NO85への補足 立命館常任理事並びに関係各位へ
8月26日、橋川渉草津市長、情報理工学部の茨木移転「唐突で社会的・経済的に問題がありすぎる」と遺憾表明。続いて9月7日、滋賀県と草津市が、立命館に要望書を提出
2020年9月10日 元立命館総長理事室室長・ジャーナリスト 鈴木元
立命館は8月25日に、びわこ草津キャンパス(以下、BKCと記す)の情報理工学部と京都市衣笠キャンパス(以下、KIC)の映像学部を大阪茨木キャンパス(以下、OICと記す)に移転すると発表。それにたいしてマスコミ各紙の報道によると、草津市の橋川渉市長は8月26日「あまりにも唐突、情報理工学部の在学生2400名の内約半分の1200名が草津市周辺に下宿しており、下宿屋の経営を含めてあまりにも問題が大きすぎる」と遺憾の意思を表明した。そして「1200名を埋める新たな学部の設置などを求めざるを得ない」との趣旨の発言をしている。報道を見る限り立命館は草津市に対して事前の説明も、ましてやBKC開設時のように合意はしていないと推察される。BKC開設以来、立命館が言ってきた「地域に開かれた大学づくり、地域に愛され、地域と連携したキャンパス」の精神はどこに行ったのか。この言葉は現在、OICでのキャンパスづくりで盛んに言われているが、もともとのBKCで踏みにじっていては信用されない。
そもそもBKCはどうしてできたのか。KICに理工学部があった時代、科学技術の進展に伴い実験体制の拡充が必要であったが、当時大都市部の人口を抑制するとの政府の方針の下、京都市内では新学部の設置や容積率の拡大(つまり校舎の増築)が認められていなかった。それを打開するために当時の立命館は、大南正瑛総長を先頭に地域連携、地域貢献の精神で滋賀県並びに草津市と折衝し、校地の提供を受けるととも学生下宿を含めた街づくり、学術交流で協力・貢献する方策を追求した。その結果、滋賀県と草津市は80ヘクタールの土地代と造成費(併せて135億円)を負担して立命館を誘致した。それによつてBKCは1994年に発足し、理工学部の拡充を行うことができたのである。続いて1998年にKICの経済学部・経営学部がBKCに移転し文理融合キャンパスとして確立した。こうして草津市を中心に7000名を超える学生街ができ草津市・滋賀県の経済・文化振興の一翼を担ってきたのである。
そして10年たった2004年、草津市政発足50周年、BKC開設10周年を前にして、草津市と立命館大学は協力協定を締結した(立命館の署名者は当時の長田豊臣総長)。そして理工学部情報工学科を情報理工学部として新設した。こういう経緯を無視して滋賀県・草津市と事前相談もなく不要不急の情報理工学のOICへの移転などは、社会的混乱を起こすだけである。
先のNO85で記載した通りキヤンパス問題は衣笠キャンパスの狭隘克服が出発であった。その点でKICと本部のある朱雀と連携がとりやすい右京区山之内の元京都市の浄水場跡地の購入で、京都市と2009年の時点でほぼまとまっていた。にもかかわらず2010年、突然森島専務と志方管財部長が持ち込んだ大阪茨木のサッポロビール工場跡地の購入を強行したことが混乱の始まりである。予てから森島理事長が言っていた「茨木キャンパスの規模を10000名にする」と符合する、情報理工学部と映像学部の茨木に移転だが、それでは橋川渉草津市長が言うBKCの1200名に及ぶ下宿生の減はどうするのか。
9月8日付けのマスコミ報道によると、立命館の構想に対し、滋賀県(三日月大造知事)と草津市(橋川渉市長)は共同で立命館大学に対して「地域経済の影響を最小限にとどめるように、BKCでの学部の新設などを求める」要望書を9月7日に提出した。
その中で(草津市草津未来研究所 林裕史参事)「(移転の話は)唐突な話ではございました。立命館大学には地域経済の重要な役割を担っていただいています。できるだけ影響が少なくなるようにより良い方向に進めていきたい」と発言している。立命館大学は「学内でしっかりと検討していく」としている。
まさか森島理事長は「BKCに情報理工学部と同一規模の新学部の設置」を言うのではないのだろう。教学の必要性からキャンパスがあるのであって、キャンパスのために教学があるのではない。開設したOICに2015年、BKCの経営学部・経営学研究科(3700名)を移転させ大きな混乱を起こした。再び同じ混乱を起こすのか。これは立命館の社会的存在意義を極めて傷つける問題である。速やかに撤回し責任をとるべきであろう。
ところで常識的にみて不思議なのは、森島理事長と志方専務は、9ヘクタールを160億円かけてサッポロビールから購入したOICの活用のために、135億円出して校地を提供してくれた滋賀県と草津市をないがしろにし、借金を含めて学生下宿を提供していただいているBKCの地元住民を困難に陥れたり、KICの映像学部設置で協力してくれた松竹映画と京都府の便宜を踏みにじっていることである。OICは当時、学内の多くの反対を押し切って、土地はサッポロビールから購入し、校舎建設は竹中工務店に発注した。東京オリンピックまでは仕事が詰まっているゼネコンもそれ以降は仕事が大幅に減ると予測されている。今回のOICでの映像学部や情報理工学部の110億円の建設は森島理事長や志方専務と知り合いになっている竹中工務店などのゼネコンに発注するのではないか監視しなければならないだろう。
今、重要なことは文部科学省も指導し始めている対面授業の再開をなど「ハイブリッド型授業」の拡充、三密を回避した教室の改造・確保、学費減額・無償奨学金、全学生を対象としたPCR検査の実施などのコロナ対策である。その上に18歳人口の急減期の下での教育・研究の高度化を含めて大学の在り方が根本的に問われてるとき、少し腰を落ち着けて、学生も含めて広く立命人の意見を聴取して、大学の在り方を定めることである。移転文書で強調されている最新の情報技術システム(ICT)を活かせばキャンパスが離れていても情報理工学部と映像学部の共同研究・教育は可能であり、2学部の移転のために110億円もの多額の費用をかける必要はないだろう。この点で教学の最高責任者であり情報の専門家でもある仲谷総長ならびに学部長理事(常任理事)が全学的イニシアチブを発揮して進まれることを期待している。
鈴木元のプロフィールなどはNO85の本文末尾で紹介していますので省略します。
茨木キャンパスを巡る経緯ならびにサッポロビールや竹中工務店との疑惑については『立命館の再生を願って』『続・立命館の再生を願って』(いずれも風涛社)で詳しく叙述していますので参考にしてください。
8月26日、橋川渉草津市長、情報理工学部の茨木移転「唐突で社会的・経済的に問題がありすぎる」と遺憾表明。続いて9月7日、滋賀県と草津市が、立命館に要望書を提出
2020年9月10日 元立命館総長理事室室長・ジャーナリスト 鈴木元
立命館は8月25日に、びわこ草津キャンパス(以下、BKCと記す)の情報理工学部と京都市衣笠キャンパス(以下、KIC)の映像学部を大阪茨木キャンパス(以下、OICと記す)に移転すると発表。それにたいしてマスコミ各紙の報道によると、草津市の橋川渉市長は8月26日「あまりにも唐突、情報理工学部の在学生2400名の内約半分の1200名が草津市周辺に下宿しており、下宿屋の経営を含めてあまりにも問題が大きすぎる」と遺憾の意思を表明した。そして「1200名を埋める新たな学部の設置などを求めざるを得ない」との趣旨の発言をしている。報道を見る限り立命館は草津市に対して事前の説明も、ましてやBKC開設時のように合意はしていないと推察される。BKC開設以来、立命館が言ってきた「地域に開かれた大学づくり、地域に愛され、地域と連携したキャンパス」の精神はどこに行ったのか。この言葉は現在、OICでのキャンパスづくりで盛んに言われているが、もともとのBKCで踏みにじっていては信用されない。
そもそもBKCはどうしてできたのか。KICに理工学部があった時代、科学技術の進展に伴い実験体制の拡充が必要であったが、当時大都市部の人口を抑制するとの政府の方針の下、京都市内では新学部の設置や容積率の拡大(つまり校舎の増築)が認められていなかった。それを打開するために当時の立命館は、大南正瑛総長を先頭に地域連携、地域貢献の精神で滋賀県並びに草津市と折衝し、校地の提供を受けるととも学生下宿を含めた街づくり、学術交流で協力・貢献する方策を追求した。その結果、滋賀県と草津市は80ヘクタールの土地代と造成費(併せて135億円)を負担して立命館を誘致した。それによつてBKCは1994年に発足し、理工学部の拡充を行うことができたのである。続いて1998年にKICの経済学部・経営学部がBKCに移転し文理融合キャンパスとして確立した。こうして草津市を中心に7000名を超える学生街ができ草津市・滋賀県の経済・文化振興の一翼を担ってきたのである。
そして10年たった2004年、草津市政発足50周年、BKC開設10周年を前にして、草津市と立命館大学は協力協定を締結した(立命館の署名者は当時の長田豊臣総長)。そして理工学部情報工学科を情報理工学部として新設した。こういう経緯を無視して滋賀県・草津市と事前相談もなく不要不急の情報理工学のOICへの移転などは、社会的混乱を起こすだけである。
先のNO85で記載した通りキヤンパス問題は衣笠キャンパスの狭隘克服が出発であった。その点でKICと本部のある朱雀と連携がとりやすい右京区山之内の元京都市の浄水場跡地の購入で、京都市と2009年の時点でほぼまとまっていた。にもかかわらず2010年、突然森島専務と志方管財部長が持ち込んだ大阪茨木のサッポロビール工場跡地の購入を強行したことが混乱の始まりである。予てから森島理事長が言っていた「茨木キャンパスの規模を10000名にする」と符合する、情報理工学部と映像学部の茨木に移転だが、それでは橋川渉草津市長が言うBKCの1200名に及ぶ下宿生の減はどうするのか。
9月8日付けのマスコミ報道によると、立命館の構想に対し、滋賀県(三日月大造知事)と草津市(橋川渉市長)は共同で立命館大学に対して「地域経済の影響を最小限にとどめるように、BKCでの学部の新設などを求める」要望書を9月7日に提出した。
その中で(草津市草津未来研究所 林裕史参事)「(移転の話は)唐突な話ではございました。立命館大学には地域経済の重要な役割を担っていただいています。できるだけ影響が少なくなるようにより良い方向に進めていきたい」と発言している。立命館大学は「学内でしっかりと検討していく」としている。
まさか森島理事長は「BKCに情報理工学部と同一規模の新学部の設置」を言うのではないのだろう。教学の必要性からキャンパスがあるのであって、キャンパスのために教学があるのではない。開設したOICに2015年、BKCの経営学部・経営学研究科(3700名)を移転させ大きな混乱を起こした。再び同じ混乱を起こすのか。これは立命館の社会的存在意義を極めて傷つける問題である。速やかに撤回し責任をとるべきであろう。
ところで常識的にみて不思議なのは、森島理事長と志方専務は、9ヘクタールを160億円かけてサッポロビールから購入したOICの活用のために、135億円出して校地を提供してくれた滋賀県と草津市をないがしろにし、借金を含めて学生下宿を提供していただいているBKCの地元住民を困難に陥れたり、KICの映像学部設置で協力してくれた松竹映画と京都府の便宜を踏みにじっていることである。OICは当時、学内の多くの反対を押し切って、土地はサッポロビールから購入し、校舎建設は竹中工務店に発注した。東京オリンピックまでは仕事が詰まっているゼネコンもそれ以降は仕事が大幅に減ると予測されている。今回のOICでの映像学部や情報理工学部の110億円の建設は森島理事長や志方専務と知り合いになっている竹中工務店などのゼネコンに発注するのではないか監視しなければならないだろう。
今、重要なことは文部科学省も指導し始めている対面授業の再開をなど「ハイブリッド型授業」の拡充、三密を回避した教室の改造・確保、学費減額・無償奨学金、全学生を対象としたPCR検査の実施などのコロナ対策である。その上に18歳人口の急減期の下での教育・研究の高度化を含めて大学の在り方が根本的に問われてるとき、少し腰を落ち着けて、学生も含めて広く立命人の意見を聴取して、大学の在り方を定めることである。移転文書で強調されている最新の情報技術システム(ICT)を活かせばキャンパスが離れていても情報理工学部と映像学部の共同研究・教育は可能であり、2学部の移転のために110億円もの多額の費用をかける必要はないだろう。この点で教学の最高責任者であり情報の専門家でもある仲谷総長ならびに学部長理事(常任理事)が全学的イニシアチブを発揮して進まれることを期待している。
鈴木元のプロフィールなどはNO85の本文末尾で紹介していますので省略します。
茨木キャンパスを巡る経緯ならびにサッポロビールや竹中工務店との疑惑については『立命館の再生を願って』『続・立命館の再生を願って』(いずれも風涛社)で詳しく叙述していますので参考にしてください。