しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

飛鳥時代から平安時代の大地震の記録を読む

2011年03月26日 | 自然災害

「日本書紀」には様々な地震の記録がなされているが、天武天皇(?~686年)の時代はとりわけ地震の記述が多いことを友人から教えてもらった。そんな話を聞くと、自分で確かめたくなって実際に日本書紀を紐解いてみた。



「日本書紀」の地震の記録を読む前に、少し天武天皇の歴史を振り返ってみよう。

671年に大化の改新以来政治の中心であっ天智天皇が崩御され、皇位継承をめぐって皇子の大友皇子(弘文天皇)と皇弟の大海人皇子との間に争いが生じ、翌年に美濃・近江・大和などを舞台に壬申の乱が起こるのだが、乱は大海人皇子方の勝利に終わり、大海人皇子は都を飛鳥に戻して飛鳥浄御原宮で即位された。その天皇が第四十代の天武天皇である。

天武天皇は八色の姓を定めて、旧来の豪族を新しい身分制度に組み込み、天皇中心の国家体制を作られ、律令や国史の編纂事業が開始されたなどと教科書に書かれている。

「日本書紀」の巻廿八と巻廿九が天武天皇の時代の記述で、前半には壬申の乱が詳細に書かれている。後半を読んでいると、この時期に地震が多かったのであろう、確かに何度も地震の記述が何度もでてくるのである。
数えた人がいるらしく、「日本書紀」には天武4年(676)から天武14年(686)までに16回もの地震の記録がなされているそうだ。天智天皇の時代の記録は1回だけだそうだから、かなり多いのはどういうことなのか。

そのうちの大半は「地震があった」「大きな地震があった」程度の記述で被害がほとんどなかったのかもしれず、日本の正史である「日本書紀」にわざわざ記録するほどの価値がない地震が含まれているかもしれないなのだが、記述内容からしてかなり大きい地震が何回かあったことは間違いない。

たとえば天武7年12月についてはこのように具体的に書かれている。

「この月、筑紫の国で大地震があった。地面が広さ二丈、長さ三千余丈にわたって裂け、どの村でも多数の民家が崩壊した。このとき、岡の上にあったある民家は、地震の夜、岡がこわれて移動した。しかし家は全くこわれず、家人は岡が壊れて移動したことを知らず、夜が明けてからこれに気付いて大いに驚いたという。」(講談社学術文庫 全現代語訳「日本書紀」(下)p.276-277)

筑紫の国とは現在の福岡県の内、東部にある豊前国を除く大部分を指している。
「丈」というのは約3mなので、地割れは6m× 9000mにも及んだというから、かなり大きなものである。

また、天武13年10月にはもっと大きな地震が日本を襲い、土佐国(現在の高知県)では津波による被害が出ている。

「十四日、人定(いのとき:夜10時頃)に大地震があった。国中の男も女も叫び合い逃げまどった。山は崩れ河は溢れた。諸国の郡の官舎や百姓の家屋・倉庫、社寺の破壊されたものは数知れず、人畜の被害は多大であった。伊予の道後温泉も、埋もれて湯が出なくなった。土佐国では田畑五十余万頃(約一千町歩)がうずまって海となった。古老は『このような地震は、かつてなかったことだ』といった。
この夕、鼓の鳴るような音が、東方で聞こえた。『伊豆島(伊豆大島か)の西と北の二面がひとりでに三百丈あまり広がり、もう一つの島になった。鼓の音のように聞こえたのは、神がこの島をお造りになる響きだったのだ』という人があった。」(同書 p.299)

日本書紀が書かれた当時は「津波」という言葉はなく、巨大な波が発生するメカニズムについてはわかっていなかったのであろうからやむをえないが、この記述における被害の原因が「津波」であることは明らかであろう。
土佐とは今の高知県のことだが、1000町歩が海水につかってしまったと書いてある。
「町歩」という広さは1ヘクタールであるから、1000町歩は10平方キロメートルということになる。わかりやすく言えば、甲子園球場の760倍程度の面積が水につかったということだ。

「日本書紀」にはその後の復興ことなどは一切書かれていないが、津波のメカニズムがわかっていないので、ひたすら神仏に祈ることしかなかった時代である。

次に東北地方の地震の古い記録を見てみよう。
貞観年間(859-877)には、富士山や阿蘇山のほか出羽国鳥海山、薩摩国開聞岳が噴火し、貞観11年(869)には、今回の地震とよく似た三陸大地震が発生し、大きな津波の被害が出ている。

「日本三大實録」にその記録がある。原文は漢文になっているが、次のURLで現代語訳が読める。
http://tarikiblog2.blog22.fc2.com/blog-entry-327.html 

「5月26日、陸奥国に大地震あり。
  人、伏して起きあることできず、
  崩壊した建家の下敷きになり、圧死する人々、
  地割れに脚をとられ、もがく人々。
  牛馬はあてど無く駆け廻り、
  崩壊した城郭、倉庫、門櫓、城壁、数えきれず。
  海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。
  瞬く間に城下に至り、海より数十百里を遡る。
  原野、道路、瞬く間に霧散し、
  船に乗れず、山に登れず、溺死者一千ばかり。
  それまでの資産、殆ど無に帰す。」

と、これを読むと、つい先日の地震のことを書いているようにも思えてくる。



ここでは「海口咆吼し、雷鳴に似た海鳴り沸き上がり、津波来る。」と訳されているが、「日本三代實録」の原文ではこの部分は「海口哮吼。声似雷霆。驚濤涌潮。泝徊漲長」となっており、とんでもなく大きい波が来たことを形容しているだけで、「津波」という言葉が当時は存在しなかった。この筆者には、大地震の後に大きな波が引き起こされると言う認識はなかったはずである。

Wikipediaによると、「津波」という言葉が最初に文献に登場するのは、「駿府記」に慶長16年(1611年)に起きた慶長三陸地震についての記述「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2

今は”tunami”という日本の言葉が国際的に使われているが、英語でこの言葉を最初に使ったのが前回の記事で書いたラフカディオ・ハーンの”Living God”という作品であり、これが「稲むらの火」の物語につながった。

日本のような地震国においても大きな津波被害が出るような地震は何百年に一度という周期で起こるものであり、一人の人間の命の長さからすればサイクルが長すぎて、海抜の低い地域で海の近くに住む人も、津波災害を一生に一度も経験することがないケースが大半なのだ。



だからこそ、しっかりと災害の記録がなされることが必要なのだが、せっかく昔の記録が残されていてもそれが次世代に充分に伝えられなければ意味がない。
いずれ津波の怖さが忘れ去られてしまって、海抜の低い土地に住居や様々な施設が次第に建てられるようになる。そしてまた巨大地震が起こり、あとの津波がその集落を襲った時に再び大きな被害が出ることになる。津波災害の歴史は今までその繰り返しではなかったか。

古い記録は確かに読みづらいが、今回の地震では幸いにも大量の画像や映像が残っているはずだ。画像や映像を教材にすれば誰でも即座に津波の怖さを理解できるので、それらを使って地震の後の津波の怖さを世代から世代に伝えられるようにし、大きな地震があった時にどう行動すべきであるか、町や都市の設計はどうあるべきかを考えてその環境を整えていくことは、今回の大震災を体験した世代の責務だと思う。 
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BLOGariコメント

大地震や大津波の記録は古くからあり、奈良時代にも高知は大津波が襲来し、いくつもの集落がなくなったとか。たぶん東海・東南海・南海地震がトリプルで起こり、今回の東北関東大震災規模であったとか。  

 その津波の記録は中国にも記録されているとか。高知大学の岡村眞教授は、古文書と地質調査を繰り返し、堆積層と昔の言い伝えなどを分析し、南海地震は100年周期に来ると言っています。

 しかし県や行政の想定は、せいぜいここ100年の記録で被害予想を立て防災計画をたてています。

 酷いのは原子力発電所です。古代からの地震の記録を詳細に調査すれば、地震列島の日本では原子力発電の立地が無理であったことは明らかです。

 彼らは逃げ口上に「想定外の津波があった」と言いますが、昔の伝承や記録を丹念に調べれば、すべて「想定内」の出来事なのです。たまたま原発が作られた日本は大地震がなかった50年だったんです。

 奈良時代には原子力発電所はありませんでした。実に厄介な制御不能な怪物を創り出したものです。s¥そうすればいいのでしょうか。
 
 
原子力発電のような施設は、過去最大の地震や津波があっても安全性が確保できるように設計されていなければなりません。「想定外」という言葉を何度も聞きましたが、これは「少々のリスクはあっても、発電所を作ることを優先した。住民にもしものことがあった場合の事は、何の対策も打っていなかった。」言っていることと同じです。

日本の原発は、ほとんどが海沿いにあり、津波に耐えられるかどうかは非常に心配です。特に浜岡原発などは、東海地震の震源地に近い所に建っており、立地からしてもかなり危険に見えます。

今回のことで、原子力発電所は二度と作れなくなるでしょう。危険な原発は廃炉を要求する住民運動が起きてもおかしくありません。

そうなると日本の電力供給が不足することになりますが、まずはバカな鳩山前首相が公約したCO2の25%削減をこのタイミングで反故にして、八ッ場ダムの工事も再開し、各戸の太陽光発電や冷暖房のガス利用等を推進して、電力の原子力依存を漸次減少させていくしかないように思います。
 
 
 そうですね。太陽光発電はもともと日本は世界1だったのに、原子力を優先したために、追い抜かれました。      

 世界に対して「日本は原発を廃止することにしました。しかしそれには最低30年はかかる。またエネルギー不足になると産業技術が維持できなくなり、世界に貢献できなくなります。

 10年間時間をいただきたい。その間火力発電所の建設を認めていただきたい。10年間の間に、太陽光、風力、バイオマス、地熱、潮力、水力などのエコな発電比率を高めます。

 同時に家庭用と業務用の蓄電システムを開発します。節電に努め、日本を地球にやさしい国に作り変えます。そういうことで世界の皆様ご理解をお願いします」とやるべきでしょう。

 でも菅直人首相では無理です。原口前総務大臣あたりが出てくるのでしょうか?

 ともかく1000年来の地震と津波の記録を全国的に再調査すべきでしょう。
 
 
私は風光明美な日本に水力発電のプロペラはあまり勧めて欲しくないという考えですが、原子力に頼らなくとも発電できる技術がこれから出てくる可能性を感じています。
例えば、オーランチオキトリウムという藻類は、かなり有力だと聞いています。培養には広い土地が要りますが、設備に大きなコストが要りませんので、今回被害にあった土地を使い、被災地の方を雇用して軌道に乗せれれば理想的だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0

また、今回の災害で、企業は単一の電力会社にエネルギーを依存することの危険性を認識したはずです。生産施設の分散と自家発電化を進めていくものと思います。

また家庭レベルでも、企業と同様の理由で、太陽光発電の利用を進めていくことになると思います。

電力会社は役所以上に役人体質であることが良くわかりましたから、彼等にあまり仕事をさせないように企業や消費者の行動を変えていくことが重要です。
 
 
電力会社やNTTやJRや日本航空などは、民間企業でありながら顧客志向ではなく官僚的な硬直した会社でしょう。でなければこれほど大きな致命的な事故は起きないでしょうから。

 市民団体の津波に対する懸念を撥ね付け「原発は120%」安全だとか強弁してきたのですから。更に悪いのは、民間企業には役所のように情報開示請求をしても開示義務はありません。ですので責任追及ができないのです。

 株主総会へ乗りこんで発言するか、株主代表訴訟をするていどのことしかできません。1私企業に首都圏3000万人を人質にとられたも当然ですね。これでは困ります。

 しばやんさん推薦のオーランチオキトリウムは面白いですね。私らのグループも「アブラギリ」という燃料になる樹木の植林作業を推進しています。

http://itc-tosa.cocolog-nifty.com/blog/
 
 
「アブラギリ」という植物は初めて聞きましたが四国や九州の温暖な地域には面白そうですね。

オーランチオキトリウムはずっと前にテレビで知ったのですが、Wikipediaでは日本の年間石油消費量を賄うためにたった2万ha(200平方キロ=福島県の1.45%の面積)もあれば良いというのなら、放射能汚染で農業もできないようなところに生産許可を与えたり、津波被害で二度と家が建てられない空き地を政府が買い取ってその場所をオーランチオキトリウム培養のプラントにし、そこで被災者を雇用するなりすれば、充分被災地が立ち直るきっかけになるのではと個人的に考えていますが、単なるアイデアだけで何のコネもありません。

こういうことは、あまり大資本にやらせたくないですね。




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