皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

野根山街道③「米ヶ丘の導水路」

2020-06-25 23:20:40 | 野根山街道
この導水路は、米ヶ丘分校のある米ヶ丘の事だから「奈半利の学校」のカテゴリーではあるが、実際はそれ以上に「野根山街道」と密接な関係がある。
だからカテゴリーを「野根山街道」とした。



この米ヶ丘の美しい田園風景も、元々は規則性の無い大自然の原野を


当時の日本人が開拓し創り出されたもの。


そしてこの田園風景を彩る「水」は、この土地の先天的なものではなく、この計画に合わせて須川川から導水路によって運ばれてきている。

ま、、こういう事なのである。
    ↓   ↓   ↓



参勤交代で日本全国の街道沿いに活気が満ち溢れ、繁栄と富をもたらした。

その後「米ヶ丘」と呼ばれる事になるこの場所はも、お殿様御一行様の通り道となる事で、「道」が、やがて「街」を造り出す事となる。

「街道」という言葉は、実は「街」と「街」を繋ぐ「道」の事ではなく、「道」が「街」を造り出した事に由来しているのかもしれない。

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それにしても、「大名が力を蓄えて反乱を起こさないように参勤交代で疲弊させた」なんて全く馬鹿馬鹿しい発想が出来るものである。

だが確かに彼らにとって、実はその「発想」はよくある事で、彼ら自身がいつもやっている事なのである。

しかし日本人はその様な事はしないし、そもそもその様な「発想」自体を持っていない。

日本人の初期設定からして あり得ない 事であるが、突然その様な事を言われると、事の善悪は別として、今までにない斬新な思想、として受け入れてしまいがちであるが、我々日本人の歩んできた歴史を振り返り、その流れを理解すればするほど、それが「異国」から持ち込まれた「異物」である事が分かってくる。

特に、先の大戦の結果として持ち込まれた現在の価値観を基準に教育を受けた現在の日本人には浸透しやすい思想であるが、日本人としての誇り、自信、意味、意義、を取り戻す事が出来れば、それが外来の作り話という事が分かってくる。

自分達がするからと言って相手も同じ事をすると思っているのが彼らの残念な部分である。
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この「米ヶ丘」を潤す「水」は、実は「米ヶ丘」に溢れる「水」ではない。



もしかしてこの場所は、この「導水路」が無ければ、逆に耕作に不向きな「水」の乏しい場所であったのかもしれない。


そしてまた、この「米ヶ丘」の開発は、この、その後「米ヶ丘」と呼ばれる事となるこの場所自体の開拓からではなく、米ヶ丘への「導水路」の開発から始められたのではないだろうか。



導水路を源流に向かって遡ってみる。

ここ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑はまだ「野根山街道」に並走する「導水路」だか、ここはその後付け替えられた区間のようだ。


そして街道からから右手方向に向かって緩やかな勾配を遡る。


その上流

この付近だけ水流の高低差が大きい。

もしかしてそれは、「この付近から須川川に向かって導水路の開発が始められた」という事を
意味しているかもしれない。

あくまでも「推測」に過ぎないが、ではこの導水路の開発の始点は何処か??となると、
やはり第一候補がここになってしまう。

現にこの付近から各方面への導水路の分岐が始まる。



導水路は緩やかな勾配を確保しながら続き、そして当然、私にはこのままこの導水路の横を歩きながら取水所まで難なく歩きつけるという確実な「自信」と「安心」があった。



何故なら300年以上前に開発された導水路を伝って現在も米ヶ丘に水が流れているから。

そしてそれは、取水所までこの状態が続き、並走する側道のような道も同じく続いているという事。

つまり、その側道は、その後の「整備」「点検」のために作られたものではなく、「導水路の開発」自体が、導水路そのもではなく、まずは「始点」から「取水所」に向かう一定の幅と性能を確保した「道」から始まった、という事を意味する。


水路は石垣の淵を通る

もしかして豪雨の時は莫大な量の水がこの沢に集中するため、敢えて石垣の組まれた土地を作りその水を分散する、という工夫がされているのかもしれない。

そして仮に、ここではそうではないとしても、その様な施行が行われている導水路は多く存在するはずだ。
当然この米ヶ丘の導水路ではない別の場所でも。



導水路の分岐がある


令和、でもなく、昭和、でもなく、「平成」と「江戸」が交錯している、

ローテクというべきかハイテクというべきか、、、、、

しかしその表現は現在のここ数十年の価値観を基準にした言葉であり
数百年の歴史を物語るに相当する表現力を保有していない。

それでも敢えてその言葉を使おうとすると、ハイテクを超えたローテクというべきだろうか!!



「明治、大正、昭和、平成を超え、令和の時代に伝わる米ヶ丘の江戸時代からの姿」



現在の日本人にこの様な水路が作れるだろうか???




最も驚くのはこの「暗渠」の性能と耐久性!!!!!


分岐を過ぎ、耕作地帯を抜け、ここから先、導水路は、更に、今まで以上jに、自然な水の流れとしては絶対にあり得ない経路をとり取水所に繋がる。



ここにも分岐があるが、ここは「交差点」のような場所で、水路に水を供給する目的の場所ではなく、
沢を流れる水が円滑にこの「導水路」を横切る事が出来る仕組みを最優先した場所。



雨量の多い時は二つの水流が激しく交差する場所でもあった。



沢の上部はそこまで整備はされていないというか、その流れを十分に受け止める事の出来る施設を設置したという事だろう。

当然その目的は、沢を横切る「導水路」を保護するため。


そして「導水路」は今までにない傾斜を横切る事となる



当然この地形は「開発」された地形であり、このような地帯に求められた開発道の幅は「一間」(180㎝)と推測すれば「一間」(畳の長手方向の長さ)という言葉の整合性に、より納得が出来るというものである。



しかし傾斜の大きい全ての区間で「一間」の幅が求められたかというと、そうではなく、それが困難な場所、というより、そんな事をするより石垣で強固な場所を作ったほうが効果的な場所は、もう現在の日本人には再現する事は出来ないであろう「ハイテク」を使い「開発道」が造られ、その幅は「半間」が求められた!!!、と推測する。


導水路は開発当時から姿形を変え現在に至っている。

当時は現在でも各地域に残っている「田役」という地域の行事で、赤土と漆喰を使い、点検、整備をしていたそうだ。

しかも地域住人総出で、子供達まで駆り出され!!!、というとちょっと響きは悪いが

「おにぎりをお腹一杯食べられる!!!!」という、子供達にとっては「大運動会」というか「お祭り」というか、非常にポジティブな行事なのであった。

そして更に「大運動会」や「お祭り」と違って、それは地域の「生命線」を確保するための非常に重要な「作戦」でもあった。




現在の日本の中東からの「原油」の「シーレーン」は、それと同じ「国家」の生命線」もある。
その「生命線」に対する人々の姿勢、体制の当時と現在の違いを比較すれば、現在の日本の国家の体制の「ヤバさ」が浮き彫りになるというものである!!



この改装区間は水路の高さが新基準なのだろうか!!

その後の雨量の増加に対応したものとするものなのか。

それとも、その地形により相対的に劣化の進行が早く、再度、改装と新基準が求められた区間なのか!!


その区間はほぼ限定的な距離であった。


再び改装区間に突入


ま、改装と言っても、今までに幾度となく繰り返されてきた事ではあるが。



この区間が最近 復旧が行われ、その他の区間は以前のままの状態で水流を保っているという事は、やはりこの区間は比較的条件の厳しい区間であったという事であろうか。

少なくともその土台、基礎となる区間が石垣で築かれているという事は、悠久の地球の動きの中で創造された地形ではなく、つい最近、ほんの300年程前に人間の手によって造られた地形、自然の意思ではなく、人間の意思によって確立された地形という事になる。


そしてこの改装区間もすぐに終わる。



水路の経路はこの様な状態であると推定でき、この二つの新設区間はその中でも比較的傾斜のきつい地帯に存在している。
導水路の地図


そしてそれは導水路の経路を少し上げて、より平坦な場所を走らせれば解決する問題にも見え、更に耕作地の期待できる平坦な場所を増やす事にもなりそうではあるのだが、実は東側の山が高く、総合的に耕作地として必要な日照時間の確保できない地帯と判断された結果だったのかもしれない。


水の流れる音がより大きくなり、須川川はすぐ真下!!



自然の地形を流れる「川」の流れと、人工的に造られ、その勾配を最小限に抑えられた「導水路」の流れは急接近し、可能な限りの「最小限」の距離で接続する。


その後の「米ヶ丘」と呼ばれる事となるその場所から始められたであろう開発事業も、この付近でボルテージは最高潮に達していたかもしれない。


この先にあった当時の取水所の形は一体どの様なものであったのだろうか。

「初期型」「プロトタイプ」は一体どの様な仕様、構造、設定であったのだろうか!!

とにかく、堰き止められた水流が「川に」「導水路」に自由自在の工夫の施された場所であったに違いない。


そしてまたこの「導水路」の流れが途絶えてしまうと、「米ヶ丘」の姿が、開発以前の原野の姿に戻る事を意味する。


小学校(分校)が廃校になった以上、江戸初期に開拓開発されたこの地域の未来の方向性は、ほぼ固定された一定の方向を向いている。


また、植林という、想定外の状況に囲まれた須川川


取水所(米ヶ丘方面へ)


タンクがあり、川の反対側にも供給されているのかもしれない。
(米ヶ丘と比べ日当たりの確保が厳しい場所であろうが)



米ヶ丘に帰ってきた。
30分程の徒歩であったから2~3㌔程の距離になるのだろうか。

またその「導水路」の開発に必要とされた時間は「数年」ではなく「数カ月」であったと推測できる。


その根拠は、当時の人口、人役数、技術、財政、物資供給路、、、、、、というより、その時代にこれだけの規模、規格の土地を造り出したのだから、大体それくらいだろう!!というものであるが、当たらずとも遠からず、であろう。


帰り道。

下り坂からほぼ平坦に分岐する導水路


導水路はそれぞれ分岐し、その先の水田を彩っている。


分校上部からの風景


分校が廃止になった以上、(このままでいけば)数十年単位の その先の時代には、同じ様な風景は、、もう300年以上、いや400年近く昔の当時の在りのままの姿である原野に近づく運命となる。


そして「米ヶ丘」とは、なによりも、あの「導水路」の事である!!!!!!



また当時の地図によると、導水路に並走する「道」は当時の主要道路であり、取水所から対岸に渡りその先の山頂に繋がっていたようだ。



現在の「価値観」では到底理解できそうな「経路」ではないが、これが当時の人々の「経路」であったのであろう。


そしてその「経路」、「道」の先にあったものは、現在以上の「日本」の本来の姿!!!


我々は、忘れてはいけないものを忘れてはいけない。

そして、失ってはいけないものを失ってはいけない。

我々は今まさにその時代の重要な「分岐」の地点を迎えているのである。