背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

写楽論(その22)~東洲と魚楽

2014年05月09日 04時41分25秒 | 写楽論
 広次、鬼次という二人の役者を調べていると、こんなことが分かりました。
(参考書:津田類「江戸の役者たち」、国立劇場調査記録課編「歌舞伎俳優名跡便覧」)

 広次と鬼次は、大谷一門で、元祖は大谷広右衛門(1666~1721)である。
 広右衛門は江戸歌舞伎の敵役の開祖と呼ばれた。
 大谷広次(初代1696~1747)は、広右衛門の実子で、修業に励み、後年、二代団十郎、宗十郎、彦三郎と並び、立役四天王と称されるほどの実力派の人気役者になった。その弟子が大谷鬼次(初代)で、師の広次の死後、二代目を継ぐ。この二代目広次(1717~57)が鬼次時代に使っていた俳名は、東洲である(広次になってからの俳名は十町)。

 ここで私は、えっと思いました。東洲斎写楽の東洲と同じではないか!

 写楽が描いた大谷広次(1746~1802)は、三代目。でっぷりとして凄味のある敵役である。彼は二代目広次の弟子になり、春次と名乗り、次に二代目鬼次になり、宝暦3年(1753)に広次を継ぐ。俳名は本州(鬼次時代)、十町(広次時代)。屋号は丸屋、定紋は○に十。
 三代目広次の代で、大谷一門の襲名系統、春次→鬼次→広次(→広右衛門)が成立する。
 
写楽「三代目大谷広次の奴土佐又平」と「三代目大谷鬼次の川島治部五郎」
*広次と鬼次は、師弟関係にあります。

 写楽が描いた大谷鬼次(1761~1796)は、三代目広次の弟子で、子役時代は永助といい、春次(二代目)を名乗って、天明7年(1787)11月、27歳の時に鬼次(三代目)を継ぐ。そして、俳名を初代鬼次と同じく、東洲とする。
 ここでまた私は驚いたわけです。鬼次は、写楽が活躍を開始した頃、俳名が東洲だった!

 鬼次は、敵役で人気を博した役者である。天明8年正月の中村座の役者一覧では、敵役の部に鬼次の名があり、「此度より師匠の旧名鬼次と改名」とある。


写楽「鬼次の江戸兵衛」(部分図) 

 写楽が描いた傑作「江戸兵衛」によって、鬼次は永遠不滅の人物になったと言えるでしょう。
この絵を見ても分かるように、師匠の広次とはタイプが違い、シャープでいかにも個性的な憎まれ役にふさわしい顔付きです。
 鬼次は、中村座で活躍した後、河原崎座へ移る。これは中村座が寛政5年、経営破綻で休座したからで、中村座の控櫓は都座だが、鬼次は河原崎座へ招かれたのだろう。寛永5年から6年にかけ、敵役として、その人気はピークにあったと思う。30代半ば、実力がめきめき付いてきたにちがいない。寛政6年(1794)正月、河原崎座の曽我狂言では鬼王を演じている。豊国が描いたその時の舞台絵(三枚組の劇場図)では、二代目門之助の曽我十郎と岩井半四郎の月小夜を相手に熱演している。当時の歌舞伎の舞台と客席の様子がよく分かるので、掲載しておきます。


豊国 寛永6年正月の河原崎座


上の図の部分拡大図。鬼次、半四郎、門之助
 
 鬼次は、普通なら師匠の名を継ぎ、四代目広次となるところだが、この路線を外れ、なんと稀代の名優中村仲蔵(1736~1790)の名跡を継ぐ。寛永6年11月の顔見世興行から、二代目仲蔵を名乗る。これは異例なことで、実力と人気がなければ襲名できないと言える。屋号は栄屋、俳名も秀鶴と改める。
 しかし、二年後の寛永8年、36歳で死去。


写楽「二代目仲蔵の百姓つち蔵実は惟高親王」
*写楽が第三期に発表した鬼次改め二代目仲蔵の大首絵(間判)。

 写楽の第三期の10点の大首絵には、すべて屋号と俳名が書いてあるのですが、5人の役者に誤字があり、これは写楽研究者も理解に苦しむところです。江戸時代のこの頃の漢字表記はかなりいい加減で、一部ひらがなにしたり、読みが同じ違う漢字を代用したりすることがあるのですが、写楽の大首絵は、間違い方が尋常ではないようです。仲蔵も屋号は写楽の絵にある「堺屋」ではなく「栄屋」が正しいとのことです。ほかに、納子(訥子)、路孝(路考)、天王子屋(天王寺屋)、橘屋(立花屋)。( )内が正しい字です。
 なぜ、写楽は大首絵にわざわざ屋号と俳名を書いたのか(第1期の大首絵にはありません)、それも不思議ですが、これほど漢字を間違えるのは、歌舞伎を知らない絵師が描いたとしか思えないわけです。第3期の大首絵は、人物の描き方が平板で立体感がなく、緊張感も迫力もなく、第1期の大首絵の傑作群と比べて、数段劣るとしか思えません。これは、専門家だけでなく、ほとんどすべての人が絵を見て、感じることです。落款も、東洲斎写楽ではなく、すべて写楽になっていますが、第1期の絵を描いた写楽とは、別人が描いたのではないかという説があります。その説は私ももっともだと思います。第1期の東洲斎写楽を初代として、第2期あるいは第3期以降、二代目写楽が描いたとしたほうが良いのはないか、というのが現在の私の考えです。

 それはともかく、写楽は、鬼次と二代目仲蔵を6点(二人像を含め、版下絵を除く)も描いています。大判2点、細判3点、間判1点です。6点以上描いた役者は、八百蔵10点、宗十郎9点、中山富三郎9点、高麗蔵8点、菊之丞7点、半四郎7点、鰕蔵6点です。広次は3点です。
東洲斎写楽と、俳名を東洲という鬼次との間には、なにか深いつながりがあったのではないか、と勘ぐりたくなります。

 それと、もう一つ、助五郎という役者を調べていて、気がついたことがあります。初代も二代目も、俳名が魚楽というのです。魚楽と写楽、なんだか似ているなあと思って、初代中村助五郎(1711~1763)を調べてみると、彼は二代目大谷広次と名コンビだったことが分かりました。「助・広次」とか、俳名を呼んで「魚楽・十町」と、並び称されていたそうです。どちらも敵役が得意な個性的な役者だったらしく、寛延2年(1749)の曽我狂言で、助五郎が股野五郎、広次が河津三郎に扮して、舞台で相撲をとって以来、二人とも有名になったとのことです。後年、式亭三馬は、二人を浅草寺の仁王にたとえたそうです。
そこで、二代目助五郎(1745~1806)なのですが、前回書いたように英泉が写楽の描いた役者名に挙げているのに、写楽の絵が現存していない。吉田暎二が助五郎だとしている版下絵(彦三郎、喜代太郎との3人像)が1点あるだけです。英泉は、多分年寄りから広次と助五郎は名コンビだったと話を聞いて、写楽の絵も時代も確かめもせずに、助五郎の名前も入れてしまったのではないか。一応私はそう考えてみたのですが、どうも納得がいかない。だいたいこの二代目助五郎という役者が今のところよく分からないのです。


勝川春童 二代目助五郎(部分図)

 二代目助五郎は、初代の子で、ずっと助次を名乗っていたが、宝暦13年(1763)11月、森田座で二代目助五郎を継ぐ。先代の父の死後だった。屋号は仙石屋、俳名は魚楽。男ぶりが良く、敵役を得意とした。それからの経緯が分からず、寛政10年、中村座の頭取(兼敵役)になる。享和3年(1803)、養子に3代目を継がせ、引退。文化3年(1806)、62歳で死去。

 写楽と俳名が魚楽の二代目助五郎も、何か関係があるような気がしますが、おいおい調べていきたいと思っています。



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