背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

『生ける人形』(その1)

2012年08月02日 05時23分14秒 | 日本映画
 『生ける人形』(1929年4月公開 白黒サイレント 8巻 日活太秦撮影所)は、フィルムが現存しない“幻の名作”の一本である。原作は新進気鋭の片岡鉄兵が朝日新聞に連載した現代小説で、監督は若き日の内田吐夢。いわゆる傾向映画(左翼的な傾向のある映画)のはしりと呼ばれる社会派ドラマであった。脚色は俊才小林正(まさし)、撮影は松澤又男が受け持った。当時日活京都で吐夢とコンビを組んでいた二人である。
 
 ストーリーはこうだ。
 田舎の院外団にいた瀬木大助は、野心を抱いて上京し、先輩の青原代議士の紹介で丸ビルにある繁本興信所という会社に勤める。主な業務は、政界や実業界の醜聞を調査し、ゆすりに近い手口で金を巻き上げることだった。瀬木はそこでタイピストの美しい細川弘子と知り合い、また昔の恋人の梨枝子とヨリを戻しながら、一発大仕事を狙っていた。ある日、某銀行の青原代議士への不正献金を探り当て、繁本社長や黒幕のX伯爵の協力を得て銀行の乗っ取りを企てる。が、途中で彼らに裏切られ、うまい汁だけ吸われて、弊履のごとく捨てられるのだった。

 配役は、主役の瀬木大助に小杉勇、相手役の細川弘子に入江たか子。ほかに築地浪子(梨枝子)、高木永二(青原代議士)、三桝豊(繁本社長)、対馬ルイ子、村田宏寿。
 小杉勇も入江たか子も『生ける人形』で演技者として認められ、高い評価を得る。とくに小杉勇の演じた瀬木大助という役は、従来の映画の主役には類のない独特な個性だった。現代劇の男の主役といえば、都会的でモダンなインテリ風の二枚目青年か、またはスポーツマンタイプのたくましい若者が普通であった。が、小杉の役は、田舎から東京に出てきた野心的な男で、仕事に対しても女性に対しても挑戦的で自信満々、目的のためには手段を選ばず、悪事にも手を染める非情の人物であった。入江たか子の役は、断髪洋装のモダンガール、都会派の新しい職業婦人(今で言うキャリアウーマン)であった。
 
 片岡鉄兵の小説「生ける人形」は、同時に劇化され、1929年(昭和4年)4月に新築地劇団によって築地小劇場で、さらに帝劇で上演され、好評を博したという。映画『生ける人形』の公開もほぼ同時期であった。
 当時この映画を絶賛した映画評論家に飯島正がいる。
 「映画春秋」(1929年7月号)誌上の映画評で飯島は、『生ける人形』が最近の日本映画では「とびぬけて立派なもの」であり、「本当に現代生活にふさわしい素材と思想をもったはじめての映画である」と書いた。そして、「形式をあくまで内容に即したものとして駆使した」内田吐夢の手腕を称え、映画の随所に見られる「外国ものの模倣といわれかねないあたらしい技法」を、題材に即した表現手法であるがゆえに、「観客がそれに気づかないくらい」に使いこなしていると評価した。
 
 飯島の指摘する「あたらしい技法」とは、具体的にどのようなものであったか? この映画を観られない今となっては、知るよしもないが、恐らくそれは、キャメラアングルや構図の奇抜さだったのではないかと思われる。
 『生ける人形』のスチール写真の中に、天井から俯瞰した構図のものがある。床一面に広げた新聞紙が何枚も敷いてあり、そこに、頭を抱えて悶えるように横たわっている小杉勇と、笑顔を向けて勝ち誇ったように突っ立っている入江たか子が写っている。なんとも奇抜な構図で、見方を変えれば、壁に貼った新聞に、小杉勇と入江たか子の二人の現代人がまるで標本のごとくピンで留められているようにも見える。無論、スチール写真は宣伝用に別撮りしたものなので、実際に映画の中でそうした場面が使われたかどうかは分からないが、監督内田吐夢の実験的な表現手法の一端をうかがうことができると思う。



 もう一枚、小杉勇と入江たか子が腕を組んでビルの谷間を散歩している場面を捉えたスチール写真がある。こちらはローアングルの構図で、コートの下から露出した入江たか子の長くて生々しい右脚がすぐに目に留まる写真である。が、よく見ると、背景にあるビルの輪郭が変で、入江たか子の左側(向かって右側)にあるビルが傾いている。遠近法で描いたビルの絵を書割に使ったのであろう。このビル街は東京丸の内という設定であるが、映画製作の現場は京都の日活太秦撮影所だった。現代の大都会東京を舞台にしたモダニズム映画を京都で撮影するという製作条件は、大きな制約であった。出演者やスタッフを連れて東京ロケを敢行することも無理だったとすれば、セット撮影に頼らざるをえない。内田吐夢は、そうした制約を逆手にとって、セットやキャメラアングルに工夫を凝らし、『生ける人形』というタイトル通り、人形芝居のように象徴的なセットを使い、戯画的でデフォルメされた撮影手法を試みたのではないかと思う。



 飯島正はさらに続けて、『生ける人形』のテーマについて、「いままでの日本映画にはかつて見られないところのものであった」と言い、この映画のように「ハッキリした暴露的テエマをもったものは、日本映画はもちろん外国映画にも(ソヴェトはのぞく)見いだしえないところであろう」とまで言っている。飯島の論評は、漠然としていて具体的な内容がつかめないが、映画『生ける人形』を観て、感服した様子だけはありありと伝わってくる。(つづく)




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