターなのではないかと考えます。
個人的には、12/25にして、欧米のクリスマス休暇のような「第二の
ゴールデンウィーク」を作ったらいいのにな、と思うのですが。

代わりに「みどりの日」を5/4に、というのもこの日の成り立ちや趣旨
を考えると筋が通りません。大体'85年の法改正で、祝日に挟まれた
日は休日とすることにしたのは、この5/4を念頭に置いた措置であり、
今回の「みどりの日」の移動はこの条項を無用の長物にするものでも
あります。また、この条項や「海の日」の新設には、「日本人は働き
すぎだ」という内外からの批判への対応という側面もあったはずです。
祝日にしないと休まない(休めない)のも問題ですが、それはさておき
新たに休日を増やすという選択肢はなかったのか、不思議です。

私はエホバの証人のように「誕生日を祝う」ことを否定はしませんが、
祝日にして全国民に祝わせるという発想には、抵抗を覚えます。
天皇はそれで嬉しいのかな? 園遊会で、日の丸・君が代について
「強制はよろしくない」と言ってましたが、祝日だったらいいのかな?
明治以前はもちろん、戦前の天皇制においても「誕生日を祝う」のは
決まり事ではなかった、という事実もあります。
明治天皇の誕生日が「明治節」として復活するのは、昭和に入って
からですし、大正時代の「天長節」は大正天皇の誕生日の8/31では
なく10/31でした。そしてどちらも、大正天皇の死後は祝日になって
いません。
昭和天皇のために祝いたい人が勝手に集まるのは構いませんが、
こんな矛盾だらけの祝日を押し付けて、何を目論んでいるのか、
気が気でならないこの頃です。

靖国問題の本質 その3

2005年05月23日 23時23分09秒 | 時事・社会
神道では、「死」は最も忌むべき「穢れ」の1つですから、
葬儀や納骨は決して神社では行いません。
よく日本の仏教は「葬式仏教」だと揶揄されますが、神道は
仏教などの他宗教に葬儀を委託しなければ成り立たない
宗教なのです。
では、神社では何をするのかといいますと、霊を「召喚」して
慰めたり、御利益に与ったりする儀式を執り行っています。
神道は「シャーマニズム」なわけです。
ですから、仏教やキリスト教といった宗教とは相容れない
部分が当然出てきます。
それが個々人や宗教同士の間の問題である限りは各人の
「自由」で構わないのですが、政治が介入して「公の宗教」
などという概念が持ち出されてくると様相は一変します。
靖国・護国神社で死者の霊を「召喚」して「慰霊」が行われる
ためには、死者がまだ「慰められていない」ことが前提となり
ます。つまり他宗教は否定されるわけです。そのような思想
を政府が公認するならば、「公の宗教」と「個人の宗教」の
並存ではなく、政府による宗教の選別になってしまいます。

神社は本来、一宗教法人に過ぎないはずですが、「伝統」の
名の下に宗教の強制がなされている、という問題もあります。
「氏子制度」がそれです。檀家制度や幼児洗礼など、イエ制度
と結びついた問題は他宗教にもありますが、現代では個人の
意思で離れることは一応可能です。しかし神道の場合は、その
土地に住む限り、本人の意思に関わらず「氏子」にされ、組み
込まれていきます。(たとえば「町内会費」を通して神社に寄付
させられたり、「伝統行事」への参加を求められたり)
靖国・護国神社の「合祀」も同様の問題を抱えています。個人
の信仰や思想・信条によって拒否することはできない、とされる
からです。(自衛隊合祀拒否訴訟 最高裁判決)
靖国・護国神社では、戦死者が「神」になるわけですが、その
「神」とは国を守る「軍神」のことなんですよね。言ってみれば、
死んだ後もまた兵役が課せられる(しかも半永久的に)ような
ものです。死んでも国家に支配され続けるわけです。
靖国の政治的利用、政府の関与は、国民の内面の自由を奪う、
との批判が宗教家や知識人から絶えないのは、そのためです。

靖国問題の本質 その2

2005年05月22日 23時24分29秒 | 時事・社会
今朝の中国新聞に、加藤典洋氏の評論が載っていました。
加藤氏によると、世界大戦という「イデオロギー(大義)」
の対決に敗れた国は、その大義を否定され、戦勝国の大義に
「転向」せざるをえなくなるのだそうです。
つまり、現在日本人が信奉している「民主主義」とは戦争の
死者から見れば「敵のイデオロギー」であり、彼らにとって
我々は「裏切り者」にほかならない。その我々が「それでも、
戦争の死者たちに対し、自分たちは、あなた方のおかげで、
今の平和を享受できていると感謝するとすれば、それは、
『自然』な振る舞いではない」わけです。
「わたし達はいま、『自然な感情』から切り離された世界を
生きている。いま必要な歴史認識とは、これではないのか」
と加藤氏は、「愛国心」を「自然な感情」だと言いくるめよう
とする勢力、その歴史認識に対して異を唱えています。

日本が「平和国家」であるとするなら、その根拠は憲法であり、
戦後の数々の「民主化」政策であるはずです。
「伝統」とか「自然」を口実に、それらがなし崩し的に改悪されて
いる現実に対して、日本人自らが危機感を持つべきです。
言葉だけの「平和国家」なら、「民主主義人民共和国」と自称する
どこかの独裁国家となんら変わりはありません。
もし本当に戦争をする気がないのなら、靖国・護国神社なんて
必要ないはずですし。

そもそも、国家が宗教を持たなければいけない理由がわかりません。
「国のために命を捧げた人」に報いるために、叙位叙勲があり、遺族
年金や恩給があるはずです。その上に宗教まで持ち出さなければ
ならないというのは、それらの制度だけでは不十分であり、政府は
責任を果たしていない、と自ら認めることにほかなりません。
靖国参拝より先にすることがあるでしょ、と言いたい。
「個人の信教の自由」を口実にするならなおのこと、「だったら公務を
優先しなさい」と言わずにおれません。
だって普段、「自分の権利ばかり主張するのはよくない」って言ってる
人たちだもん。示しがつかないって、わからないんですかね。

靖国問題の本質 その1

2005年05月20日 23時53分40秒 | 時事・社会
まず押さえておかなければならないことは、靖国神社は初めから
政治的目的をもって作られたものである、ということです。
1869年(明治2年)創建の「東京招魂社」(靖国の前身)は、
戊辰戦争の政府軍側の戦死者の慰霊のためにつくられました。
その後、幕末の志士や明治以降の内乱・戦争・事変での戦死者
などが合祀されて、現在に至っています。
人を祭神としている神社は数多くありますが、英雄や偉人、
死後「祟り神」となった人ばかりでなく一兵卒まで祀るのは、
靖国・護国神社以外にありません。
戦前の靖国は「別格官弊社」とされていましたが、この言葉は
「勤皇志士、顕著な功績のあった人臣を祭神とする神社の社格」
という意味だとされています。大した戦果は挙げなくても、
国のために戦って死ねば「顕著な功績」になるのでしょうか。
私にはちょっと理解できませんが。それとも戦前の軍隊は
「天皇のため」に戦ったから「勤皇志士」に含むのでしょうか。
だとすると、今後の「戦死者」は合祀されないんですかね。
神道の形式を取り入れてはいますが、ルーツから言っても
内実を見ても、靖国・護国神社は一般の神社とは別物と考える
のが自然だと思います。

よく問題になるA級戦犯ですが、戦争裁判受刑者については
法務死(「犯罪者」とはみなされていない)として、戦死者に
準じるものとして扱われているそうです。
中国や韓国からの非難の可否はともかく、大抵の日本人は
先の戦争の責任は東条英機に、あるいは軍部首脳にあると
思ってるはずなんですけどね。自分たちで責任をとらないで
(とらせないで)おいて、他人の口出しにだけ文句を言うのが
大人の対応なのでしょうか。
中国や韓国にも問題や負の歴史はあるじゃないか、という声も
聞きますが、だから日本も許されるというわけではないでしょう。
他国に先んじる立派な国でないと「誇り」なんて持てませんね。

カルトについて

2005年05月14日 23時26分55秒 | 時事・社会
すっかり忘れられた観がある、京都聖神中央教会の事件ですが、
その絡みで「カルト」の問題について少々述べたいと思います。
日本でこの言葉が一般化したのは、やはりオウム真理教による
「地下鉄サリン事件」によるところが大きいと思います。
そのためか、「カルト教団」という用語が主に使われ、宗教の問題
に限定される傾向があるように思われます。
さらに「宗教は恐ろしいもの」という偏った認識まで広がり、確か
に宗教団体絡みの事件も続きましたが、教団バッシングや宗教
法人への規制強化など半ばファッショ的な動きもありました。

欧米でも、宗教的な意味合いは強いですけど元々は「分派」という
意味の言葉です。類義語として「セクト」がありますが、これも日本
だと変に政治的な意味合いが強い言葉になってますよね・・・。
それはともかく、研究が進んでる欧米では、日本の「カルト教団」に
相当する概念として「破壊的カルト」という言葉が使われています。
(逆にいえば破壊的「でない」カルトもあるわけで、「カルト」は必ず
 しも反社会的団体ではなく、社会の一員として認知されている
 ものもあるわけです。)
で、「破壊」といってもオウムのようにテロをやるところばかりでは
なくて、主として「人格破壊」=マインド・コントロールが行われて
います。最近ではだいぶ理解が進んで、昔のSF映画の「洗脳」の
イメージは消えつつありますが、まだ「マインド・コントロール」に
ついての誤解が少なくないようです。

一般的な手口としては、まず「ラブシャワー」と呼ばれる、手厚い
歓迎と次々に差し出される好意があります。これをされると、
よほど疑い深い人間でない限り、警戒感を解いてしまい、
受けてばかりで悪いから自分も何かお返しをしなくては、と
思うようになります。

次に情報操作がなされます。組織に都合のよい情報だけが与え
られ、組織の思考パターン、組織のフィルターを通しての物事の
理解に次第に慣れさせられていきます。注意しなければならない
のは、最初から明らかな「嘘」を教え込むのではなく、物事の解釈
を少しずつ組織に都合のよい方向にずらしていくのが常套手段だ
ということです。最初の段階で「他の解釈はないのか?」と自分で
考えることをせずに、組織の提示する論理を受け入れてしまうと、
たとえ施設に隔離されたり、組織以外の情報との接触を物理的に
絶たれたりしなくても、自ら他の情報を否定し拒絶するようになって
しまうのです。

そして、恐怖心が植え付けられます。
「組織にとどまっている限りあなたは幸福です。でも組織を離れる
ならば破滅が待っています」と。
こうして、組織のために働き続ける人間が次々と産み出されていく
のです。

と、ここまで読んで、思い当たることがおありの方もいらっしゃるの
ではないでしょうか? 似たようなことって、私たちの日常生活の
中にも紛れ込んでたりしますよね。例えば企業とか。(佐高信の
ように、会社批判で飯が食えるような人もいるくらいですから。)
自分のことには結構ルーズなのに他者には容赦ない批判を浴び
せる人ってよくいますが、「カルト」についてもそれが当てはまる
ように思います。
宗教の問題にしても、どれだけの人が神道と靖国の関係や氏子
制度・檀家制度なども押さえた上で、誰かを批判したり擁護したり
しているでしょうか。

ということで、明日書けるかどうかはわかりませんが、近いうちに
今度は靖国神社の問題について。

組織というもの

2005年05月13日 23時59分08秒 | 時事・社会
次々と事件が起こって、一つ一つについてじっくり考える暇がなくて
困ってしまいます。マスコミの報道も世論も、場当たり的な感じがして、
見ていて不愉快になることが多いこの頃です。
だから、たまに含蓄に富む意見に出会うと、賛成反対は別にして、
ほっと落ち着く気がします。
友人のブログを通して知った、本郷美則氏のブログ「竹庵雑記」も
そんな貴重な出会いの場です。

先日その「竹庵雑記」に、JR脱線事故の現場に居合わせながら救出
活動を手助けせずにそのまま出勤したJR職員へのバッシングを批判
する記事が載っておりました。その趣旨は「事故列車に乗り合わせた
が、乗務を優先して職場に直行した2人の運転士の行動は、全体の
運行業務を守ることのためには当然で、死傷者を放置して、と一緒くた
に責めるべきではない。世論に圧された処分など、あってはならぬ」と
いうものです。それに対して、「2人の運転士の行動を支持し、『よくぞ
書いた』とする者が4、『やはり負傷者救出に加わるべきだった』と、
筆者の判断に反対する者が3と分かれた」と、別の記事に後日談も
載っておりました。
JRの経営体質や報道に見られるような言行は確かに批判されるべき
ですが、この件に関しては「常識ある人間」なら批判できないはずだと
私は思います。
どんなに正しく思えることでも、自分一人の判断で行動してはならない、
と以前外回りの仕事をしていた私は、度々上司から叱られてました。
上司に報告して指示を仰いだこと、そのまま出勤するよう命じられて
従ったことは、社会人としては「常識」です。
(でも私は、上司には黙って自分の意思を貫くことが多かったですけど。
 もちろん、業務に差し障りのない範囲で、自己責任でね。)
道義的な責任を問われるにしても、それは出勤を指示した上司の責任
であって、運転士が責められるべき事柄ではないはずです。
批判する人たちは、組織というものをどのように捉え、行動しているのか、
逆に聞いてみたいものです。

ネット文化

2005年05月06日 23時57分19秒 | 時事・社会
ネットで検索していると、たまに2ちゃんねるの書き込みに
出くわすことがあります。見なきゃいいんですけど、
「いろんな意見を知っておくのも必要かな」とか思って、
つい見てしまうんですよね。で、不快感と後悔の念を抱いて
ブラウザの「戻る」ボタンを押すことになるわけですが。

2ちゃんねるのような自由な議論の場っていうのは、
健全な社会にはあってしかるべきものだと思いますし、
匿名性も発言者の権利保護のために認められるべきです。
ただそれは、2ちゃんねるの専売特許ではなく、
他のメディアにも要求していかなければなりません。
思想的な偏りとか、言辞の稚拙さとかも、まあありかな。
思想の自由、言論の自由は何人にも守られねばなりませんから。
でも、どうしても私が2ちゃんねるを受け入れられないのは、
初めから「議論」になっていない(というか、する気がない)
書き込みが目に付くからです。
同じ意見の持ち主だけが集まって内輪で盛り上がるのは
「議論」とは言いません。特定の個人・団体を誹謗中傷する
ようなスレッドも多い気がしますし。
(あくまで、私が検索中に迷い込んだ範囲内ですけど)
そういうことは、以前もアングラでは行われてましたが、
ネットの普及でどっと表に出てきたって感じです。
オープンな議論をしないのなら、最初から完全非公開で
やってほしいものです。

って、2ちゃんねる批判で終わっちゃった・・・。