金沢観光名所の一つに忍者寺(妙立寺)があります。
ここを最初に忍者寺と紹介したのは、少年サンデーで、昭和38年頃の夏の事だと記憶しています。ただの古びたお寺さんだったのが、急に観光客が増え始めて、昭和40年代になると予約しないと拝観できなくなってしまいました。また、当初は一番上の展望台も見る事ができたのですが、昭和40年頃には展望台には昇れなくなってしまいました。
お寺さんのホームページには「犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し、城の防備とした」とありますが、金沢でよく言われる嘘の一つだと思います。考えても見てください。敵に攻め込まれて犀川を外堀に見立てて防備するという事は、犀川より南側、つまり寺側は放棄したという事です。そんなところに、寺院など残して敵方の宿泊施設としておく事など、考えられないでしょう。
ホームページには「犀川大橋以外には橋を架けることなく渡し船を用いた。これは、福井方面からの幕府軍勢の侵攻を想定したもので、金沢城が直接攻撃される以前に寺町台で迎え撃つとの計画に基づき、寺町寺院群に出城の役目を持たせたものといわれる」ともありますが、寺町台で迎え撃てるならもっと別の場所で迎え撃つでしょう。
忍者寺の近くには六斗の広見もあって、阿刀田高氏が「鍵型の道」と書いた狭くて複雑な道もあって、そこに兵を集めて迎え撃つのだと言われますが、戦争になって最初にする事は城下の焼き討ちです。
江戸時代、金沢の城下も大火で城まで焼けていますから、戦争になったときは敵味方双方が城下を焼いたり壊したりしますから、金沢の道が狭くて複雑なのは防備の為と言われますが、戦争にはまず役に立たないでしょう。
「前田家の祈願所として歴代藩主自らが参詣し、武運長久と庶民の安穏を祈願した。また一方では、万一の場合の出城として、その中心的役割を持たせたと言われる。そのため、建物全体が迷路状となり極めて複雑な構造を有し、今日では『忍者寺』の別称持つ」
ともありますが、藩主が参拝したとの記録は見つかっていません。お寺さんは非公式なので記録はないと言いますけど、藩主が参拝するという事は大変な事で、例えば六斗の広見には玉泉寺という二代藩主利長の正室の菩提寺か有ります。
下馬の広見と言われるところも近くには菩提寺である曹洞宗の天徳院があってその場所で藩主が下馬したから下馬の広見と言われているところです。
広見は藩主の菩提寺への共侍が待機したところとも言われます。
このように藩主が参拝するということは当時大変な事で、非公式にこっそり水戸黄門のように来たというのは? 水戸黄門の諸国漫遊記が嘘であるように、まず、考えられない事ですね。
昔、観覧できた展望台から、北国街道と鶴来街道を監視していたといいますが、正直あんな上から見ていて何が分かるでしょうか。今のスカイツリーの展望台のように、当時はあまり高い建物がなかったので、上から見るのは物珍しかったかと思います。
また、隠し階段や隠し部屋、とくに本堂を見下ろせる隠し部屋は下からは部屋だと思えない作りになっていて、ここで藩主や身分の高い人がこっそりと本尊を参拝したといいますが、藩主や身分の高い武士が参拝するなら町人なんか本堂に入れないでしょう。
では、どうしてこんなカラクリ寺を造ったのか分かりませんが、此処を見た女流作家が江戸時代のラブホテルですねと言ったそうです。
残念ながら、どなたが言ったのか金魚は覚えていないのですが、面白い見解です。
最後になりますが、妙立寺の悪口のつもりでこれは書いてませんので。
記録に無いと言うことは、お寺さんの言うとおりだったかも知れないし、そうでないかも知れないと言うことです。
お寺さんに面白い仕掛けがあるという事は事実ですので、貴方がまだ見ていないのなら、一度見て何の為に作ったのか考えてみて下さい。
古い建物ですから、いつまで観覧できるか分かりません。
観覧は予約制で、有料です。
なお「忍者寺」は本寺院の登録商標(日本第1977891号他)だそうです。
ここを最初に忍者寺と紹介したのは、少年サンデーで、昭和38年頃の夏の事だと記憶しています。ただの古びたお寺さんだったのが、急に観光客が増え始めて、昭和40年代になると予約しないと拝観できなくなってしまいました。また、当初は一番上の展望台も見る事ができたのですが、昭和40年頃には展望台には昇れなくなってしまいました。
お寺さんのホームページには「犀川と浅野川を自然の濠に見立て、両河川の外側に寺院群を移築し、城の防備とした」とありますが、金沢でよく言われる嘘の一つだと思います。考えても見てください。敵に攻め込まれて犀川を外堀に見立てて防備するという事は、犀川より南側、つまり寺側は放棄したという事です。そんなところに、寺院など残して敵方の宿泊施設としておく事など、考えられないでしょう。
ホームページには「犀川大橋以外には橋を架けることなく渡し船を用いた。これは、福井方面からの幕府軍勢の侵攻を想定したもので、金沢城が直接攻撃される以前に寺町台で迎え撃つとの計画に基づき、寺町寺院群に出城の役目を持たせたものといわれる」ともありますが、寺町台で迎え撃てるならもっと別の場所で迎え撃つでしょう。
忍者寺の近くには六斗の広見もあって、阿刀田高氏が「鍵型の道」と書いた狭くて複雑な道もあって、そこに兵を集めて迎え撃つのだと言われますが、戦争になって最初にする事は城下の焼き討ちです。
江戸時代、金沢の城下も大火で城まで焼けていますから、戦争になったときは敵味方双方が城下を焼いたり壊したりしますから、金沢の道が狭くて複雑なのは防備の為と言われますが、戦争にはまず役に立たないでしょう。
「前田家の祈願所として歴代藩主自らが参詣し、武運長久と庶民の安穏を祈願した。また一方では、万一の場合の出城として、その中心的役割を持たせたと言われる。そのため、建物全体が迷路状となり極めて複雑な構造を有し、今日では『忍者寺』の別称持つ」
ともありますが、藩主が参拝したとの記録は見つかっていません。お寺さんは非公式なので記録はないと言いますけど、藩主が参拝するという事は大変な事で、例えば六斗の広見には玉泉寺という二代藩主利長の正室の菩提寺か有ります。
下馬の広見と言われるところも近くには菩提寺である曹洞宗の天徳院があってその場所で藩主が下馬したから下馬の広見と言われているところです。
広見は藩主の菩提寺への共侍が待機したところとも言われます。
このように藩主が参拝するということは当時大変な事で、非公式にこっそり水戸黄門のように来たというのは? 水戸黄門の諸国漫遊記が嘘であるように、まず、考えられない事ですね。
昔、観覧できた展望台から、北国街道と鶴来街道を監視していたといいますが、正直あんな上から見ていて何が分かるでしょうか。今のスカイツリーの展望台のように、当時はあまり高い建物がなかったので、上から見るのは物珍しかったかと思います。
また、隠し階段や隠し部屋、とくに本堂を見下ろせる隠し部屋は下からは部屋だと思えない作りになっていて、ここで藩主や身分の高い人がこっそりと本尊を参拝したといいますが、藩主や身分の高い武士が参拝するなら町人なんか本堂に入れないでしょう。
では、どうしてこんなカラクリ寺を造ったのか分かりませんが、此処を見た女流作家が江戸時代のラブホテルですねと言ったそうです。
残念ながら、どなたが言ったのか金魚は覚えていないのですが、面白い見解です。
最後になりますが、妙立寺の悪口のつもりでこれは書いてませんので。
記録に無いと言うことは、お寺さんの言うとおりだったかも知れないし、そうでないかも知れないと言うことです。
お寺さんに面白い仕掛けがあるという事は事実ですので、貴方がまだ見ていないのなら、一度見て何の為に作ったのか考えてみて下さい。
古い建物ですから、いつまで観覧できるか分かりません。
観覧は予約制で、有料です。
なお「忍者寺」は本寺院の登録商標(日本第1977891号他)だそうです。