皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

香北・猪野々小学校

2019-05-28 22:15:48 | 香北の学校

香北・猪野々小学校

2017/5/1(月) 午後 11:41


在所村史によると昭和27年、村内には永野小学校、府内小学校、清爪小学校、猪野々学校の五校と、在所中学校、猪野々中学校の二校があり、児童は456人、生徒は160人、小学校教員25名、中学校教員13名がいたそうだ。


勿論、すぐお隣の物部村にも沢山の児童、生徒がいた訳だから当時の賑わいは、その後、香北町になり、さらに香美市になった現在の姿からは想像も付かないものだろう。


しかし現在の時代を過ごす私にとっては、

もしかして学校跡地訪問をやってなければ訪れる事のない場所だったかもしれない。


開校100年の記念碑


学校の歴史

明治 5年 開校

平成14年 大宮小学校に統合



校庭



校門


猪野々小学校



前は記念館になっている



プールは道路を挟んで


8コースある



低学年用のプールもある


美しい石垣のある綺麗な田園風景の中のプール


日が暮れてきた

学校の後ろにある居酒屋


ちょっと名の知れた店らしい



学校跡地のあるこの界隈は今でもこの集落の繁華街なのである!!

香北・清爪小学校

2019-05-28 22:14:54 | 香北の学校

香北・清爪小学校

2017/5/2(火) 午前 1:30

元禄13年の古地図によると、猪野々、清爪、日浦込(古味)・・・と現在地名のある集落そのものが、それぞれの独立した村であったようだ。


永野は以前は「長野」だったようだ

一体いつ、どのような理由で変わったのか知りたいところである



周辺に「橋」が掛かるまでは高知市内からのかなり時間的に遠い場所


非常に綺麗に手入れが行き届いている学校跡地



現在は


在所村立清爪小学校



明治11年から昭和44年までの歴史



香北町史には


明治11年 清爪字東ノ岡に二間半に4間の茅葺き校舎を設け浜田庄吉・岩谷徳隣・中沢正顕・立仙繁之助らが相次いで生徒を教えた

明治18年 清爪簡易小学校と称す

明治26年 校舎を新築し清爪尋常小学校と称す

明治36年 在所村第4尋常小学校と称す

明治41年 校舎を改築 児童数45人

昭和30年 8月 新校舎落成 9月から新校舎で授業開始 児童数33名

昭和41年 児童数 男子14名 女子9名

昭和42年 新入生一人が入学

昭和43年 児童数 男子10名 女子8名

昭和44年 大宮小学校に統合


    とある



手入れをされてるのは、やはり卒業生の方だろうか



校庭のタイヤ


廃校から半世紀になるが

遊具も定期的に塗装をかけ当時のままの姿でいる


校庭からの風景


近くの小高い場所にある神社からの清爪の集落と小学校


かつては多くの人々が住んでいた山々の集落の学校が廃校になり、住む人の数もここまで減ってしまった。




「過疎化」だからねぇ~~、とそこで思考停止してしまってはいけない。




確かに多岐にわたる原因があり問題は複雑ではあるが、




これらの現象は、早い話が戦後からの「国内食料自給率」の低下が原因なのである。


そしてその「国内食料自給率」の低下の原因は何かというと




「敗戦」である




しかしその「敗戦」という言葉も、「第二次世界大戦」「太平洋戦争」等の戦後に作られた言葉の中では確かに適当な言葉かもしれないが「大東亜戦争」という本来の、あの戦争の呼称、そしてその本来の「目的」からすれば全く持って相応しくない言葉になってしまうのである。




戦後の現代を生きる日本人は、本来の、本当の日本の歴史の中に生きていない。

戦争とは「宣戦布告」で始まり「講和」を持って終結するもので、その講和があんな内容だったから仕方のない部分はあるが、いい加減気付こうぜ。

未だに真珠湾攻撃が卑怯なだまし討ちと思っているのは、当の日本人ぐらいのもんだぜ!

「日本国憲法」なんて、あれは戦後GHQが作った憲法なんだぜ。

憲法9条なんて、アメリカ人にとっては「え????日本人て未だにあれを真面目に受け止めて真剣に実行してるの???マジかよ・・・・・・」と、思っていると思うぜ!!!




早く日本人の日本の本来の本当の歴史を取り戻そう!!!


香北・永野小学校

2019-05-28 22:13:43 | 香北の学校

香北・永野小学校


2017/5/12(金) 午後 0:52


永野商店街



かつて美良布に山田高校美良布分校があった頃


だから当然、美良布商店街が賑わっていた頃


永野にも小学校があった

永野商店街は学校跡地の前の道



商店街時代の面影


ここで「肉まん」を売っていた可能性大


ガソリンスタンド跡地


現在、学校跡は


学校の卒業生も多い事だろう


学校の歴史



開校 明治 7年

閉校 昭和46年

学校跡地の北には




吉野ダム完成に伴い子供の適当な水泳場を失ったので校下父兄有志が相謀り前田千雄を会長に村首脳部を顧問として永野プール建設期成同盟会をつくり、工費80万円出夫八百人を以て永野校の北30mの位置に短水路プールを昭和28年10月に建設して県下でも稀な夏季体育施設が出来上がった。
《在所村史》より



現 香美市になる前の香北町、の前の

在所村時代の話である



学校がこの場所来たのは明治25年


永野氏神様の東方で医師谷内徳馬氏が寺子屋を開いていたが、明治5年学制の発布により小学校設置の議が高まり、氏神様の西方に学校を建て明治7年永野小学校と称して義務教育を始めた。

その後、梅之久保、次いで朴ノ木がこれに加わった。

昭和29年2月3日、不慮の火災で校舎校具全てを失ったそうだ。



因みに昭和3年当時、学校は赤いセメント屋根の山間部には珍しい近代的な建築だったそうな!!

香北町立谷相小学校

2019-05-28 22:12:38 | 香北の学校

香北町立谷相小学校

2015/9/24(木) 午後 11:07


場所はここ!!

http://maps.gsi.go.jp/#17/33.673533/133.795323

歴史 

こちらも前記の河野小学校と同じく1872年(明治5年)の尋常小学校から、100年以上の歴史を誇る。

河野小学校が1977年に廃校で105年の歴史。この谷相小学校が2002年休校(2005年)廃校で130年の歴史。

おそらくどちらも同じような時代背景の中で、設立から廃校への流があったのだろう。

河野小学校から小学校跡地へ向かう。

早速案内板が!!!


地元のあばちゃんに場所を教えてもらい、すぐに到着。随分と景色のいい場所だが、天気のいい日は少し上ののガードレールのとこから太平洋が見えるそうだ。


したが2005年11月に訪問された方の写真
随分と様子が変わって、地域のセンターが出来ている。


南側に像のオブジェ!そして西側の建物はまだ存在していた!




窓から中を写してみる。実は本当にここがそうか不安だったのだが、中の様子を見てここが小学校跡地と確信した!


下の道路から


廃校から10年、バス停の名称はまだ「小学校前」のまま!!


集落にある、レトロな風景!






帰り道、ここにも案内板が!!





香北町 河野小学校・再訪

2019-05-28 22:11:48 | 香北の学校

香北町 河野小学校・再訪


2016/9/3(土) 午後 1:17



一年前に訪問した河野小学校へ向かう。

「こうのうちはし」
新しく改装されている。


学校はもうすぐだ。


これは昭和19年ではなく、29年らしい。



そして、一年前、ここでは犬が吠えていたし、じいさんもいたし、農作業をしている人もいた。
屋根を塗り替えしたての家もあり、それがこの過疎化の最終段階に入ったこの地域の中でやけに頼もしく思えたのだが、、

既に無人の集落になっていた。


河野小学校は明治5年に開設。
廃校は昭和52年。
あれから一年、格子窓の傷みがすすんでいる。


その後、災害時避難場所になったらしい。





懐かしい木造校舎


格子窓


実は今後の訪問の目的はこの小さな図書室。

イメージ 10


昭和52年に廃校になったこの小学校の図書室に、もしかして昭和40年代、それ以前の教科書などはないかな??と。

で、、

あった。保存状態も良好。


昭和39年初盤。

これが何を意味するかというと、
1972年 日中国交樹立
1965年 日韓基本条約

それ以前に書かれた書籍という事だ。


1949年に建国した中華人民共和国との国交は、それまでの中華であった台湾との国交を断絶し、1972年に樹立された。

1948年に建国した大韓民国との国交は、竹島を不法占拠され、3929人の人質を取られ、多数の死傷者を出し、その人質を盾にめちゃくちゃな内容の日韓基本条約を呑む事によって樹立された。

例えば、牢屋の中にいる極悪犯罪朝鮮人を日本国内で放し飼いに汁ニダ!!