皇紀二千七百年党 代表 廣田晋一郎

皇紀二千七百年記念式典をやりませう。
そして国家百年の礎を築く皇紀二千八百年党へ。

大正・大正温泉

2019-07-16 12:50:45 | 大正の学校

大正・大正温泉

2017/9/13(水) 午後 7:03

かつては酷道、そしてヨサクと呼ばれたいた国道439号線


トンネルが開通して便利になったが、少し旧道に入ると


温泉発見


でもやっていいるのか!!



やってては欲しいが、、



やってるみたいだ


やりゆうろうか、ほんまに!!!


「やってるよ!!!!!」


こういう時のためにバイクに格納している「マイ温泉セット」を持ってきて、


入る


食事も出来るのだろうか?


ここで500円払う



まだ客はいないみたい


いい感じ、建物は古いがとにかく綺麗で整理整頓されている



カラオケ




脱衣所






シャンプー、ボディソープ完備


水風呂は、いやサウナが無いから、子供用かな。

でもサウナ無くても全く問題なし



ここでこんな温泉に入れる事が素晴らしい


ヌルヌル温泉なんだけど、出たらスベスベ!!!!!


しばらくすると、地元方だろうか、常連さんらしき二人組が来た!!




食事の準備していたから、聞いてみたら宿泊客の夕食で、食堂はやってないとの事。




うーん、別に腹減っていた訳ではないが、1000円超えてもいいから、なにか食べたかったぜ!!!


大正からの帰りの定番となりそうだ!!!

大正・打井川小学校

2019-07-16 12:49:43 | 大正の学校

大正・打井川小学校


2017/7/6(木) 午前 0:09



地理院地図1/25000「伊尾喜」昭和48年発行



打井川駅を過ぎ、地図にある「文」の場所に向かう。


そしてもしかて!まさか!でも、もしかして!と考えながら。

やはりそうだった!!



校門


大正町立打井川小学校




まさかホビー館が打井川小学校だったとは!!



学校の記念碑



ここでも先人達が学校のために一財産とも呼べる資産を寄付されている!!


  学校改革、児童数の推移



在りし日の打井川小学校



こんな想定外の斜め上の角度から素晴らしく期待を裏切ってくれた学校跡地は初めてだ!!!
(^^)/




周辺には打井川の美しい田園風景がある!!



この打井川小学校も開設は明治8年頃らしい。




そして下津井と中津川の小学校が巡回授業で中下小学校であった時代があったと同じように、下岡と打井川を一人の先生が受け持ち、巡回授業をしていた「下打小学校」であった時代もあったそうだ。




そして閉校は平成20年







が、しかし、この打井川小学校の歴史はまだまだ続いているのではないか、とさりげなくツッコミ(しかも独り言)を入れながら、そして更に、この歳になってまた新たに何かを悟ったかのような自覚症状を伴いながらホビー館を後にするのであった!!

大正・葛籠川小学校

2019-07-16 12:48:42 | 大正の学校

大正・葛籠川小学校

2017/7/12(水) 午後 2:18

学校の歴史

葛籠川教育場の始め、明治26、7年頃、葛籠川 平野森太郎氏宅居家の表六畳の間を借りて小学校の授業を始めた。生徒は15名程で、まるで寺子屋のようだった。

と、大正町史に記載がある。

昭和44年 田野ノ小学校に統合


最近新たにバイパスが作られ若干地形が変わっていたので少し迷ったが、地元の方に「そこの集会所だよ、下が校庭になっていた」と教えて貰った。






葛籠川集会所


下に降りると、まだ校庭の雰囲気は残っている


学校の階段


在りし日の葛籠川小学校





そしてその先にある湾曲した造りの一の又トンネルが気になってしまい


行ってみると



川沿いは、それ以上は道幅を拡幅出来ない地形で、トンネルはそれに合わせているだけっだったようだ。

昔、時々耳にした記憶のある「一の又温泉」


ここだったのか!!


でも、昔、自分がこの温泉の名前をよく耳にしていた頃は




ここは高知市内から簡単には来れる時代ではなかったのである。




葛籠川小学校の児童数の推移


(大正町史より)

大正・芳川小学校

2019-07-16 12:47:42 | 大正の学校

大正・芳川小学校

2017/7/12(水) 午後 2:59

学校の歴史

大正村の学校は、大体明治8年頃から各地に存在していたらしい

芳川村は「大喜庵」



それが大正8年頃にはこのような状態に


芳川の学校はまだ分教場だったようだ。


また「大正町史」には

芳川小学校は昭和3年、田野々尋常高等小学校の古家を芳川へ譲り受ける事となり、民総出で古家の道具を芳川まで運搬した。その校舎で昭和28年まで芳川の児童は授業を受けたのである。

と記されている。

そして昭和44年 田野々小学校に統合



現在は



学校があった雰囲気は残っている


在りし日の芳川小学校


学校前には天然のプールがある。


当時の方々にとっては、現代の児童、生徒の水難事故は、全く理解できない出来事のようだ。

地元の川や海で普通に泳いでいた方々にとっては、もはやプールさえ窮屈な場所なのかもしれない。




当時はこの芳川も多くの子供達で賑わっていた。




が、しかしそれは高知市内からここまで来るのに半日以上、もしくはそれ以上の時間が掛かっていた時代の話。







児童数の推移


(大正町史より)

大正・中津川小学校

2019-07-16 12:46:41 | 大正の学校

大正・中津川小学校

2017/7/4(火) 午後 11:21


大奈路から中津川に向かう


学校の場所は集会所の横


集会所に到着


学校の看板と校歌



学校の石碑


学校の為に土地を寄付してくれた方の石碑らしい


卒業生の卒業記念作品だろう


校門付近




校庭


校舎はなく、奥に学校の石碑が並べられている





裏には


中津川小学校 創立明治9年 130年の歴史

平成17年3月閉校 卒業生533名

と記されている

休校になったのは平成8年

創立120周年の記念碑にもなる


裏面には校歌が



昭和51年は創立100周年記念


その裏には学校の歴史が刻まれている


明治 9年 幡多郡第六学区田野々村組合巡回授業場の分場として設置 念仏堂(字牛ノダバ)をもって校舎にあてる

明治20年 明治19年の小学校令の発布により中津川簡易小学校と改称

明治25年 中津川巡回授業場と改め、西ノ川、大奈路、中津川を組み合わせ巡回授業

明治29年 中下尋常小学校と改称し、中津川、下津井を組み合わせ巡回授業


●中下尋常小学校の校舎(大正町史より)


明治30年 独立して中津川尋常小学校と改称

明治32年 念仏堂より西家屋(現在地)に校舎移転

明治38年 大奈路小学校中津川分教場となる

大正3年 校舎改築(校下民全額寄付)

大正8年 本校に昇格し中津川尋常小学校となる

昭和43年 校舎改築

平成 8年 休校・大奈路小学校に編入

平成17年 閉校





その隣にはまた学校に土地を寄付してくれた方の石碑がある


(元)大正町(現四万十町)ではこのような石碑を他にも見るが

寄付されているものは一財産に相当するものが殆どだ

そして石碑と同じ場所に学校の遊具も置かれている


中津川の北の「森が内」


トンネルを抜け檮原の松原まで5キロの距離だ


地理院地図「土佐松原」昭和41年度



当然、当時は木造平屋建て切妻の校舎だったはずだ

その後昭和43年に校舎が改築され、休校が平成8年、閉校が平成17年

120年の歴史の中で533名の卒業生を出しているのだから20~30名程の児童数の学校だった事だろう。

校舎の写真を撮るのに間に合わなかったのだ残念だ!!

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平成29年9月21日追記

中津川小学校の児童数の推移、改革


そして在りし日の中津川小学校



(大正町史より)