皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

夜須 羽尾小学校・仲木屋分校3

2019-04-30 22:10:43 | 学校跡地訪問


半世紀以上前に廃校となった「仲木屋分校」。

そしてそのすぐ後に最後の住人も山を降りた「仲木屋」についても、もうこれ以上知る事は出来ず、後はこの地が800年前、平家がこの地に入る前の姿に戻るのを傍観するしかない、、と思っていた。

●夜須・学校跡地まとめ

https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34882468.html

が、しかし過去の「高知新聞」を遡ると「仲木屋」の事が数多く掲載されている。


そしてまさかの、当時の仲木屋分校の姿を見る事が出来た。

仲木屋分校遠景


授業中



校門

廃校直後

ブランコがある


昭和39年5月



昭和26年5月8日掲載

当時の高知県下には分校を含め479校の小学校があった


昭和29年6月6日




運動場と呼べるものはなかったが、現地を知っている者にとっては今更ながら言われる話でもない


実は「開校」に関しては「夜須町史」とは隔たりがあり、この当時は私塾のあった明治5年となっている。


また小学校だけで35名の児童が在籍していた事もあったそうだから、「仲木屋」は200人を超える規模の集落であったとも推測できる。

昭和32年4月10日



また仲木屋分校は、夜須中学校の中木屋分校でもあった・・・・・が、実はそれは教育委員会が認めず、黙認していた「分校」扱いで・・・当時の時代背景が面白い。


昭和32年7月16日



土佐山田の明治小学校の児童からの贈り物


香我美町舞川小学校、中学校、仲木屋分校、物部笹小学校、河口小学校上岡分校

昭和32年9月17日



新入生は一人

昭和34年3月4日



学校の歴史は私塾からとしては明治5年。

しかしそれは「学制」が「明治5年」だからそうなっているだけで、「平家」の「教育」の歴史としては相当昔から行われていたはずだ。

それは、仲木屋の石垣がその他の何処の集落跡を比較しても群を抜いて抜群に精巧な造りである事からも容易に推測できる。

そしてそれは、その他の集落跡の石垣のレベルが低いからではなく、その素晴らし多くの集落跡、石垣跡と比較しても明確に分かる程、レベルが「高すぎる」という事である。

公立の学校としての歴史は「明治29年」からで、これは「夜須町史」より、こちらが正しいだろう。

炭焼き職人と郵便屋さんの話

昭和34年11月3日


あの「日露戦役紀念」の石碑はこういう事だ。


そして源平合戦から700年後

「平家」が日本を護った、と言っても過言ではない!!


児童一人

昭和35年2月28日




昭和35年5月2日

一面の記事



分校遠景


仲木屋分校の池添氏


昭和36年9月25日



廃校後の学校



昭和37年3月15日



学校は解体されて夜須の公営住宅に建て直されたそうだ!!


昭和39年5月8日




仲木屋のその後










在りし日の「羽尾小学校仲木屋分校」



現在も「仲木屋」は人々の心の中に生き続け、確かに存在した歴史として現在の日本の礎となっている。





現在、羽尾から奥は通行止めになっているが、また仲木屋に行ってこよう。




行く経路は他にも沢山ある!!




夜須 羽尾小学校・仲木屋分校2

2019-04-30 21:24:29 | 学校跡地訪問
歴史 

明治41年4月 私立の仲木屋教育所を羽根尋常小学校の分教場とした。

        通学区は沢谷の上文、仲木屋、上倉で児童数十数名

昭和36年4月 廃校 最後は児童一人、先生一人だったそうだ。

                (夜須町史より)

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平成30年10月23日追記

が、実際は当時の新聞によると分校の歴史は明治5年の私塾からと明治29年の公立校としての扱いからとなっている。

また仲木屋の歴史は源平合戦後の平家800年の歴史そのものでもある。

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また「夜須風土記」では





昭和35年廃止となっている。




仲木屋小学校跡地周辺の概要。

5つの沢を挟んで、陽当たりの良い場所に6つの地区が確認出来た。






今回は前回の帰りに見つけた717地点の一つ西の杣道からアプローチ


すぐに前回行った集落跡に到着

途中に何かあると思っていたが、特に何も無かった。

そして前回の帰り道のさらに先に進む。

そのまま西の集落に着くと思っていたが、道は高度を上げ、上に行く道と下に行く道の分岐点に。

このまま上にに行けば林道に着きそうだし、下に行けば跡地に着きそうだ。


帰りは、ここから林道に戻ろう。多分すぐそこだ。
そして山道を下に進む。
半世紀前の山道とは思えない雰囲気がある



到着した。



国旗掲揚台と石碑がある



校舎の基礎はこの大きな石
もしかして分校まえの教育所時代からのものだろうか。


国旗掲揚台
これは撫川小学校跡地にも国光小学校跡地にもある同じ作りのものだ。



事前にこの日露戦役の石碑が分校跡地の目印との情報をもらっていた。

これと同じく、日清日露の戦役を刻んだ石碑が舞川小学校跡地にもあった。

国旗掲揚台といい石碑といい、この地域の教育は戦前の教育の色が非常に濃いものだったのだろうか。

というより、戦前の教育の形を残したまま、戦後も存続していたという事だろうか。

それとも、殆どの学校で戦後の改築、移転等で戦前のものは次々と破棄されていったのだろうか。



電気の部品



学校敷地の下にある風呂釜
この場所からして、民家跡というより教員宿舎跡だと思う。



学校跡地の下



お墓



まるで等高線を描くかのように石垣が築かれている


西に行ってみる事に

道なりに進み、沢を渡るが、どうやらここも当時からの道で石橋がその後の雨で崩壊したようだ。



奥にかろうじて人工的に積まれた石積みの跡が残っている。




電柱と、電柱を切った跡発見!!




電柱の日付を確認したかったが完全に消えていた



そしてここにも極めて整然と整備された石垣跡が残っている。




ここは山奥の集落だが、学校が出来る以前から地域の教育場があり、少人数ながらも極めて高い知識と技術を持った人達が住んでいたのでは!!という印象を受ける。



民家の基礎跡


茶碗、もしかしてかなり価値の高いものだったりして・・・



民家の風呂釜


さらにその下の段に当時の建物がそのまま


そして蔵がある



そして、そこからも西に道が続いている

沢を渡るが、ここも当時からの道の雰囲気が僅かに残っている。



瓦や食器とかいろんな物が落ちていて、その先に、耕作地があり、ここからアンテナ塔が見える。


そしてその上の段には民家跡が


そして送電の部品が
ここも、その集落の長い歴史の最後の数十年、電気のある生活を経て幕を閉じる事になったらしい。


この先も道は続いている

ここまで来ると、下の羽根まで行ってみたい気もするが・・・




引き返して学校跡地の上の分岐に着く




そして緩やかな道を登り林道に着く




林道を挟んで対角線上に「100m下に仲木屋分校跡地の石碑」が見える。

あの場所でも確かに100m下ではあると思うが・・・

もしかして、これって担当の人が、少しだけ間違って50m程西の反対側に設置してしまったとか。

それとも誰かが、ここにあった石碑を、引っこ抜いて、わざわざあっちに埋めたとか・・・


一世紀前、この地から5人の男達が未曽有の国難に立ち向かっていった!!

夜須 羽尾小学校・仲木屋分校跡地1

2019-04-30 20:57:29 | 学校跡地訪問


訪問したのは平成28年1月






現状はこんな感じのようだ。



夜須、羽尾小学校仲木屋分校は半世紀以上前に廃校になった学校で、集落自体も同時期に無人になっているようで、林道脇にある跡地の石碑を目印にその下100mの山の中にあるそうだ。



ヤッシーパークから51号線り羽尾の集落のまだその先の林道入り口




その先 4キロ程に石碑がある。

舗装があるのは最初だけ。




ここから下へ100mとあるから、素直に林道の北側を降りる。

鉛筆を持つ手でノートに影が出来ないように黒板は西向き!!の法則からして??と思いながら100m以上歩き、撫川へ続く川沿いもしばらく歩くが、耕作地と、炭焼きの窯跡と、川を渡る小橋の土台数か所しか発見出来なかった。

そして、その反対側(南側)にも降りてみるが、耕作地跡の石垣しか発見できなかった。

全く、何処を起点に、どちらに100m下かが分からない・・・!!




その日は時間もなく、帰って地理院地図を見て次回の作戦を考える事に!!

とりあえず、状況が分かったから、よし!としよう!!

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そして後日




その後に林道が出来、当時の地理院地図と状況が変わっているので、石碑を起点に考えるのではなく、少し先の717地点の尾根から集落を探す事にする。




そして、717地点から入る!!


この等高線から尾根が歩きやすい事は想像がついていたが、しっかりと杣道があった。

ブルーのテープで目印を付けながら、尾根の東側への道を探す!




下り過ぎないように気を付けながら、そろそろという感じの地点に道があり、すぐに民家跡があった!!




まだこんな状態で残っているとは・・・・



民家の中には当時の生活を偲ばせるこんなものが・・・・



これは・・・・・・




この家の玄関の石段!!




同じ敷地の隣の建物は完全に崩壊している



立派な石垣の上に、その民家跡はあった




そして、等高線から分かるように、その西側が広くなっている訳だが、そこは石垣でしっかりと仕切られていた!!









そこから西に向かうと、石垣、民家跡、耕作地跡があったが、歩くのが大変なほどで、写真を撮っていない・・・




そしてその先にさらに大きな集落跡が









ここが仲木屋の繁華街かも




当時は整然と整備された綺麗な集落だったのでと想像出来る!!!




杜があり、小松さんのお墓があった。

杜はまだ手入れがされているようだ!!




ここにも民家跡が残っている




がしかし、漠然と仲木屋の集落跡を発見出来たが、目的の学校跡が見当たらない。

というか、一体何処を、何を根拠に、何を目印に学校跡地を特定すればいいのか、

ここに来て初めて疑問に思ってしまった。




まあ、この日は安芸でのサッカーの試合の後、現地到着三時半で、ここまで来れたから、よし!としよう。

帰りは、ブルーのテープを辿りながら帰ろうと思っていたが、この集落をさらに西に歩くと、上に林道に辿りつけそうな場所があったので、そこから登って帰る事に。

実際に林道に出るまでは、ドキドキしながらも、結果的には、さらに仲木屋への近道を発見出来たので、これも、よし!としよう!!



このすぐ下に、仲木屋への道がある!!
下り2分。登り5分ぐらいだろうか!



石碑から、少しく下りになり、そこから再び717地点に登る坂の手前のこの看板が目印だ







時間は5時を過ぎ、辺りは暗くなり始めている。

そして、なにやらポケットが騒がしい!!

どうやら携帯が鳴っているらしい!!



本部からだ!!!

今日は疲れたから、晩飯を買ってこいとの伝令!!!




このペースで帰ると、丁度、野市の半額タイムに間に合う事になる。




夜須の仲木屋のこのヤッシーパークの見渡せる周辺は、携帯の電波も良好らしい!