背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その21)~「浮世絵類考」(4)

2014年05月08日 08時21分32秒 | 写楽論
 さて、天保4年(1833年)、「浮世絵類考」の大増補版が出来ます。浮世絵師・渓斎英泉(1790~1848)が大和絵と錦絵の変遷といった概説を書いて巻頭に置き、新たに浮世絵師(合計86名)を加えて本文を大幅に増補し、本の題名も「无名翁随筆」と変えて、上下二巻本を完成させます。无名翁(むめいおう=無名翁)とは英泉の別号です。これが「続浮世絵類考」とも呼ばれるものです。この本は、現在、良い写本が見当たらず、国立国会図書館蔵の「燕石十種」に収録されたものがあるだけだそうです。(「燕石十種」は、江戸時代末期に日本橋の古本屋・達磨屋五一の養子・活東子(本名岩本佐七)が父の協力を得て、江戸期の随筆の珍書奇書を編纂した10巻の全集)
「无名翁随筆」は、「浮世絵類考」の原型がほとんど小さく埋もれてしまったような本です。ざっと目を通しましたが、巻頭に英泉が長々と「大和絵師浮世絵考」という概説と、もう一つ、こっちは短いですけど、「吾妻錦絵之考」という概説を書いて、やっと絵師の項目別紹介が始まるので、正直、読んでいてうんざりしました。
 英泉はめったに役者絵を描かなかったということですが、彼は明らかに、役者絵を見下げています。概説の中で、「近頃俳優の面を似せ画き、女児の弄(び)ものとなせしより一端の興画、大和絵師の永く汚名の基となる嘆(わ)しきかな。今俳優の似画、戯場の繁盛に随(い)て浮世絵師の名、是より汚れ、愚俗の為に廃せられしは彼党の罪ならずや」と書いています。
 写楽のところは、「五代目白猿 幸四郎(後京十郎と改) 半四郎 菊之丞 富十郎 広次 助五郎 鬼治 仲蔵の類を半身に畫たるを出せし也」と付け加えていますが、歌舞伎嫌いを標榜している英泉が、なぜ9人も役者名を並べたのか不思議です。役者絵の得意なほかの絵師には、役者名があっても、一人か二人です。それと英泉は、写楽の絵を自分の目で見て、描かれた役者も覚えていたんでしょうか。きっと、役者絵に詳しい年寄りに聞いたのだと思います。英泉が生まれたのは寛政2年(1790年)で、写楽の絵が出回った時は、5歳かそこらだったわけで、この本を書き上げた天保4年(1833年)は写楽登場から三十数年後です。役者も多分全員死んでいます。

 美術評論家の瀬木慎一が、天保期(天保末から弘化の初め)に写楽が再評価され、彼の役者絵は再版された可能性があると言っています。つまり、写楽の絵は異版が多く、その理由として天保期に再版されたという説でした。この時期に再版されたということは疑問ですが、写楽が再評価されてきたということはあり得ます。写楽が消え、歌麿が死んで、浮世絵界は豊国とその一派が支配するわけですが、1825年に総帥の豊国が死んだあと、絵師仲間や業界で、忘れられていた写楽がまた注目されてきた。豊国の絵はうまくて、俗受けはするけど、何か足りない。しかも、歌川派の粗製濫造です。写楽の絵を見たことのある浮世絵のプロは、写楽の絵にインパクトを感じて、少なからず影響を受けていたはずです。豊国の絵も国政や国貞(三代目豊国)の絵も写楽の真似をしていることをプロは見破っていたと思います。英泉は、そうした写楽再認識の気運を肌で感じて、写楽のところに何か補足を書かなければならないと思った。が、何も知らないから困って、描かれた役者の名前だけ、だらだらと書いた。この補記の書き方には問題がありますが、英泉が補記を書く必要性を感じて、二行にわたって長々と書き加えたことには意味があります。

 それにしてもずいぶん役者を並べたものです。
 まず、五代目白猿というのは、五代目団十郎。写楽が描いた時は名跡を息子(六代目団十郎)に譲って蝦蔵と名乗っていました。一度引退して、六代目が早世するとまた復帰して、俳号の白猿を芸名に使いました。だから、五代目(後白猿)とすべきです。それとも当時は、後世まで名の轟いた五代目のことを五代目白猿と呼んでいたのでしょうか。英泉がこれを書いた頃は、七代目団十郎が息子に団十郎の名を継がせた直後です。そして、七代目団十郎が最後の名として白猿(二代目)を名乗るのはずっと後年のことです。
 幸四郎(のち京十郎と改名)は、四代目幸四郎のことですが、英泉の時代は、五代目幸四郎(鼻高幸四郎で、写楽が似顔絵を描いた頃は三代目市川高麗蔵)の晩年です。
次に続く半四郎は四代目、菊之丞は三代目ですが、この二人は何代目と言わなくても、江戸中期の代表する女形なので、問題ありません。
 しかし、以下の5人の役者名が問題です。写楽が描いた役者を挙げていると思われますが、富十郎は初代中村富十郎のはずで、二代目富十郎が登場するのはずっと後年なので該当しません。初代中村富十郎(1719~86)は写楽が絵を描いた寛永6年(1794年)には故人で、写楽が彼の半身像を描いたというのはおかしいわけです。写楽の二枚組の追善絵(いわゆる死絵)に二代目門之助を描いたものがあり、右側の絵の方に描かれた女形(全身像です)は富十郎にちがいないと写楽研究家の吉田暎二が主張してから、その説が一般化しているようですが、本当は疑問符がつきます。


写楽 間判(寛政6年11月)
*左下の女形が、富十郎だとされていますが、中村野塩、小佐川常世という説もあります。

 英泉が書いたこの富十郎というのは、宗十郎あるいは富三郎(中山と瀬川の二人います)の間違いなのではないか、と私は思っています。
 広次は三代目大谷広次(1746~1802)、助五郎は二代目中村助五郎(1745~1806)のはずですが、現存する写楽の絵では広次の絵が二点ありますが半身像は見当たらず、また助五郎を描いた絵は、版下絵(1枚あります)を除いて、1枚もありません。
 鬼治(鬼次が正しく、本来は広次の前名)は、写楽が描いたあの有名な大首絵「江戸兵衛」の鬼次で三代目大谷鬼次(1761~96)です。この役者については、今度詳しく調べてみたいと思うですが、写楽が「江戸兵衛」を描いた当時(寛政6年5月)、鬼次は、34歳(数え)。その頃悪役として大変人気があったらしく、同じ「恋女房染分手綱」で、江戸兵衛のほかにもう一役、大敵(おおがたき)の鷲塚官太夫を演じています。寛政6年11月に彼は、名人と謳われた中村仲蔵を襲名し、二代目仲蔵を名乗りますが、襲名後間もなく死んでいます。没年は寛政8年(1796年)、享年36歳です。英泉の補記にある、「鬼治 仲蔵」は、「鬼次(後に仲蔵)」と書くべきところだったと思われます。この仲蔵は、落語にも出て来る名人の初代仲蔵(1736~1790)ではないはずです。
 英泉の補記は、このように非常にいい加減で、「~の類(たぐい)」という言葉もひっかかるし、実際写楽の絵を見て、役者を確かめて名前を書いたのではないことが分かります。
 長々と書きましたが、江戸時代中期の歌舞伎役者をいろいろ調べていて、面白いことを発見したので、それを次回に書いてみたいと思います。



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