震災後の建物の安全性を判定する「応急危険度判定士」の更新講習がありました。2年前の新潟中越地震の時に、本県から初めての判定士の出動があり、私も第1陣の20人のうちの一人として参加しました。山梨県では現在1,429人の判定士がいるそうで、県では1,500人を目標にしているとのこと。更新は5年ごとですが、今日も県立文学館の講堂にほぼ満席に近い人が受講していました。しかし、2年前の時もそうでしたが、いざと言う時に果たしてこの中のどれだけの人が出動に応じるでしょうか。天災ですから予告もなく突然やってきます。仕事はもちろん、その他の予定が入っていれば簡単に被災地に赴くことはできません。毎年、“情報伝達訓練”というのをやっていて、私は末端の連絡員をしています。4人の判定士に出動できるかどうか連絡をするのですが、新潟の時も皆つれない返事でした。私は上部の人に、「人が足りないようでしたら行きます」と返事をしたのですが、おそらく間違いなく出てくれということになるだろうと思いました。何の報酬もなく、危険な所へ行くのですから、自ら進んでという人は少ないのではと思います。
ところで、講習が終わりロビーに出ると、なつかしい人から声を掛けられました。新潟に一緒に行った大月市のKさんです。Kさんは70才になる歳ですが、数少ない自発組の一人です。新潟で3日間同じ釜の飯を食べた仲で、どう言う訳か私のことを気に入ってくれて、親しくしてくれました。『仕事はヒマだけど、世の中にこのくらいの恩返ししかできないから』と言って今回も更新を受けたそうです。
ご参考までに、新潟中越地震の時の報告はこちらを
ところで、講習が終わりロビーに出ると、なつかしい人から声を掛けられました。新潟に一緒に行った大月市のKさんです。Kさんは70才になる歳ですが、数少ない自発組の一人です。新潟で3日間同じ釜の飯を食べた仲で、どう言う訳か私のことを気に入ってくれて、親しくしてくれました。『仕事はヒマだけど、世の中にこのくらいの恩返ししかできないから』と言って今回も更新を受けたそうです。
ご参考までに、新潟中越地震の時の報告はこちらを
過日某市に建築確認申請をしたのですが、今朝、市の教育委員会から電話があり、確認が出されている場所は埋蔵文化財発掘の届け出が必要な地域に該当するとのこと。届け出用紙を受取りに行く旨を伝え、さっそく教育委員会に出向きました。行くと電話をくれた人は出掛けていたのですが、私宛に封筒に入れた用紙が用意してありました。それを受取り事務所に戻り、用紙に書込み、添付図面も揃えました。暫くすると郵便物の配達があり、それを見てびっくり。何と教育委員会から届け出用紙一式が送られてきたのです。まぁ内部の連絡不足と言えばそれまでですが、私が朝方急いで行ったのは全くの無駄だった訳です。事務所から比較的近い所でしたから、それほどの時間のロスもありませんでしたが、これがもし、遠い役所だったらどうでしょう。もう少し緻密にお仕事をして頂きたいと思います。
実は今回の物件の場合どうしても納得できない部分があります。建築確認を出した現場はつい2週間前に開発行為(分譲地の造成)の検査を受けたばかりの所です。当然造成工事の時にも今回と同じ埋蔵文化財の発掘調査をしているのです。その同じ場所で何で2度も同じことをしなければならないのでしょうか。今回建築するのは木造住宅で、基礎も現在の地盤から40cm程度しか掘りません。造成の時のほうが境界のコンクリート壁や道路側溝等のために深く掘っているはずです。教育委員会の言い分は“造成と建築は別もの”という見解ですが、土をいじることには何ら変わりはありません。私に言わせれば、書類の用紙の件にしろ、発掘にしろ余計な仕事を自分達で作っているようにしか思えません。
実は今回の物件の場合どうしても納得できない部分があります。建築確認を出した現場はつい2週間前に開発行為(分譲地の造成)の検査を受けたばかりの所です。当然造成工事の時にも今回と同じ埋蔵文化財の発掘調査をしているのです。その同じ場所で何で2度も同じことをしなければならないのでしょうか。今回建築するのは木造住宅で、基礎も現在の地盤から40cm程度しか掘りません。造成の時のほうが境界のコンクリート壁や道路側溝等のために深く掘っているはずです。教育委員会の言い分は“造成と建築は別もの”という見解ですが、土をいじることには何ら変わりはありません。私に言わせれば、書類の用紙の件にしろ、発掘にしろ余計な仕事を自分達で作っているようにしか思えません。
4日・5日と、当事務所の年に1度の福利厚生事業である小旅行に行って来ました。昨年はカミさんの体調がすぐれず、どこへも行けなかったので、2年振りです。何せ所長1人で何から何までやっている事務所なので、先の予定などつきません。今回もこの日しかないと3日前に急に、インターネットで宿を申込んだ始末です。家族もどこへ行きたいといった希望も言えないまま、3日間待つといった有り様です。出発の日も朝1番で現場を見に行った後、講習会の申込みをして来て、11時過ぎに出発しました。地図を用意してあったのですが、慌てて出たので忘れてしまいました。
昼食は北杜市高根町のそばやさんで食べました。ここは明治時代に建てられた医院の建物を利用しています。看板もそのまま残っています。
ホテルへはチェックインぴったりの3時に到着。夕食までたっぷり時間があるので、ひと風呂浴びて、ゆっくりしました。ここは8月15日に湖上祭があって賑わうのですが、それまでも毎晩15分位花火が打ち上げられます。言わばミニ湖上祭です。ホテルの10階の部屋から手にとるように花火が見られました。
翌日は湖畔にある「原田泰治美術館」で原田さんの絵を久し振りに鑑賞しました。
この二日間は甲府は37℃を超える猛暑だったのですが、暑い甲府を逃げて多少鋭気を養う事が出来ました。
昼食は北杜市高根町のそばやさんで食べました。ここは明治時代に建てられた医院の建物を利用しています。看板もそのまま残っています。
ホテルへはチェックインぴったりの3時に到着。夕食までたっぷり時間があるので、ひと風呂浴びて、ゆっくりしました。ここは8月15日に湖上祭があって賑わうのですが、それまでも毎晩15分位花火が打ち上げられます。言わばミニ湖上祭です。ホテルの10階の部屋から手にとるように花火が見られました。
翌日は湖畔にある「原田泰治美術館」で原田さんの絵を久し振りに鑑賞しました。
この二日間は甲府は37℃を超える猛暑だったのですが、暑い甲府を逃げて多少鋭気を養う事が出来ました。