竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

今昔の三谷 ”三谷の地名の由来”

2022年04月30日 | 一般
令和4年4月30日(土)
お早うございます。

さて今日は、今昔の三谷 ”三谷の地名の由来と字名の変遷”を取り上げたいと思います。
<今昔の三谷、過去の掲載>
・三谷町の賑わい ”六間道路”・・・・・2014年02月26日
・今昔の三谷 ”星越バイパス”・・・・・2015年12月11日
・今昔の三谷 ”蒲郡市の誕生”・・・・・2018年03月30日
・今昔の三谷 ”東前地区の埋立て”・・・2018年04月29日
・今昔の三谷 ”三河大島の島取り話”・・2021年05月03日
・今昔の三谷 ”三河大島監視26年”・・・2021年07月04日
・今昔の三谷 ”三谷東部土地区画整理事業”・・・2022年02月09日

 三谷の地名の由来についてはいろいろな説があるが、奈良時代の頃、現在の三谷や大塚、豊岡や平田辺りが「美養郷」と呼ばれていたことからだろう。
また、昭和63年に平城京跡の発掘調査中に大量の木簡が出土し、その中の一枚に「美養郷」と記された一枚があり、そのレプリカは、現在市の博物館に展示されている。

三谷の旧字名は下記の通りである。



 一舗から十舗は、明治時代の地租改正に伴い、新たに当時の市街地を割り振ったものであり、近世以来の「東新屋(ひがしあらや)・上げ(あげ)・松葉(まつば)・中浜(なかはま)・中屋敷(なかやしき)・西新屋(にしあらや)」六区画を十に分けてできたものである。
 これは、斬新な字名の変更であり、今でも残されている。
また、二舗周辺は現在の松区であり、かつては「松葉」と呼ばれており、祭主の家柄が「松場」に由来していて、元禄年間といわれる三谷祭発祥の地でもある。
 ただ、区画整理で消えてしまった字名も少なくない。
「天伯(てんぱく)」がよい例であるが、信号や公園などにその字名は残っている。
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