しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

関東大震災の教訓は活かされているのか。火災旋風と津波被害など~~その1

2011年04月21日 | 自然災害

大正12年(1923)9月1日の午前11時58分ごろ、相模湾の北部を震源地とするマグニチュード7.9の地震は「関東大震災」と命名され、東京、神奈川を中心に約10万5千人の死亡・行方不明者が出た大災害であった。



多くの犠牲者が出たが、火災による死者が最も多く9万1千人を数え、東京本所被服廠跡では4万4千人が無残の焼死を遂げたそうだ。次のURLには、東京本所被服廠跡の写真が掲載されているが、大空襲でもあったかのような悲惨さで、とても正視できるものではない。
http://ktoh-n.blog.so-net.ne.jp/2007-08-16-1 

なぜそんなに火災による死者が多かったのかというと、お昼頃であったために多くの家庭で主婦が炊事のために竈(かまど)で火を使っているところに多くの木造家屋が倒壊したこと。さらに具合が悪いことに、この日は能登半島近くの台風の影響もあり、関東地方の風がかなり強かったという。

多くの焼死者が出た東京本所被服廠跡とは今の横網町公園のことだが、地震のあった前年に被服廠は赤羽に移転し、跡地を東京市が買い取って公園として整備したそうだ。

近くの人々がこの場所を絶好の避難場と考えて家財道具を背負って集まってきたのだが、午後4時ごろにこの公園に地震の火災が「火災旋風」となってこの公園を襲い、人々が持ちこんだ家財道具にも飛び火して、人々は逃げ場を失って焼死してしまった。

火災旋風」とは、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで局地的に生じる上昇気流のことで、Wikipediaによると、

「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻である。」とある。

また「個々に発生した火災が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない周囲から空気を取り込むことで、局地的な上昇気流が生じる。これによって、燃焼している中心部分から熱された空気が上層へ吐き出され、それが炎をともなった旋風になる。さらに、これが空気のあるほうへ動いていき、 被害が拡大していく。火災旋風の内部は秒速百メートル以上に達する炎の旋風であり、高温のガスや炎を吸い込み呼吸器を損傷したことによる窒息死が多く見られる。 火災旋風は、都市中心部では、ビル風によって発生する可能性が指摘されている。」のだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%AB%E7%81%BD%E6%97%8B%E9%A2%A8



上の画像はネットで見つけたイギリスの火災旋風の画像だが、関東大震災の時の火災旋風の大きさは100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後と推測されている。またこの風により、何百人もの人々が空中に巻き上げられ、石垣に顔と歯が叩きつけられたりしていたという証言もがあるようで、この現象は想像を絶するエネルギーを伴うものであり、「旋風」というよりも「竜巻」と表現した方が適切のような気がする。
http://www.fdma.go.jp/ugoki/h2108/2108_24.pdf 



上の図は関東大震災の翌日の午前九時の段階で焼失した場所を赤く塗りつぶしたものである。焼失地域はこの日のうちに更に拡大したのだが、黒い○で囲った場所は焼けなかった。 この場所は神田和泉町と佐久町なのだが、この町内の人々は避難することよりも共同で消火活動に当たることで、町を火炎から守ったのだ。

『被害の激しかった下町地区の中で、ぽっかりと島のように白く浮かび上がる地域がある。一日午後四時ごろ、南風に煽られて神田方面から燃えてきた火は神田川南岸に及び、佐久間町一帯にも盛んに火の粉を振りまいた。この時町内の人々は結束して、避難よりも延焼を防ぐ努力を優先した。続いて夜八時ごろ、秋葉 原駅方面から襲ってくる火に対してもひるむことなく消火活動を続け、二日午前一時ごろには火をくい止めた。更に二日午前朝八時には蔵前方面から猛火で延焼 の恐れが出てきたが、長時間にわたる必死の消火活動の末、午後六時ごろまでに完全に消し止めた。実に丸一日以上に及ぶ町内の人々の努力が実り、この町を火災から守ったのであった。』(「新編 千代田区史」) 

この防火活動の感動的な物語が、「関東大震災のちょっといい話」というサイトに詳しく出ている。
http://www.bo-sai.co.jp/kantodaisinsaikiseki2.html

町の大人たちが頭から水を浴び、ガソリンポンプ車を使って徹夜で火を食い止めた物語は多くの人に読んで欲しいと思う。こんな大規模な火事になれば電気はもちろんのこと、水道も断水して使えない。消防車も使えなくなる条件下で、住民がこのように団結して火と格闘して町を守ったことは、教科書に載せるなどして後世に伝えられるべきではないかと思う。



神田和泉町にある和泉小学校の脇には、この時の町の人々の消火活動を讃えた「防火守護地」と書いた石碑が建てられているそうだ。

関東大震災時に「火災旋風」により東京だけでなく横浜でも同様に多くの焼死者が出たのだが、詳しい事は良くわからなかった。



この時の横浜の火災区域の地図が見つかったが、横浜の市街地の大半が焼けていることがわかる。
次のURLでは東京と横浜の火災旋風の発生起点とその移動を示した図面が紹介されているが、「発表禁止」という赤い文字が横浜の図面にあるそうだ。おそらく長い間公表されてこなかったのではないだろうか。真実を一般に公表しないのは、昔も今も良く似ている。
http://www.ailab7.com/senpuu.html 

以上かけ足で関東大震災における火災を振り返ってみたが、今のわが国の都心部でこの大震災の教訓がどれほど活かされているかと考えると不安な気持ちになってしまう。
日本人の悪い癖で、嫌な思い出はなるべく早く忘れてしまおうとして、大きな被害が出た原因が充分に追及されないまま何世代かが入れ替わってしまって、今では、ほとんどの人は普段から何の準備も対策もしていないのが現実ではないか。

大正期よりかは家屋が燃えにくくなっているという人もいるかもしれないが、阪神大震災の時にも神戸市長田区で小規模ながら火災旋風が見られたらしい。
もし関東大震災のような地震が風の強い日に発生し、古くて木造の家屋が密集している地域の家屋を多数倒壊させたとしたら非常に怖い事が起こる。消防車は全国平均で人口10万人当たりに4.7台、東京では2.5台なのだそうだが、この台数では大規模火災の鎮火は難しいのではないか。

昔はいざという時に使える貯水池や貯水槽などがあったし、井戸のある家も少なくなかった。地域の消火用具も持っていたし、なによりも地域共同体が健全に機能して住民の団結があり、地域での防火訓練も実施されていた。それらがいざという時には、火災の延焼を食い止めるために機能することが期待できたが、それらのほとんどを喪失してしまった今は、住んでいる街をどうやって火災から守ることができようか。

大火災が発生すれば停電や断水が起こる可能性が高いし、消防署は一部を消火する能力しかない。水道が使えたとしても、あちこちで火災が起これば大量の水が消火のために必要となり、水量不足となって蛇口からちょろちょろと出るだけでは使いものにならないだろう。
そのような悪条件下でも、住民が団結して、自主的に消火活動ができる地域が都心部にどれだけ存在するのだろうか。

先程のWikipediaには、最後に非常にいやなことを指摘している。

「東京湾を震源とする南関東直下地震が、 夕方6時ごろに発生した場合、都内数千箇所で火災が起こると試算されている。風速15mの風が吹いていた場合、東京の住宅街・オフィスビル周辺などに巨大な火災旋風が発生するおそれがある。ただし、1923年の関東大震災は、夏場の昼に地震が起き、火災旋風も発生している。火災が密集すれば季節に関係なく 発生する可能性がある。」

今回の東日本大震災で東北地方の人々は何度も津波を経験し、同じ過ちを繰り返してきていると思った人がいたとしても、それは東京も横浜も同じなのである。また、関東大震災の被災経験から学ぼうとしない他の大都市も同じである。

東日本大震災を機に、都市の防災対策はどうあるべきか、あまりにもわが国の重要機能が集中している首都圏の脆弱さをどう改善させていくか、首都圏の機能分散化も含めて考えるべきだと思う。

次回は、関東大震災と津波などについて書いてみたい。

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コメント
 東京下町の町内会は凄いですね。自力で町内への類焼を食い止めましたから。「町民力」「市民力」と言うのでしょう。

 それをひるがえって今の自宅のある二葉町で考えてみても実に難しい。うちには91歳と85歳の両親がいるし、そちらのケアで手一杯です。息子の自宅は隣町ですので。

 「防災マップ」で消火栓の位置を表示しましたが、地盤沈下で水没すれば、無意味なこと。当時より耐火建築仕様になってはいますが、古い木造家屋も多いのは事実です。

 とても難しい。防災世帯調査をしましても、非協力的な世帯は町内会へも入会していないし、無関心。そういうひとたちまでどうこうという余裕は今の私にはありませんね。

「おせっかい」な下町の人情は、いざというときに役にタッ店エスね。うらやましい限りです。
 
 
大正期ならどこにも「地域共同体」と呼ぶべきものが存在していましたが、今はどの程度機能しているのでしょうか。東京の下町も昔のようにはいかないのではないような気がします。

自宅のすぐ近くで働ける場所が激減し、ほとんどが電車に乗って遠くにある企業に通勤し、またマンションなどが建って外からいろんな人が住みだして、今は都市部では「地域共同体」はほとんど消滅してしまったのではないでしょうか。

地方ではまだ商店街や地元の企業が共同体を支えているところがありますが、都市部において「地域共同体」が残っているのは岸和田だんじりや祇園祭など有名なお祭りを伝承しているような地域や、地場産業が強いような地域などに限られているような気がしますが、昔程の結束力があるでしょうか。

住んでいる地域に大きな火災が発生しても、人々が地元を愛しかつ結束力がないと、共同して火を消すこともできず、被災しても小さな利害対立が全面にでてきて、なかなか再興が前に進まないような気がします。

昭和の高度成長期に日本人は確かに豊かになったのですが、人々が和やかにかつ安心して住むために永年築いてきた世代間伝承の仕組みを喪失してしまったのかもしれません。
 
 
 「きずなの再生」というのが、3・11以降の日本社会のテーマかもしれません。

 ドアを閉めれば隣が何者か知らなくても社会生活ができるという、身勝手な都市生活が賞賛される時代から、再び「きずな」を深める時代になりつつあるかなとも思います。

 しかし実際には防災世帯調査に非協力的な人たちは町内には存在しているので、そういう傾向がでてきても、身勝手な都市市民の生活は変らないかもしれません。
 
 
けんちゃんさんも私と同じ事を考えておられるようです。私の言葉では「地域共同体」の復活ということになりますが、私の子供の頃には間違いなく存在した地域の人々との有機的なつながりがなぜ壊れてしまったのか。

一つはけんちゃんさんが指摘される、イオンなどの巨大商業施設。小売業の大幅な規制緩和がそれまで地域で循環していた経済を根こそぎ破壊して、今まで地域のお祭りやお寺や神社を支えてきた人々を経済的に疲弊させたこと。

一つは大企業優先の経済施策が地方の零細企業を疲弊させ、若い人の働く場所がほとんどなくなったために、地方から都心への人口移動が起こり、地方の高齢化が進んだこと。また地方に進出した大企業があっても、地方行事などとの関わり合いに消極的であることが大半であること。

もう一つは巨大マンションの建設ラッシュ。地域と関係のない人々が大量に流入し地域との関わりのない生活を始めていること。

穿った見方かもしれませんが、戦後GHQが一番破壊したかったのは、この地域住民の絆だったのかもしれません。この絆を崩壊させれば、国民から郷土愛を奪い愛国心を弱めていくことは容易なことですから。




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