令和2年2月15日(土)
お早うございます。
<2月15日今日は何の日>
1883年 - 渋沢栄一らが日本初の電力会社・東京電燈を設立。

東京電灯創業当時の発電所
1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が国から会社の設立許可を受ける。
富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められたものだった。
さて今日はこんな新聞記事を紹介いたします。

第二次世界大戦中、旧陸軍が世界最速の飛行機を目指し、岐阜県各務原市で極秘に開発していた研究機「研三(けんさん)」の映像フィルムが、国立科学博物館(東京)で見つかった。
当時の国産機では最速の時速六九九・九キロを計測した際の試験飛行の様子が記録されている。
岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博(そらはく))で八日、始まる企画展で初公開される。

研三(けんさん)は、東京帝国大学航空研究所(以下、航研)が基本設計し、川崎航空機が製造した日本陸軍の高速研究機。
試作番号はキ78。研究用の一号機「研三中間機」と、速度記録用の二号機を製作する予定だったが、一号機の開発中に太平洋戦争に突入し、戦局の悪化もあり二号機は製作されなかったので、通常「研三」と言えば一号機のことを指す。
1939年(昭和14年)秋、陸軍は将来の高速戦闘機開発の参考にするため、世界速度記録更新を目標とする速度記録機の研究を航研に依頼した。
しかし速度記録機の製作経験が無い日本で、最初からメッサーシュミットMe209が持つ世界速度記録755.138 km/hに挑むのは無理があった。
そこで航研は先ず最高速度700km/h程度の一号機を製作し、その開発及び実験データを基に速度記録用の二号機を製作することにした。
これを、長距離記録機「航研機」、高高度実験機「ロ式B型」に次ぐ航研三番目の研究機として「研三」と通称し、一号機はあくまで速度記録機への橋渡しということで「研三中間機」と呼ばれた。
1940年(昭和15年)1月、山本峰雄所員を設計主任とした研三委員会を組織し、一号機の基礎設計を開始した。
エンジンにはダイムラー・ベンツ DB 601を選定した。
実機製作は液冷エンジン機製作の経験が豊富で、同エンジンのライセンス生産も手掛ける川崎航空機が担当することになった。
1940年4月、航研の基礎設計を基に、川崎側の設計主務者井町勇技師らが製作準備を進め、1941年(昭和16年)3月から実機設計開始。
同年5月にモックアップが完成。翌1942年(昭和17年)8月に設計を終了、同年11月には試作機が完成する。
お早うございます。
<2月15日今日は何の日>
1883年 - 渋沢栄一らが日本初の電力会社・東京電燈を設立。

東京電灯創業当時の発電所
1883年(明治16年)2月15日、矢島作郎、藤岡市助、大倉喜八郎、原六郎、三野村利助、柏村信、蜂須賀茂韶など数名からなる発起人が国から会社の設立許可を受ける。
富国強兵に電力は今後欠かせないという判断の元、資本金20万円で前年に出した企業創立の請願書が認められたものだった。
さて今日はこんな新聞記事を紹介いたします。

第二次世界大戦中、旧陸軍が世界最速の飛行機を目指し、岐阜県各務原市で極秘に開発していた研究機「研三(けんさん)」の映像フィルムが、国立科学博物館(東京)で見つかった。
当時の国産機では最速の時速六九九・九キロを計測した際の試験飛行の様子が記録されている。
岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(空宙博(そらはく))で八日、始まる企画展で初公開される。

研三(けんさん)は、東京帝国大学航空研究所(以下、航研)が基本設計し、川崎航空機が製造した日本陸軍の高速研究機。
試作番号はキ78。研究用の一号機「研三中間機」と、速度記録用の二号機を製作する予定だったが、一号機の開発中に太平洋戦争に突入し、戦局の悪化もあり二号機は製作されなかったので、通常「研三」と言えば一号機のことを指す。
1939年(昭和14年)秋、陸軍は将来の高速戦闘機開発の参考にするため、世界速度記録更新を目標とする速度記録機の研究を航研に依頼した。
しかし速度記録機の製作経験が無い日本で、最初からメッサーシュミットMe209が持つ世界速度記録755.138 km/hに挑むのは無理があった。
そこで航研は先ず最高速度700km/h程度の一号機を製作し、その開発及び実験データを基に速度記録用の二号機を製作することにした。
これを、長距離記録機「航研機」、高高度実験機「ロ式B型」に次ぐ航研三番目の研究機として「研三」と通称し、一号機はあくまで速度記録機への橋渡しということで「研三中間機」と呼ばれた。
1940年(昭和15年)1月、山本峰雄所員を設計主任とした研三委員会を組織し、一号機の基礎設計を開始した。
エンジンにはダイムラー・ベンツ DB 601を選定した。
実機製作は液冷エンジン機製作の経験が豊富で、同エンジンのライセンス生産も手掛ける川崎航空機が担当することになった。
1940年4月、航研の基礎設計を基に、川崎側の設計主務者井町勇技師らが製作準備を進め、1941年(昭和16年)3月から実機設計開始。
同年5月にモックアップが完成。翌1942年(昭和17年)8月に設計を終了、同年11月には試作機が完成する。
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