皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

夜須 羽尾小学校・仲木屋分校2

2019-04-30 21:24:29 | 学校跡地訪問
歴史 

明治41年4月 私立の仲木屋教育所を羽根尋常小学校の分教場とした。

        通学区は沢谷の上文、仲木屋、上倉で児童数十数名

昭和36年4月 廃校 最後は児童一人、先生一人だったそうだ。

                (夜須町史より)

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平成30年10月23日追記

が、実際は当時の新聞によると分校の歴史は明治5年の私塾からと明治29年の公立校としての扱いからとなっている。

また仲木屋の歴史は源平合戦後の平家800年の歴史そのものでもある。

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また「夜須風土記」では





昭和35年廃止となっている。




仲木屋小学校跡地周辺の概要。

5つの沢を挟んで、陽当たりの良い場所に6つの地区が確認出来た。






今回は前回の帰りに見つけた717地点の一つ西の杣道からアプローチ


すぐに前回行った集落跡に到着

途中に何かあると思っていたが、特に何も無かった。

そして前回の帰り道のさらに先に進む。

そのまま西の集落に着くと思っていたが、道は高度を上げ、上に行く道と下に行く道の分岐点に。

このまま上にに行けば林道に着きそうだし、下に行けば跡地に着きそうだ。


帰りは、ここから林道に戻ろう。多分すぐそこだ。
そして山道を下に進む。
半世紀前の山道とは思えない雰囲気がある



到着した。



国旗掲揚台と石碑がある



校舎の基礎はこの大きな石
もしかして分校まえの教育所時代からのものだろうか。


国旗掲揚台
これは撫川小学校跡地にも国光小学校跡地にもある同じ作りのものだ。



事前にこの日露戦役の石碑が分校跡地の目印との情報をもらっていた。

これと同じく、日清日露の戦役を刻んだ石碑が舞川小学校跡地にもあった。

国旗掲揚台といい石碑といい、この地域の教育は戦前の教育の色が非常に濃いものだったのだろうか。

というより、戦前の教育の形を残したまま、戦後も存続していたという事だろうか。

それとも、殆どの学校で戦後の改築、移転等で戦前のものは次々と破棄されていったのだろうか。



電気の部品



学校敷地の下にある風呂釜
この場所からして、民家跡というより教員宿舎跡だと思う。



学校跡地の下



お墓



まるで等高線を描くかのように石垣が築かれている


西に行ってみる事に

道なりに進み、沢を渡るが、どうやらここも当時からの道で石橋がその後の雨で崩壊したようだ。



奥にかろうじて人工的に積まれた石積みの跡が残っている。




電柱と、電柱を切った跡発見!!




電柱の日付を確認したかったが完全に消えていた



そしてここにも極めて整然と整備された石垣跡が残っている。




ここは山奥の集落だが、学校が出来る以前から地域の教育場があり、少人数ながらも極めて高い知識と技術を持った人達が住んでいたのでは!!という印象を受ける。



民家の基礎跡


茶碗、もしかしてかなり価値の高いものだったりして・・・



民家の風呂釜


さらにその下の段に当時の建物がそのまま


そして蔵がある



そして、そこからも西に道が続いている

沢を渡るが、ここも当時からの道の雰囲気が僅かに残っている。



瓦や食器とかいろんな物が落ちていて、その先に、耕作地があり、ここからアンテナ塔が見える。


そしてその上の段には民家跡が


そして送電の部品が
ここも、その集落の長い歴史の最後の数十年、電気のある生活を経て幕を閉じる事になったらしい。


この先も道は続いている

ここまで来ると、下の羽根まで行ってみたい気もするが・・・




引き返して学校跡地の上の分岐に着く




そして緩やかな道を登り林道に着く




林道を挟んで対角線上に「100m下に仲木屋分校跡地の石碑」が見える。

あの場所でも確かに100m下ではあると思うが・・・

もしかして、これって担当の人が、少しだけ間違って50m程西の反対側に設置してしまったとか。

それとも誰かが、ここにあった石碑を、引っこ抜いて、わざわざあっちに埋めたとか・・・


一世紀前、この地から5人の男達が未曽有の国難に立ち向かっていった!!

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