しばやんの日々 (旧BLOGariの記事とコメントを中心に)

50歳を過ぎたあたりからわが国の歴史や文化に興味を覚えるようになり、調べたことをブログに書くようになりました。

日本の歴史を変えた紀伊大島の人々

2009年12月18日 | 和歌山歴史散策

前回はエルトゥールル号事件のことを書いたが、その事件の4年前の1886年10月24日に、やはり紀伊大島で日本の歴史を変えるきっかけとなったノルマントン号の遭難事件が起こったことも書いておきたい。この事件を最初に発見したのは紀伊大島樫野崎灯台の灯台守と記録にあるので、遭難場所はエルトゥールル号の遭難場所にかなり近かったはずである。



記録によると発見した灯台守の連絡により百四十人余りの漁師がただちに海に乗り出して、海上を漂っていたボートから、船長ドレイク以下27人を救出した。

ところが、ここで問題が起こった。

このノルマントン号には23人の日本人船客も乗っていたのだが、日本人は誰一人として救出されずに全員水死し、ボートで船長が救出したのは一人の中国人コックを除いてすべてイギリス人ばかりだったのである。

この事件に関して、当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にあり、この領事による海難審判で船長ドレイク以下全員に無罪判決が下ったのだが、審判長も陪審もすべてイギリス人によって下されたこの審判に対する日本国民の怒りは大きく、日本政府は改めて船長を殺人罪で告訴し横浜領事裁判所で裁判することになるのだが、ここで出された判決も「陪審員は、船長ドレイクが殺人を犯したと判断する」としながらも、禁固三ヶ月程度で賠償を一切却下され、不平等条約の悲惨さを天下に知らしめることとなった。



この事件を機に国内で不平等条約改正の世論が盛り上がり、日本政府も国内の法典の整備をし、欧風化を推進するなど努力をして、この事件の8年後の1894年に陸奥宗光がイギリスとの交渉により、領事裁判権の撤廃などを含む新条約締結に成功することになったのである。

ノルマントン号のイギリス人を救ったのも、エルトゥールル号の遭難者を救出したのも同じ紀伊大島の人たちで、エルトゥールル号事件の時は、4年前に起こったノルマントン号事件を恐らく経験したか少なくともその顛末を知っていたものと考えられる。それにもかかわらず、大島の人々は村中で一丸となってエルトゥールル号の遭難者を救い出したのである。

その献身的な島民の行為が、トルコとの友好のきっかけとなったことは前回記したが、ノルマントン号事件の時も、もし紀伊大島の人々がイギリス人の救出にあたらなかったら、条約改正を求める国内世論があれほどは盛り上がることはなかったし、イギリスもそう簡単には条約改正に応じることはなかったと思われるのだ。

いずれの事件も、大島の人々の献身的な行為が日本の歴史を動かす大きなきっかけとなったのである。



前回書き漏れたが、紀伊大島の岩礁が多く、波は非常に荒く、島全体がテーブル状になっていて海から島に入ることは容易ではない。特に樫野崎近辺は海抜60メートル近い断崖絶壁で、ボートに乗ったイギリス人を救うことも、海に漂うトルコ人を救うことも命がけの行為であったはずである。 

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