嵐山石造物調査会

嵐山町と近隣地域の石造物・道・文化財

陳情書 埼玉県史蹟杉山城址を比企の行楽地に 1953年

2009年01月08日 | 七郷地区

   陳情書
 杉山城址は比企郡七郷村字杉山にありまして東上線武蔵嵐山驛の西北約二粁徒歩行程約三十分のところ川越児玉間の県道に近く標高九〇米の丘陵上二萬三千余坪の地域に土壘、空湟、歴然として儼存し、戦国時代山城の築城形式を完全に今日に遺すものとして学問上の價値を認められ昭和二十一年四月(1946)県の史蹟として指定されました。更に昨年度に於て施設費の一部を県より交附せられ村及地元有志の協力により示標・傍示標・説明碑其の他県の指示による施設を致したのであります
 當城址に関する史實を学問上明確ならしむべき権威ある史料はいまだ遺憾ながら発見せられて居りませんが近郷の私人宅に襲蔵せる系譜古記録や当所積善寺椽起或は当地に存する口碑、傳説、地名等によりおぼろげながら推定するところによりますと、その起源は遠く奈良時代に比企十郎重成の居城たり平安時代には將門記にある武蔵介経基の比企郡狭服山の城に擬する説一部にあり更にこれに関する傳説はふるくより当地に存し治承の頃小高隼人貞次というものゝ居城たりしことは古記録に見え積善寺椽起にも比企小高両氏の名が記されて居ります。 又他には金子十郎家忠の築城説もあり戦国時代に入りて杉山主水(松山城上田闇独斉の家臣)の居城説があります。惟うに当城の位置は西南市野川を隔てゝ鎌倉街道を瞰下する形勝要害の地を占め、松山、菅谷、鉢形、各城の間にあり、小規模ながら古来各時代に於て重要なる一據点たりしことは想像に難くありません。從って■其の主を替えながら時代相應の改修整備が施され今日に遺存せられたものでありましょう。
 今は城址は殆んど雑木林に蔽われ木丸阯に金刀比羅祠を祀り又傳説のある井戸阯がるのみでありますが、その眺望は極めてよろしく婦人児童にても容易に登ることが出来ます。
 又附近にかの徳川時代の狂歌師として有名な元の杢阿弥の生家があり城址東方四百米のところには薬師堂があってその天井には元の杢阿弥の雄渾なる筆による八方睨の竜もあります。又城址の東南につゞく丘陵上には十三塚と呼ばれる処があり其の下の溪間には三十三枚田の奇景もあります。改修工事の成った市野川がこの丘陵の裾を洗うところは或はすみれ咲くなだらかな野原がひらけ、或は河幅廣く流れゆるやかに魚族を追うに適するところもあり、或は数十米の断崖の下急端に或は深渊の景色も又捨てられません。これは一日のコースとして平凡のようですが、地形は変化に富み森林原野田園河原等の景趣豊かに史蹟の探究、動植物の採集、或は家族づれの静かな一日の行楽地としてはまことに好適の地であると思われます。
 今回松山町を中心とする比企観光地区設定の挙あると承りまして是非当杉山城址をもこれに包含せしむるよう御配慮を懇願いたす次第であるます。
  昭和二十八年十月一日
               比企郡七郷村長   杉田政之助
          埼玉県史蹟杉山城址保存会々長 初雁不二彦


最新の画像もっと見る

コメントを投稿