皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

大方・白田川中学校

2019-08-10 09:39:42 | 大方の学校

大方・白田川中学校

2017/8/2(水) 午後 9:25


学校の記号は、上川口小学校・白田川中学校・伊田小学校


この海岸線沿いの土地が白田川中学校のあった場所


学校の歴史

昭和22年 5月1日学改により上川口国民高等学校を廃して、白田川村立白田川中学校を新設(上川口小学校敷地内に仮校舎)同日、白田川村立青年学校併設

昭和23年 9月1日 新校舎に移転

昭和30年 9月6日 大方町と合併 大方町立白田川中学校

昭和36年 増築

昭和46年 大方中学校と合併 







現在この土地は売りに出てるようだ



既に学校跡地を思わせるものはないが・・・


一つの鉄棒だけが、まだここに昔、学校があった事を物語っていた!!





在りし日の白田川中学校



航空写真で見る、在りし日の白田川中学校


生徒達が駆け回ったグランドの跡も残っている!!



大方・伊田小学校

2019-08-10 09:38:42 | 大方の学校

大方・伊田小学校


2017/8/2(水) 午後 3:57



平成26年から休校

黒潮町の小学校児童数の推移(平成7年~)


伊田小学校休校前の平成25年度の児童数は8人(平成7年度は68人)


校門



校舎



校庭



体育館



奥にある時計はまだ正確に時を刻んでいる



100年に一度の大災害に備えよう

そしてその大災害を皆で協力し乗り越えてきたからこそ現在の日本人がいる!!




閉校の碑



隣には学校の歴史



開校明治6年

当時がいかに活気があり、財力があり、人材にも恵まれ、教育に関する意識が高かった事か!!


でもここでの開設は「小学校」ではなく「小学」という意味




「大方町史」には

明治19年頃 伊田、有井川、上川口の小学校が合併して有井川に学校を設置した事がある


明治22年 8月創立・伊田尋常小学校

明治27年 有井川尋常小学校分離

大正 8年 4月移転改築・伊田尋常小学校(伊田、有井川の両尋常小学校合併)

となっている。





そして有井川尋常小学校は



白田川中学校跡の場所が分からず、地元の方に教えて貰っている途中に見つける事が出来た



商店の横が、明治27年から大正8年まで存在していた有井川尋常小学校跡



こんな場所にも小学校が!!と驚き気味の私に


地元の方は、「いやいや、小学校があったというより、そこに集会場があり、そこで授業をしていたから、そこを小学校と呼んでいただけ!!」


と冷静に教えてくれた。




その後の集会場の移転先



もしかして、ここにも小学校があった時期が存在するかもしれない



現在の日本に存在する小学校の形態は、現代になって築かれたもので、明治5年の学制発布以来、様々な経緯を経て現代に至っているのである。


そして、それ以前から、その後の教育を築き上げるしっかっりとした教育の基盤、土壌が成熟していたという大前提が存在していたという訳である。


突然、学校を作りましょうと「学制」を発布したから、現在の小学校の歴史が存在しているというそんな簡単なものではないのである。

だから先人達の知恵、勇気、努力に感謝しましょう!!!



そして、だからこそその日本の教育機関の内部に侵入し、日本人に成りすまして「大嘘」を教える奴らが許せないのである。





現在 休校中の伊田小学校




まだその明治6年からの歴史は続いているのである!!!

大方・蜷川小学校

2019-08-08 22:33:54 | 大方の学校

大方・蜷川小学校

2017/8/2(水) 午前 0:12

地理院地図「土佐佐賀」昭和44年


学校が見えてきた

とても廃校になった小学校があるとは思えない雰囲気



校門





とても20年前に廃校になった小学校には見えない



校舎



校庭


遊具は一カ所にまとめられている



今までで見た中で一番大きな100周年記念碑


学校の改革史


写りが良くない・・・・








「大方町史」によると




明治 8年 開校 

明治20年頃まで入野小学校の分教場

明治23年 蜷川簡易小学校

明治26年 上川口尋常小学校蜷川分教場

明治31年 6月、蜷川尋常小学校

平成11年 上川口小学校に統合





学校前の通りは、今でもそのままその地区のメインストリートなのである!!



大方・湊川小学校

2019-08-08 22:32:26 | 大方の学校

大方・湊川小学校

2017/8/1(火) 午後 11:57



地理院地図「土佐佐賀」昭和44年


一旦集落が切れ、再び集落が現れ湊川小学校に到着



卒業生も同じように随分と大きくなった事だろう。



校門


ここにも国旗掲揚台


小学校教育は国家基盤

そこから国旗を排除しようとする意識は、決して日本人の意識ではなく、特定の外国人の意識なのである




国旗掲揚、国歌斉唱は教育の基本中の基本


美しい日本の本来の姿を取り戻そう



卒業生の作品かな



現在はふれあいセンター




学校の石碑



学校の歴史


「大方町史」によると

最初は入野小学校の分教場で、その後、奥湊川簡易小学校、奥湊川尋常小学校となったようである。

大方・加持小学校

2019-08-08 22:31:33 | 大方の学校

大方・加持小学校

2017/8/1(火) 午後 11:20





明治8年 開校 入野小学校の分教場として(泉福寺)


「大方村史」より



明治20年 加持尋常小学校

(同20年、北郷小学校の前身は「加持川尋常小学校」と改称)

明治24年 小北山に移転

昭和59年 入野小学校へ




校門


ピンぼけになってしまった


敷地内には蕨岡小学校伊才原分校にあったものと同じ国旗掲揚台がある



正面


裏面




上部


正面には


「皇太子殿下御降誕記念」と記されている


これだけで、昭和の時代の「教育」と平成の時代の「教育」が、すっかりと姿を変えてしまっているという事が分かる。


また昭和59年に廃校になったこの小学校の国旗掲揚台が30年以上経った今もそのまま保存されている事にも意味があるのだ。





校舎

と言うより、体育館かな




鉄棒



面影の残る校門付近



全景


周辺の学校


私の小学校時代(高知市内・昭和50年代)だけど、当時はこの大方町のほうが、ずっとずっと児童も多く活気に溢れていたんじゃないかと思う。




そういや、甲子園に出場した「大方高校」を応援していた記憶がある。