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竹内しげやす 市政チャレンジ日記

新米議員から四期目を向えて市政にチャレンジする奮戦記。
一歩一歩目標に向け前進する日々の行動を日記風に。

重職心得箇条 第2条

2022年04月03日 | 議員心得箇条
令和4年4月3日(日)
お早うございます。
今日は朝から生憎の雨降りとなりました。
桜が満開ですがこの雨で・・・・心配です。
今日は午前9時30分より晴れならば三谷町乃木山頂(雨なら八剱神社)にて、招魂祭が執り行われます。
三谷町296柱の英霊に心より哀悼の意を捧げます。
そして、午前11時、天白神社にて厄年会「天白六雄会」(昭和56年、57年生れ)の皆さんのご祈祷並びに、寄贈式典が執り行われます。


さて今日は、重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)を紹介いたします。
重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれています。


第2条:
二. 大臣の心得は、先づ諸有司(しよいうし)の了簡(りょうけん)を尽くさしめて、是れを公平に裁決する所其の職なるべし。
もし有司(ゆうし)の了簡より一層能(よ)き了簡有りとも、さして害なき事は、有司の議を用いるにしかず。
有司を引き立て、気乗り能(よ)き様に駆使する事、要務にて候。
又些少の過失に目つきて、人を容れ用いる事ならねば、取るべき人は一人も無き之れ様になるべし。
功を以て過を補はしむる事可也。
又堅才と云ふ程のものは無くても、其の藩だけの相応のものは有るべし。
人々に択(よ)り嫌いなく、愛憎の私心を去って用ゆべし。
自分流儀のものを取り計るは、水へ水をさす類にて、塩梅を調和するに非ず。
平生嫌ひな人を能(よ)く用いると云ふ事こそ手際なり。
此の工夫あるべし。

(解設)
この項は、重職心得箇条の中でも、最も重要な項の一つです。
 重職の重要な役目に「決裁」があります。最近は企業の中でも権限の委譲が進んでいるようですので、重職が決裁しなければならない案件の範囲が絞られているものと思われますが、それでも、重要な案件は重職が決裁することになります。
つまり「決める」のです。
 そのとき、賛成側、反対側双方の関係者の考えや意見を十分に、かつ公平に聞きだすことが必要になります。
特に重職がこの案件に関わっている場合、公平に決裁することが重要なことは言うまでもありません。もし、そこで最初から片方に肩入れする姿勢が見えれば、誰もものを言わなくなります。
 もう一つのポイントは、有司の人の考えや案が完全なものでなくても、間違っていないと判断されれば、その人の案を採用するということです。
物足りなくても、度が過ぎたものでなければ、一旦それを採用し、不足は後で調整すればいいのです。方向さえ合っていれば、後で追加の対処はできるものです(正し、追加策では間に合わないこともありますが・・・)。大事なことは有司の人たちの「気乗り」です。
 残念ながら、現実にはこのような場面で、“我が社には人がいない!”と、人材の不足を嘆く重職をしばしば見受けますが、むしろ、重職の姿勢そのものが「了簡」を出す空気を塞いでいることがあります。そのような組織では、まともな「了簡」でも、重職の考えを越えるものや、目を見張るものでなければコキ下ろされるのオチですから、最初から口を塞いでしまうのです。そしてそのうちに、彼らは本当に役に立たなくなってしまいます。
 正しい判断や行動には「幅」があります。いつも95点以上でなければダメという訳ではありません。30点では前に進まないかも知れませんが、60点ぐらいでも、続けて手を打てば何とかなるものです。それを95点に達しないからといって、折角の「了簡」を切り捨てていては、結局何も進まないことになります。
ホームランばかり期待されては、そのうち誰もバッターボックスに立とうとしなくなります。
 また、このような組織では、一度の失敗が尾を引いてしまうことも考えられます。
もちろん、失敗の仕方にも問題はありますが、取り組んだ方向が正しい方向であれば、次に成功する確率は確実に高くなります。
だからこそ「失敗は成功の母」というのです。逆に、最初から上手く事が運んだ場合、本当にそのような結果をもたらすべく「力」があったのかと言う問題が残ります。その場合、次に失敗する可能性が残されるのです。
 むしろ、重職の役目は、その人が失敗するにしても、再挑戦の芽を摘まないためにも、深い傷を負わないように配慮してあげることです。
 今日の我が国では、残念ながら「減点主義」が行き渡っています。何時からか分かりませんが、或る文献では昭和の30年代に、すでに職場に広まっていた状況が説明されています。
 でも、一斎は、部下のちょっとした失敗は、次の成功で帳消しにすればいいと言っているのです。200年前に、一斎はまさに「敗者復活」を勧めているのです。
そうしなければ人材は居なくなると言っているのです。
「敗者復活」はアメリカの専売ではなかったのです。それは洋の東西に関係なく「道理」なのです。
 さらに、この項で重要な点は、「嫌いな人を能く用いる」ということです。
言い換えれば「取り巻き」を厳しく糾弾しています。
組織の中での役割が重くなるほど、自分を持ち上げてくれる人を回りに置きたがります。
確かに役が重くなれば失敗に対する不安が多くなります。
しっかりした見識を持たなければ、この不安が「応援団」を回りに集めてしまうのです。
自分の中に「自分流儀の者」を求める気持ちがあるから、そのような人が回りに集まってしまうのであり、耳障りで不安を掻き立てる人を遠ざけてしまうのです。
 「性に合わない」という言葉は、相手を説得する「力」を持たないことの証です。
だから自分流義の者を集めてしまう。
そうすれば了簡が食い違うこともないし、説得する必要もない。
 全て、物ごとには2面、いや多面性を持っています。
ある立場からは正しいと思われることも、別の観点から見れば、必ずしも正しいとは言えないものです。
もちろん、事を進める場合は、どちらかの立場で進めるしかないのですが、その時、両面を正しく認識したうえで判断(=決裁)しなければなりません。
両面を認識したうえで判断する際に、その人の「見識」が問われるのです。そして、相手を説得し決定する際には「胆識」が問われるのです。
しかしながら、自分流義の者ばかり集めていては、「見識」も「胆識」も磨かれません。その必要がないからです。
 嫌いな人、というのは、多くの場合、自分の考えの盲点を突いてくる人です。
全く違った考え方をしたり、自分と違う立場でものを考えるから、痛いところを突いてくるのです。
多くの場合、それもまた真実の一面を持っているものです。
このような人を説得できなければ、遠ざけるしかなくなります。
 その結果、意見が異なるということが、すなわち追放と言う結果になるのです。
日本の政党や、企業の役員会などにその事例を探し出すのは容易なことです。
そのような組織は変化に弱いことは言うまでもありません。
 嫌いな人を遠ざけようとするのは、その背後に、人を従わせようとする姿勢があるからです。
嫌いな人を従わせようとするから失敗する。
勿論、こちらが嫌えば、相手もこちらを嫌います。そのことは別としても、彼も仕事の目的は同じはずで、違うのはそこに至るプロセスであり、順序なのです。
 ありがたいことに、彼はこちらの考えの欠点を鋭く突いてきます。
頼まなくてもやってくれます。
しかも厳しく。
取り巻きの連中には、そこまで期待できません。
いや、遠慮が入る以上、最初から期待できません。
人は過ちを犯すものであることを考えると、こちらの欠陥を突いてくれる人を遠ざければ、その分、失敗の確率が高くなるのです。
 昔の優れた経営者は、傍にうるさく言う「諫臣」を置いたものです。
それは「一国、争臣なくんば危うし」ということを知っていたからです。
 才能と人格は別のものです。
一般の事業において人格者ばかり集める必要はないし、またそれは叶わないことです。
人を使うのではなく、その人の能力を使うと心掛けて、嫌いな人との均衡点を見出すことです。
これからの時代は、いろんな人種の人たちが一緒になって仕事をする時代です。
彼らは仕事において共通点はあっても、そのほかの部分は全く違うこともありえます。
これらから重職は、人格と才能を見極め、少なくともその才能を活かすことができなければ勤まらないでしょう。
 亡くなった作家の司馬遼太郎に言わせると、“人は40過ぎると、他人さまを平気で嫌いになってしまう”ものらしい。
だから注意しないと、不必要に嫌いな人を作ってしまいます。

在りし日の我家の愛犬「ハッピー」
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重職心得箇条 第1条

2022年02月11日 | 議員心得箇条
令和4年2月11日(金)
お早うございます。

<2月11日今日は建国記念日>
 建国記念日(けんこくきねんび)とは、文字通り「建国を記念する日(祝日)」である。何をもって建国の日付とするかは、国家により異なる。独立記念日(どくりつきねんび)とも。
日本では実際の建国日が明確でないため、建国神話をもとに建国を祝う日を定めている。すなわち、日本神話の登場人物で古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日(紀元前660年1月1日 (旧暦))より、その即位月日を明治期に新暦で推定した2月11日を「建国記念の日」とした。

『神武天皇御尊像』 1940年(昭和15年)北蓮蔵画

 さて今日は、重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)を紹介いたします。
重職心得箇条(じゅうしょくこころえかじょう)とは、幕末の天保・弘化の頃、幕府教学の大宗であった佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれています。

第1条
一. 重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、此の重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。
大事に油断ありては、其の職を得ずと申すべく候。
先づ挙動言語より厚重にいたし、威厳を養ふべし。
重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙がるべく、物を鎮定する所ありて、人心をしづむべし、斯くの如くにして重職の名に叶ふべし。
又小事に区々たれば、大事に手抜きあるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜け目あるべからず。
斯くの如くして大臣の名に叶ふべし。
凡そ政事は名を正すより始まる。今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ。

(解説)
 重職(重役)というのは、国でも企業でも、大事を取り扱うことが仕事です。
そうでなければ「重」という字を冠に載せる必要はありません。
だから軽々に行動されては宜しくないのは言うまでもありません。
親しみを持っての行動と、軽々な行動とは自ずと違うのものです。
社員に親しみを感じるのはいいとしても、重職の一つの決定の誤りが、社員全員を路頭に迷わせ、株主や取引先に迷惑をかけるとなると、その言動は自ずと重厚でなければならないし、威厳を伴っていなければなりません。
威厳は威張る為に必要なわけでは有りません。
重大な決定をするために必要なのです。
これが備わっていなければ、決定の重大さに押しつぶされてしまうからです。
威厳は普段、何を考えているかによっても身に付いてきます。
それは“立っている処”の差でもあります。
重職としての己の役割をわきまえ、日々それに相応しいことを考え行動していれば、威厳は身に付いてくるはずです。
こうした備えがなければ、自らの責任で重大な決定はできないでしょうから、どうしても、“会議”で決めたがるはずです。
  深沈厚重(しんちんじゅうこう)ナルハ是レ第一等ノ資質
  磊落豪雄(らいらくごうゆう)ナルハ是レ第二等ノ資質
  聡明才弁(そうめいさいべん)ナルハ是レ第三等ノ資質
 これは『呻吟語』(呂新吾)の中に出てくる人間の魅力の段階です。
注意して欲しいのは、呂新吾に言わせれば、頭の切れるのは第三等だと言うことです。
 ところで「名を正す」とは、その役に相応しい振舞いを明らかにすることです。
重職とは何を為すべき役回りなのかを明確にすることです。
当然、瑣末(さまつ)な仕事をすることが役目ではありません。
 重職が小事にかかわり、瑣末を省けない理由の一つは、「名を正す」ことを怠っていることもその一因です。そのような組織では、「重職」に限らず、マネージャー職全般に「名」が正されていません。そのため、名刺の上にこそ「マネージャー」とか、それなりの役職名が被せられていても、その振舞いは以前の役目と何ら変わらないということになるのです。その結果、役職が変わる(上がる)ことが、単に給料の増加に繋がる条件に過ぎなくなってしまうのです。
 大事を見通し、人心をつかみ、物事を鎮定するという本来の役目は何処かへ追いやられ、馴れ親しんだ今までの仕事を持ち込み、瑣末なことに首を突っ込んでしまうのです。これでは「重職」は勤まらないのは言うまでもありません。
 威厳を養うと言っても、人間であることを放棄することを求めるものではありません。
人間であることの証は、突き詰めれば、喜怒哀楽に尽きます。
喜ぶときはみんなと一緒に喜べばいい。
怒るときは壁も破れんばかりに怒ればいい。
部下の哀しみに一緒に哀しみ、部下の楽しみを一緒に楽しめばいい。
これを失っては正しい意味での威厳は成立しません。
ただ、違うことは、そのうえに「重職」の役目があるということです。
その認識さえあれば、部下より先に楽しむようなことはしないでしょう。

在りし日の我家の愛犬「ハッピー」
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議員心得箇条 条文案十七 【議論を尽くす】 議員は議論を尽くせ。

2020年07月13日 | 議員心得箇条
令和2年7月13日(月)
お早うございます。

例年でいきますと、昨日(7/12)は、東区 田尻神社の例大祭が行われる日ですが、
新型コロナウイルス感染症拡大防止の為、神事以外、全ての行事を中止いたしました。
今年の夏は静かな夏となりそうです。

さて今日は、議員心得箇条 条文案十七 【議論を尽くす】 議員は議論を尽くせ。
を紹介いたします。
<過去の掲載>
条文一【市民の代表】議員は市民の代表たれ。 2016年03月25日
条文二【決まりを守る】議員は決まりを守れ。 2016年04月03日
条文三【リーダーシップ】議員はリーダーシップを発揮せよ。2017年01月05日
条文四【無知の知】 議員は常に謙虚であれ。 2017年04月09日
条文五【公平であること】議員は常に公平であれ。 2017年06月09日
条文六【徳を持つ】議員は市民の範となれ。  2017年8月31日
条文七【専門性】議員は一芸に秀でよ。    2017年12月04日
条文八【勉強】 議員は誰よりも勉強せよ。  2018年2月14日
条文九【真心】議員は心のきれいな人であれ。 2018年4月21日
条文十【言葉】 議員は言葉を大切にせよ。  2018年10月4日
条文十一【信念】 議員は信念を貫け。 2019年02月15日
条文十二【選挙活動】 議員は選挙活動をするな。 2019年05月5日
条文十三【節制】 議員は自己管理を怠るな。 2019年08月12日
条文十四【現場主義】 議員は現場を見よ。 2019年12月19日
条文十五【私利私欲を捨てる】 議員は私利私欲を捨てよ。2020年01月30日
条文十六 【説明責任】  議員は説明と情報提供に努めよ。2020年4月17日

条文案 十七
【議論を尽くす】
 議員は議論を尽くせ

 議員の本分は議論にある。
議論を尽くすことで、行政や施策が良いものとなり、まちが良くなる。
議論は可能な範囲の中で、徹底的に行われるべきである。
事前に十分な調査を行い、人の意見を聞き、存分に主張することは、議員の使命とも言える。
どのような場合でも、決められた範囲内での議論の機会が奪われるようなことがあってはならない。
議論においては広く市民を巻き込み、公の場で行われるべきである。
中味の分からない根回しや、議論の内容と関係のない議員間での貸し借りで物事が決まるようなことがあっては決してならない。
議論においては誰もが納得する全会一致が望ましく、目指すべきものではある。
しかし、実際には最後まで合意が得られない場合も多い。
そうした場合、結論を出すためにルールに則って採決を行うことも大切なことである。
どのような議論を交わしたとしても、正当な手続きの後に出た結論である以上、全員でその結論には従わなければならない。
また、結論に至った議論の内容を分かりやすく伝えることも議員の務めである。
たとえ多数決で結論は出たとしても、多様な意見があったなら、その事実を忘れてはならない。
そうした少数派の意見にも配慮しつつ、決定に従うことが民主主義である。
執行機関である首長はたった一人しかいない。
しかし、議会はその構成メンバーの数だけ議員がいる。
市民の数だけ存在する多様性を担保しつつ、少数者や声の弱い者への配慮を行うことが、議会及び議員が担っている役割でもある。

" 完 "

我家の花壇


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議員心得箇条 条文案十六 【説明責任】 議員は説明と情報提供に努めよ。

2020年04月17日 | 議員心得箇条
令和2年4月17日(金)
お早うございます。

今日は、議員心得箇条の 条文案十六【私利私欲を捨てる】 議員は私利私欲を捨てよ。
<過去の掲載>
条文一【市民の代表】議員は市民の代表たれ。 2016年03月25日
条文二【決まりを守る】議員は決まりを守れ。 2016年04月03日
条文三【リーダーシップ】議員はリーダーシップを発揮せよ。2017年01月05日
条文四【無知の知】 議員は常に謙虚であれ。 2017年04月09日
条文五【公平であること】議員は常に公平であれ。 2017年06月09日
条文六【徳を持つ】議員は市民の範となれ。  2017年8月31日
条文七【専門性】議員は一芸に秀でよ。    2017年12月04日
条文八【勉強】 議員は誰よりも勉強せよ。  2018年2月14日
条文九【真心】議員は心のきれいな人であれ。 2018年4月21日
条文十【言葉】 議員は言葉を大切にせよ。  2018年10月4日
条文十一【信念】 議員は信念を貫け。 2019年02月15日
条文十二【選挙活動】 議員は選挙活動をするな。 2019年05月5日
条文十三【節制】 議員は自己管理を怠るな。 2019年08月12日
条文十四【現場主義】 議員は現場を見よ。 2019年12月19日
条文十五【私利私欲を捨てる】 議員は私利私欲を捨てよ。2020年01月30日

条文案 十六
【説明責任】
 議員は説明と情報提供に努めよ。

 議員は選挙の後、その活動が人びとには伝わりにくく、「何をしているのか分からない」との批判の声がある。
議会活動に取られる時間と労力は大きいものであるが、人びとの期待を受けて当選を果たした以上、どのような形でその期待に応えているのか、議員はその様子を説明する義務がある。
多くの人びとを巻き込むためには、これには議会や個々の議員が行う報告会のように直接人びととやり取りできる場を設けることも大切であり、また議会そのものを傍聴してもらうことも必要である。
議会・議員が人びとの中に出て行き、人びとにも議会に来てもらう。
足を運んでもらう以上(たとえ運んでもらわないにしても)、議会が分かりやすく活発な議論が行われていることは当たり前のことである。
傍聴・参加を呼び掛ける活動と、議会の活性化は不断の取り組みである。
 行政の状況や様々な課題について分かりやすく伝えられる議員からの情報はありがたいものである。市や議会の広報紙やホームページ等もあり、公の情報提供のあり方についてはまた議論が必要であるが、人びとの立場に立ち、必要な情報を必要な時に正確に提供することは議員の務めである。
議員は人びとの状況をよく把握し、自らの判断できめ細かい対応ができるからである。
多くの人びとを巻き込むために、その前提となる情報提供は欠かせない。
 議員からの情報提供が、中味のない単なる自身の宣伝になってしまってはならない。
これは議会と議員の存在意義を貶めるものである。
また、報告会、活動レポート、街頭活動報告等においても、定期的な開催や発行のみが自己目的化してしまい、形骸化することがないよう注意しなければならない。
情報提供のあり方一つにも、その取り組み姿勢や気持が伝わるものである。
より迅速で正確にかつ相手の立場に立った内容を分かりやすく等、考えるべきことは沢山ある。
 また、開かれた行政、開かれた議会のために、報道の持つ影響力は大きい。
情報提供のあり方と、適切な信頼関係の構築に努めるべきである。

<弘前城>

弘前城天守


未申櫓


追手門(おおてもん)

 津軽地方を平定した初代藩主津軽為信の志を継いだ二代藩主信枚が慶長16年(1611年)に築城したのが始まり。
本丸南西隅に五重六階と推定される天守をはじめ8基の櫓と数多くの櫓門が築かれたが、天守は寛永4年(1627年)の落雷で焼失。
以降、津軽氏の居城として廃藩に至るまでの260年間、津軽藩政の中心地となった。

城郭構造は梯郭式平山城。城跡は国の史跡に指定されている。

現在の天守は文化7年(1810年)、隅櫓改築を理由に再建されたもので、独立式層塔型三層三階。
江戸時代以前に築かれた天守が残る現存12天守の一つ。
現存する建造物は天守、櫓3棟(辰巳櫓、丑寅櫓、未申櫓)、城門5棟(追手門、東門、東内門、南内門、亀甲門)で、それぞれ国の重要文化財に指定されている。

別名は、築城した場所が鷹岡という地名だったことから、高岡城、鷹岡城(たかおかじょう)。

明治6年(1873年)の廃城令で大蔵省が処分する廃城処分となり、本丸御殿や武芸所などが取り壊された。
その後、旧藩主津軽氏が城跡を市民公園として一般開放するため、城地の貸与を願い出て許可された。
平成18年(2006年)には日本100名城に選定された。

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議員心得箇条 条文案十五【私利私欲を捨てる】 議員は私利私欲を捨てよ。

2020年01月30日 | 議員心得箇条
令和2年1月30日(木)
お早うございます。

今日は、議員心得箇条の 条文案十五【私利私欲を捨てる】 議員は私利私欲を捨てよ。
<過去の掲載>
条文一【市民の代表】議員は市民の代表たれ。 2016年03月25日
条文二【決まりを守る】議員は決まりを守れ。 2016年04月03日
条文三【リーダーシップ】議員はリーダーシップを発揮せよ。2017年01月05日
条文四【無知の知】 議員は常に謙虚であれ。 2017年04月09日
条文五【公平であること】議員は常に公平であれ。 2017年06月09日
条文六【徳を持つ】議員は市民の範となれ。  2017年8月31日
条文七【専門性】議員は一芸に秀でよ。    2017年12月04日
条文八【勉強】 議員は誰よりも勉強せよ。  2018年2月14日
条文九【真心】議員は心のきれいな人であれ。 2018年4月21日
条文十【言葉】 議員は言葉を大切にせよ。  2018年10月4日
条文十一【信念】 議員は信念を貫け。 2019年02月15日
条文十二【選挙活動】 議員は選挙活動をするな。 2019年05月5日
条文十三【節制】 議員は自己管理を怠るな。 2019年08月12日
条文十四【現場主義】 議員は現場を見よ。 2019年12月19日

条文案 十五

【私利私欲を捨てる】
 議員は私利私欲を捨てよ。
議員は自分(及び選出母体となる組織)の利益だけを考えて行動したり発言したりするべきではない。
もしもそのようなことがあるとすれば、議員は誰か近いものの口利きや行政への見えない圧力としての存在としてしか認識されず、きちんとした議論による決定や、人びとの代表としての心からの信頼を得ることはできないからである。
議員は常に全体の状況を良く考えて議論し、将来を見据えて自らの責任で判断しなければならない。
また、自らの生活の中からの気付きや市民の声等により発見した取り組むべき課題に対しては、全力をあげて取り組まなければならない。これは誰かの損得と言う話ではなく、議員として人として当然解決しなければならない問題に直面したのであるから、むしろそれを放置することこそできないはずである。
議員は一人ひとりを大切にしつつ、大所高所からの判断を行うべきであって、誰か特定の者の利益や自らの損得から判断してはならないことはもちろん、日頃からそうした姿勢を人びとに示して行くことも大切である。

白石城(宮城県)三階櫓



整備された本丸跡

慶長7年(1602年)に仙台城の支城として片倉小十郎景綱が入城してから11代260年余にわたり片倉氏が居城。
元和元年(1615年)の一国一城令の例外的な扱いで明治維新まで存続した。
天守の代用となっていた三階櫓は、支城という格と幕府への配慮から天守の名をはばかり大櫓(おおやぐら)とも呼ばれていた。
城郭構造は梯郭式平山城。城跡は白石市の史跡に指定されている。
天守(三階櫓)は複合式層塔型三重三階。
三階には高欄をめぐらし火灯窓を付けるなど 古い形式も採り入れていた。
文政2年(1819年)に焼失、文政6年(1823年)に再建されたものの幕末の廃城令で破却された。
現在の天守(三重櫓)は平成7年(1995年)に当時の史料に基づき木造復元された。
市内の延命寺に移築された厩口門(うまやぐちもん)、当信寺に移築された東口門は現存し、それぞれ国の重要文化財に指定されている。
平成7年(1995年)に三階櫓とともに大手一ノ門、大手二ノ門が史実に忠実に木造で復元された。
別名は益岡城、枡岡城。

幕末の戊辰戦争では新政府軍に占領され、盛岡藩の管理下に置かれた。
明治6年(1873年)の廃城令で廃城処分となり、ほとんどの建物は破却された。
本丸は天守台の石垣なども撤去され更地になった。
城跡は明治33年(1900年)に益岡公園として整備され、平成19年(2007年)には日本歴史公園100選に選定された。
平成29年(2017年)には続日本100名城に選定された。

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