半世紀以上前に廃校となった「仲木屋分校」。
そしてそのすぐ後に最後の住人も山を降りた「仲木屋」についても、もうこれ以上知る事は出来ず、後はこの地が800年前、平家がこの地に入る前の姿に戻るのを傍観するしかない、、と思っていた。
●夜須・学校跡地まとめ
https://blogs.yahoo.co.jp/shgogoshgogo/34882468.html
が、しかし過去の「高知新聞」を遡ると「仲木屋」の事が数多く掲載されている。
そしてまさかの、当時の仲木屋分校の姿を見る事が出来た。
仲木屋分校遠景
授業中
校門
廃校直後
ブランコがある
昭和39年5月
昭和26年5月8日掲載
当時の高知県下には分校を含め479校の小学校があった
昭和29年6月6日
運動場と呼べるものはなかったが、現地を知っている者にとっては今更ながら言われる話でもない
実は「開校」に関しては「夜須町史」とは隔たりがあり、この当時は私塾のあった明治5年となっている。
また小学校だけで35名の児童が在籍していた事もあったそうだから、「仲木屋」は200人を超える規模の集落であったとも推測できる。
昭和32年4月10日
また仲木屋分校は、夜須中学校の中木屋分校でもあった・・・・・が、実はそれは教育委員会が認めず、黙認していた「分校」扱いで・・・当時の時代背景が面白い。
昭和32年7月16日
土佐山田の明治小学校の児童からの贈り物
香我美町舞川小学校、中学校、仲木屋分校、物部笹小学校、河口小学校上岡分校
昭和32年9月17日
新入生は一人
昭和34年3月4日
学校の歴史は私塾からとしては明治5年。
しかしそれは「学制」が「明治5年」だからそうなっているだけで、「平家」の「教育」の歴史としては相当昔から行われていたはずだ。
それは、仲木屋の石垣がその他の何処の集落跡を比較しても群を抜いて抜群に精巧な造りである事からも容易に推測できる。
そしてそれは、その他の集落跡の石垣のレベルが低いからではなく、その素晴らし多くの集落跡、石垣跡と比較しても明確に分かる程、レベルが「高すぎる」という事である。
公立の学校としての歴史は「明治29年」からで、これは「夜須町史」より、こちらが正しいだろう。
炭焼き職人と郵便屋さんの話
昭和34年11月3日
あの「日露戦役紀念」の石碑はこういう事だ。
そして源平合戦から700年後
「平家」が日本を護った、と言っても過言ではない!!
児童一人
昭和35年2月28日
昭和35年5月2日
一面の記事
分校遠景
仲木屋分校の池添氏
昭和36年9月25日
廃校後の学校
昭和37年3月15日
学校は解体されて夜須の公営住宅に建て直されたそうだ!!
昭和39年5月8日
仲木屋のその後
在りし日の「羽尾小学校仲木屋分校」
現在も「仲木屋」は人々の心の中に生き続け、確かに存在した歴史として現在の日本の礎となっている。
現在、羽尾から奥は通行止めになっているが、また仲木屋に行ってこよう。
行く経路は他にも沢山ある!!