令和4年4月3日(日)
お早うございます。
今日は朝から生憎の雨降りとなりました。
桜が満開ですがこの雨で・・・・心配です。
今日は午前9時30分より晴れならば三谷町乃木山頂(雨なら八剱神社)にて、招魂祭が執り行われます。
三谷町296柱の英霊に心より哀悼の意を捧げます。
そして、午前11時、天白神社にて厄年会「天白六雄会」(昭和56年、57年生れ)の皆さんのご祈祷並びに、寄贈式典が執り行われます。
さて今日は、重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)を紹介いたします。
重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれています。
第2条:
二. 大臣の心得は、先づ諸有司(しよいうし)の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。
もし有司(ゆうし)の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。
有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。
又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。
功を以て過を補はしむる事可也。
又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。
人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。
自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。
平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。
此の工夫あるべし。
(解設)
この項は、重職心得箇条の中でも、最も重要な項の一つです。
重職の重要な役目に「決裁」があります。最近は企業の中でも権限の委譲が進んでいるようですので、重職が決裁しなければならない案件の範囲が絞られているものと思われますが、それでも、重要な案件は重職が決裁することになります。
つまり「決める」のです。
そのとき、賛成側、反対側双方の関係者の考えや意見を十分に、かつ公平に聞きだすことが必要になります。
特に重職がこの案件に関わっている場合、公平に決裁することが重要なことは言うまでもありません。もし、そこで最初から片方に肩入れする姿勢が見えれば、誰もものを言わなくなります。
もう一つのポイントは、有司の人の考えや案が完全なものでなくても、間違っていないと判断されれば、その人の案を採用するということです。
物足りなくても、度が過ぎたものでなければ、一旦それを採用し、不足は後で調整すればいいのです。方向さえ合っていれば、後で追加の対処はできるものです(正し、追加策では間に合わないこともありますが・・・)。大事なことは有司の人たちの「気乗り」です。
残念ながら、現実にはこのような場面で、“我が社には人がいない!”と、人材の不足を嘆く重職をしばしば見受けますが、むしろ、重職の姿勢そのものが「了簡」を出す空気を塞いでいることがあります。そのような組織では、まともな「了簡」でも、重職の考えを越えるものや、目を見張るものでなければコキ下ろされるのオチですから、最初から口を塞いでしまうのです。そしてそのうちに、彼らは本当に役に立たなくなってしまいます。
正しい判断や行動には「幅」があります。いつも95点以上でなければダメという訳ではありません。30点では前に進まないかも知れませんが、60点ぐらいでも、続けて手を打てば何とかなるものです。それを95点に達しないからといって、折角の「了簡」を切り捨てていては、結局何も進まないことになります。
ホームランばかり期待されては、そのうち誰もバッターボックスに立とうとしなくなります。
また、このような組織では、一度の失敗が尾を引いてしまうことも考えられます。
もちろん、失敗の仕方にも問題はありますが、取り組んだ方向が正しい方向であれば、次に成功する確率は確実に高くなります。
だからこそ「失敗は成功の母」というのです。逆に、最初から上手く事が運んだ場合、本当にそのような結果をもたらすべく「力」があったのかと言う問題が残ります。その場合、次に失敗する可能性が残されるのです。
むしろ、重職の役目は、その人が失敗するにしても、再挑戦の芽を摘まないためにも、深い傷を負わないように配慮してあげることです。
今日の我が国では、残念ながら「減点主義」が行き渡っています。何時からか分かりませんが、或る文献では昭和の30年代に、すでに職場に広まっていた状況が説明されています。
でも、一斎は、部下のちょっとした失敗は、次の成功で帳消しにすればいいと言っているのです。200年前に、一斎はまさに「敗者復活」を勧めているのです。
そうしなければ人材は居なくなると言っているのです。
「敗者復活」はアメリカの専売ではなかったのです。それは洋の東西に関係なく「道理」なのです。
さらに、この項で重要な点は、「嫌いな人を能く用いる」ということです。
言い換えれば「取り巻き」を厳しく糾弾しています。
組織の中での役割が重くなるほど、自分を持ち上げてくれる人を回りに置きたがります。
確かに役が重くなれば失敗に対する不安が多くなります。
しっかりした見識を持たなければ、この不安が「応援団」を回りに集めてしまうのです。
自分の中に「自分流儀の者」を求める気持ちがあるから、そのような人が回りに集まってしまうのであり、耳障りで不安を掻き立てる人を遠ざけてしまうのです。
「性に合わない」という言葉は、相手を説得する「力」を持たないことの証です。
だから自分流義の者を集めてしまう。
そうすれば了簡が食い違うこともないし、説得する必要もない。
全て、物ごとには2面、いや多面性を持っています。
ある立場からは正しいと思われることも、別の観点から見れば、必ずしも正しいとは言えないものです。
もちろん、事を進める場合は、どちらかの立場で進めるしかないのですが、その時、両面を正しく認識したうえで判断(=決裁)しなければなりません。
両面を認識したうえで判断する際に、その人の「見識」が問われるのです。そして、相手を説得し決定する際には「胆識」が問われるのです。
しかしながら、自分流義の者ばかり集めていては、「見識」も「胆識」も磨かれません。その必要がないからです。
嫌いな人、というのは、多くの場合、自分の考えの盲点を突いてくる人です。
全く違った考え方をしたり、自分と違う立場でものを考えるから、痛いところを突いてくるのです。
多くの場合、それもまた真実の一面を持っているものです。
このような人を説得できなければ、遠ざけるしかなくなります。
その結果、意見が異なるということが、すなわち追放と言う結果になるのです。
日本の政党や、企業の役員会などにその事例を探し出すのは容易なことです。
そのような組織は変化に弱いことは言うまでもありません。
嫌いな人を遠ざけようとするのは、その背後に、人を従わせようとする姿勢があるからです。
嫌いな人を従わせようとするから失敗する。
勿論、こちらが嫌えば、相手もこちらを嫌います。そのことは別としても、彼も仕事の目的は同じはずで、違うのはそこに至るプロセスであり、順序なのです。
ありがたいことに、彼はこちらの考えの欠点を鋭く突いてきます。
頼まなくてもやってくれます。
しかも厳しく。
取り巻きの連中には、そこまで期待できません。
いや、遠慮が入る以上、最初から期待できません。
人は過ちを犯すものであることを考えると、こちらの欠陥を突いてくれる人を遠ざければ、その分、失敗の確率が高くなるのです。
昔の優れた経営者は、傍にうるさく言う「諫臣」を置いたものです。
それは「一国、争臣なくんば危うし」ということを知っていたからです。
才能と人格は別のものです。
一般の事業において人格者ばかり集める必要はないし、またそれは叶わないことです。
人を使うのではなく、その人の能力を使うと心掛けて、嫌いな人との均衡点を見出すことです。
これからの時代は、いろんな人種の人たちが一緒になって仕事をする時代です。
彼らは仕事において共通点はあっても、そのほかの部分は全く違うこともありえます。
これらから重職は、人格と才能を見極め、少なくともその才能を活かすことができなければ勤まらないでしょう。
亡くなった作家の司馬遼太郎に言わせると、“人は40過ぎると、他人さまを平気で嫌いになってしまう”ものらしい。
だから注意しないと、不必要に嫌いな人を作ってしまいます。

在りし日の我家の愛犬「ハッピー」
お早うございます。
今日は朝から生憎の雨降りとなりました。
桜が満開ですがこの雨で・・・・心配です。
今日は午前9時30分より晴れならば三谷町乃木山頂(雨なら八剱神社)にて、招魂祭が執り行われます。
三谷町296柱の英霊に心より哀悼の意を捧げます。
そして、午前11時、天白神社にて厄年会「天白六雄会」(昭和56年、57年生れ)の皆さんのご祈祷並びに、寄贈式典が執り行われます。
さて今日は、重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)を紹介いたします。
重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれています。
第2条:
二. 大臣の心得は、先づ諸有司(しよいうし)の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。
もし有司(ゆうし)の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。
有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。
又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。
功を以て過を補はしむる事可也。
又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。
人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。
自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。
平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。
此の工夫あるべし。
(解設)
この項は、重職心得箇条の中でも、最も重要な項の一つです。
重職の重要な役目に「決裁」があります。最近は企業の中でも権限の委譲が進んでいるようですので、重職が決裁しなければならない案件の範囲が絞られているものと思われますが、それでも、重要な案件は重職が決裁することになります。
つまり「決める」のです。
そのとき、賛成側、反対側双方の関係者の考えや意見を十分に、かつ公平に聞きだすことが必要になります。
特に重職がこの案件に関わっている場合、公平に決裁することが重要なことは言うまでもありません。もし、そこで最初から片方に肩入れする姿勢が見えれば、誰もものを言わなくなります。
もう一つのポイントは、有司の人の考えや案が完全なものでなくても、間違っていないと判断されれば、その人の案を採用するということです。
物足りなくても、度が過ぎたものでなければ、一旦それを採用し、不足は後で調整すればいいのです。方向さえ合っていれば、後で追加の対処はできるものです(正し、追加策では間に合わないこともありますが・・・)。大事なことは有司の人たちの「気乗り」です。
残念ながら、現実にはこのような場面で、“我が社には人がいない!”と、人材の不足を嘆く重職をしばしば見受けますが、むしろ、重職の姿勢そのものが「了簡」を出す空気を塞いでいることがあります。そのような組織では、まともな「了簡」でも、重職の考えを越えるものや、目を見張るものでなければコキ下ろされるのオチですから、最初から口を塞いでしまうのです。そしてそのうちに、彼らは本当に役に立たなくなってしまいます。
正しい判断や行動には「幅」があります。いつも95点以上でなければダメという訳ではありません。30点では前に進まないかも知れませんが、60点ぐらいでも、続けて手を打てば何とかなるものです。それを95点に達しないからといって、折角の「了簡」を切り捨てていては、結局何も進まないことになります。
ホームランばかり期待されては、そのうち誰もバッターボックスに立とうとしなくなります。
また、このような組織では、一度の失敗が尾を引いてしまうことも考えられます。
もちろん、失敗の仕方にも問題はありますが、取り組んだ方向が正しい方向であれば、次に成功する確率は確実に高くなります。
だからこそ「失敗は成功の母」というのです。逆に、最初から上手く事が運んだ場合、本当にそのような結果をもたらすべく「力」があったのかと言う問題が残ります。その場合、次に失敗する可能性が残されるのです。
むしろ、重職の役目は、その人が失敗するにしても、再挑戦の芽を摘まないためにも、深い傷を負わないように配慮してあげることです。
今日の我が国では、残念ながら「減点主義」が行き渡っています。何時からか分かりませんが、或る文献では昭和の30年代に、すでに職場に広まっていた状況が説明されています。
でも、一斎は、部下のちょっとした失敗は、次の成功で帳消しにすればいいと言っているのです。200年前に、一斎はまさに「敗者復活」を勧めているのです。
そうしなければ人材は居なくなると言っているのです。
「敗者復活」はアメリカの専売ではなかったのです。それは洋の東西に関係なく「道理」なのです。
さらに、この項で重要な点は、「嫌いな人を能く用いる」ということです。
言い換えれば「取り巻き」を厳しく糾弾しています。
組織の中での役割が重くなるほど、自分を持ち上げてくれる人を回りに置きたがります。
確かに役が重くなれば失敗に対する不安が多くなります。
しっかりした見識を持たなければ、この不安が「応援団」を回りに集めてしまうのです。
自分の中に「自分流儀の者」を求める気持ちがあるから、そのような人が回りに集まってしまうのであり、耳障りで不安を掻き立てる人を遠ざけてしまうのです。
「性に合わない」という言葉は、相手を説得する「力」を持たないことの証です。
だから自分流義の者を集めてしまう。
そうすれば了簡が食い違うこともないし、説得する必要もない。
全て、物ごとには2面、いや多面性を持っています。
ある立場からは正しいと思われることも、別の観点から見れば、必ずしも正しいとは言えないものです。
もちろん、事を進める場合は、どちらかの立場で進めるしかないのですが、その時、両面を正しく認識したうえで判断(=決裁)しなければなりません。
両面を認識したうえで判断する際に、その人の「見識」が問われるのです。そして、相手を説得し決定する際には「胆識」が問われるのです。
しかしながら、自分流義の者ばかり集めていては、「見識」も「胆識」も磨かれません。その必要がないからです。
嫌いな人、というのは、多くの場合、自分の考えの盲点を突いてくる人です。
全く違った考え方をしたり、自分と違う立場でものを考えるから、痛いところを突いてくるのです。
多くの場合、それもまた真実の一面を持っているものです。
このような人を説得できなければ、遠ざけるしかなくなります。
その結果、意見が異なるということが、すなわち追放と言う結果になるのです。
日本の政党や、企業の役員会などにその事例を探し出すのは容易なことです。
そのような組織は変化に弱いことは言うまでもありません。
嫌いな人を遠ざけようとするのは、その背後に、人を従わせようとする姿勢があるからです。
嫌いな人を従わせようとするから失敗する。
勿論、こちらが嫌えば、相手もこちらを嫌います。そのことは別としても、彼も仕事の目的は同じはずで、違うのはそこに至るプロセスであり、順序なのです。
ありがたいことに、彼はこちらの考えの欠点を鋭く突いてきます。
頼まなくてもやってくれます。
しかも厳しく。
取り巻きの連中には、そこまで期待できません。
いや、遠慮が入る以上、最初から期待できません。
人は過ちを犯すものであることを考えると、こちらの欠陥を突いてくれる人を遠ざければ、その分、失敗の確率が高くなるのです。
昔の優れた経営者は、傍にうるさく言う「諫臣」を置いたものです。
それは「一国、争臣なくんば危うし」ということを知っていたからです。
才能と人格は別のものです。
一般の事業において人格者ばかり集める必要はないし、またそれは叶わないことです。
人を使うのではなく、その人の能力を使うと心掛けて、嫌いな人との均衡点を見出すことです。
これからの時代は、いろんな人種の人たちが一緒になって仕事をする時代です。
彼らは仕事において共通点はあっても、そのほかの部分は全く違うこともありえます。
これらから重職は、人格と才能を見極め、少なくともその才能を活かすことができなければ勤まらないでしょう。
亡くなった作家の司馬遼太郎に言わせると、“人は40過ぎると、他人さまを平気で嫌いになってしまう”ものらしい。
だから注意しないと、不必要に嫌いな人を作ってしまいます。

在りし日の我家の愛犬「ハッピー」