8月15日は終戦記念日です。戦後68年が経過し今年も東京で、68回目の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれます。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相ら政府関係者と遺族ら約6000人が参列する見込みで、310万人に及ぶ戦没者の冥福を祈り、平和への誓いを新たにいたします。
そして今回は、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され次々と戦地へ旅立っていきました。平和な今の時代には、想像することすらできない極限の状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介したいと思います。
戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言
<戦時の記憶を今>
多くの尊い命が奪われた先の大戦では、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ旅立っていった。女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成された。
その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアにまで及び、傷病将兵や一般人の救護に当たった。しかし、戦況の悪化とともに過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も長期に抑留されたりするなど、筆舌に尽くしがたい運命をたどった。
戦後70年近くなるこの時期に、日赤本社の協力を得て、元日赤従軍看護婦への長時間インタビューが実現した。自らの命も顧みず働いた戦時の記憶を今とどめなければ、語り継がれる機会が失われるとの思いに動かされた。
平和な今の時代には、想像することすらできない極限の状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介いたします。 聞き手:時事通信社解説委員 宮坂一平 公開日: 2013/08/13
<貧しさと時局>
日赤救護看護婦の制服姿の肥後さん〔肥後さん提供〕
■肥後喜久恵(ひご・きくえ)さん
私は1924(大正13)年、長野県の伊那谷の養蚕農家の次女として生まれました。31(昭和6)年9月18日、小学校1年の時に柳条湖事件、いわゆる満州事変が起き、37(昭和12)年7月7日には(日中戦争の引き金となる)盧溝橋事件、その翌年に国家総動員法が制定され、本当の戦争へと入っていきました。
日赤の救護看護婦になったのは、貧しかったことと時局ですね。お金がなかったものですから、お嫁に行くときはたんすもいらないし、着物もいらないから、女学校に行きたいと父に条件を出し、聞き入れてもらいました。ところが、当時は英語は敵国語、外国の歴史はいらない、物理もいらない。女学校でやったことは植林や、食料増産のための大豆やばれいしょ作りでした。
もう少し学びたいと思ったのですが、家にはもうお金がありません。それで、お金がかからず、やりたい勉強がもっとできる、語学もできる、お国のためにもなると考えれば、日赤しかないと。それで試験を受けたのです。
小学校では、「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と教わりました。そういう時代に育ちました。軍国の乙女に育てられたんでしょうね。すべてを戦争にという時代でした。
日赤は、寮がただ、お小遣い5円をいただきました。白衣も貸してくれます。食事もただです。教育費もいりません。3年間勉強すれば看護婦の資格が取れます。でも、ドイツ語の勉強は私が入った年からなくなってしまいました。代わりにしたのは担架教練でした。
女学校を卒業して日赤長野の看護学校に入ったのは昭和16年、16歳のときです。通常は1クラス20人のところが倍の40人、石川県から委託を受けてさらに20人の総勢60人で勉強しました。その年の12月8日には、太平洋戦争が始まりました。
<応召そして満州へ>
日赤看護学校での教練〔肥後さん提供〕
3年間勉強するはずが、繰り上げで半年早く卒業して、田舎に帰って裁縫と家事の教師をしていました。
応召は昭和19(1944)年3月。召集状をもらい、日赤に行ったんです。長野駅を出発するときは、白いエプロンを掛けた愛国婦人会の人たち4、5人が白いユリの花を抱えてそっと送ってくれただけです。列車は駅を出るとすぐにブラインドが下ろされました。262班の満州への出発でした。
下関から船に乗り、釜山を経て奉天で乗り換え、着いたのは大連です。大連で思ったのは、「戦争(の暗い影)がない」ということでした。パンでも、ご飯でも、ジャムでも、食べられるだけ食べていいんです。街を歩いている人も自由な服。学生はセーラー服、お母さんはきれいな着物に帯を締めて。店には何でも売っています。シャツでも、着物でも、洋服でも、自由に買えるんです。衣料切符がいりません。日本では手ぬぐい1本買うにも切符でした。びっくりしましたね。
一方で、現地の人たちの生活はすごい。服を着てるか着てないか分からないような子供たち。部隊から宿舎に帰るとき、「看護婦さーん、お金ちょーだい」と日本語で言って、ついてくるんです。困った私たちが「兵隊さーん」と言うと、クモの子を散らすように逃げていきました。仕事のない中国人労働者が集まる場所では、毎朝1人か2人死んでいましたが、誰もお構いなしでした。
長野を離れて遠くに来たので寂しさは募ります。友達と2人でアカシアの花が咲く大連の埠頭(ふとう)に出て、精いっぱい「湖畔の宿」を歌うんです。涙を流しながら歌うと、今度は戦争の歌を元気よく歌って宿舎に帰りました。
病院には肋膜(ろくまく)の患者さんが大勢いました。熱湯を使った湿布をするんですが、朝1回、夕1回、綿の入った木綿を熱湯に入れて絞ります。患者さんは1人じゃないですから、手の皮が全部むけるんです。お薬はほとんどありませんでした。でも病院はのんびりしていました。
約2カ月後、6月ごろに転属命令が出るんです。万里の長城の山海関の近く、興城第一陸軍病院というところです。首山という大きな山がありました。そのふもと。満州一大きな病院です。
続きはこちらから 戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言 ・・・・・平和を愛する気持ちを永久に持ち続けたいと願って・・・・・
そして今回は、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され次々と戦地へ旅立っていきました。平和な今の時代には、想像することすらできない極限の状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介したいと思います。
戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言
<戦時の記憶を今>
多くの尊い命が奪われた先の大戦では、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ旅立っていった。女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成された。
その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアにまで及び、傷病将兵や一般人の救護に当たった。しかし、戦況の悪化とともに過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も長期に抑留されたりするなど、筆舌に尽くしがたい運命をたどった。
戦後70年近くなるこの時期に、日赤本社の協力を得て、元日赤従軍看護婦への長時間インタビューが実現した。自らの命も顧みず働いた戦時の記憶を今とどめなければ、語り継がれる機会が失われるとの思いに動かされた。
平和な今の時代には、想像することすらできない極限の状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介いたします。 聞き手:時事通信社解説委員 宮坂一平 公開日: 2013/08/13
<貧しさと時局>
日赤救護看護婦の制服姿の肥後さん〔肥後さん提供〕
■肥後喜久恵(ひご・きくえ)さん
私は1924(大正13)年、長野県の伊那谷の養蚕農家の次女として生まれました。31(昭和6)年9月18日、小学校1年の時に柳条湖事件、いわゆる満州事変が起き、37(昭和12)年7月7日には(日中戦争の引き金となる)盧溝橋事件、その翌年に国家総動員法が制定され、本当の戦争へと入っていきました。
日赤の救護看護婦になったのは、貧しかったことと時局ですね。お金がなかったものですから、お嫁に行くときはたんすもいらないし、着物もいらないから、女学校に行きたいと父に条件を出し、聞き入れてもらいました。ところが、当時は英語は敵国語、外国の歴史はいらない、物理もいらない。女学校でやったことは植林や、食料増産のための大豆やばれいしょ作りでした。
もう少し学びたいと思ったのですが、家にはもうお金がありません。それで、お金がかからず、やりたい勉強がもっとできる、語学もできる、お国のためにもなると考えれば、日赤しかないと。それで試験を受けたのです。
小学校では、「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と教わりました。そういう時代に育ちました。軍国の乙女に育てられたんでしょうね。すべてを戦争にという時代でした。
日赤は、寮がただ、お小遣い5円をいただきました。白衣も貸してくれます。食事もただです。教育費もいりません。3年間勉強すれば看護婦の資格が取れます。でも、ドイツ語の勉強は私が入った年からなくなってしまいました。代わりにしたのは担架教練でした。
女学校を卒業して日赤長野の看護学校に入ったのは昭和16年、16歳のときです。通常は1クラス20人のところが倍の40人、石川県から委託を受けてさらに20人の総勢60人で勉強しました。その年の12月8日には、太平洋戦争が始まりました。
<応召そして満州へ>
日赤看護学校での教練〔肥後さん提供〕
3年間勉強するはずが、繰り上げで半年早く卒業して、田舎に帰って裁縫と家事の教師をしていました。
応召は昭和19(1944)年3月。召集状をもらい、日赤に行ったんです。長野駅を出発するときは、白いエプロンを掛けた愛国婦人会の人たち4、5人が白いユリの花を抱えてそっと送ってくれただけです。列車は駅を出るとすぐにブラインドが下ろされました。262班の満州への出発でした。
下関から船に乗り、釜山を経て奉天で乗り換え、着いたのは大連です。大連で思ったのは、「戦争(の暗い影)がない」ということでした。パンでも、ご飯でも、ジャムでも、食べられるだけ食べていいんです。街を歩いている人も自由な服。学生はセーラー服、お母さんはきれいな着物に帯を締めて。店には何でも売っています。シャツでも、着物でも、洋服でも、自由に買えるんです。衣料切符がいりません。日本では手ぬぐい1本買うにも切符でした。びっくりしましたね。
一方で、現地の人たちの生活はすごい。服を着てるか着てないか分からないような子供たち。部隊から宿舎に帰るとき、「看護婦さーん、お金ちょーだい」と日本語で言って、ついてくるんです。困った私たちが「兵隊さーん」と言うと、クモの子を散らすように逃げていきました。仕事のない中国人労働者が集まる場所では、毎朝1人か2人死んでいましたが、誰もお構いなしでした。
長野を離れて遠くに来たので寂しさは募ります。友達と2人でアカシアの花が咲く大連の埠頭(ふとう)に出て、精いっぱい「湖畔の宿」を歌うんです。涙を流しながら歌うと、今度は戦争の歌を元気よく歌って宿舎に帰りました。
病院には肋膜(ろくまく)の患者さんが大勢いました。熱湯を使った湿布をするんですが、朝1回、夕1回、綿の入った木綿を熱湯に入れて絞ります。患者さんは1人じゃないですから、手の皮が全部むけるんです。お薬はほとんどありませんでした。でも病院はのんびりしていました。
約2カ月後、6月ごろに転属命令が出るんです。万里の長城の山海関の近く、興城第一陸軍病院というところです。首山という大きな山がありました。そのふもと。満州一大きな病院です。
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