菅谷(すがや)神社参道の杉の木立の間に石碑が二つ並んでいる。
左にある石碑の上部には、四行八字の篆書(てんしょ)で「神聴無響霊監無象」とあり、「神ノ響無キヲ聴キ(かみのひびきなきをきき)霊ノ象無キヲ監ル(たまのかたちなきをみる)」と読める。神は人に乗り移っての託宣(たくせん)を、霊は夢枕(ゆめまくら)に立つことを言うのだろうか。下側には、「悠々(ゆうゆう)タル我(わ)ガ皇紀(こうき)二千六百年。聖徳(せいとく)ハ八紘(はっこう)ヲ掩(おお)ヒ国光(こっこう)は普(あまね)ク照(てら)シ、宜(よろ)シク新東亜(しんとうあ)建設スベシ。其(そ)ノ基礎ハ愈々(いよいよ)堅(かた)ク、伊勢講同人崇敬(すうけい)シ以(もっ)テ相(あい)連(つらな)リテ、橿原(かしはら)神宮ヲ拝(はい)シ大廟(たいびょう)ヲ謁(えつ)シ虔(けん)ヲ致(いた)シ、国土平康(へいこう)ヲ祈(いの)リ豊穣(ほうじょう)肥鮮(ひせん)ヲ願ヒ、武運(ぶうん)長久(ちょうきゅう)ヲ希(こいねが)ヒ家内(かない)安全ヲ望ミ、菅谷神社ニ会(かい)シ禊事(けいじ)ヲ脩(しゅう)シ、神前ノ壌(つち)ニ接スル壱反歩(いったんぶ)併(ならび)ニ壱百円ヲ献(けん)ジ、杉ヲ植ヱ神木(しんぼく)ト為(な)シ、文(ふみ)ヲ作リ石ニ刻(きざ)ミ伝(つた)フ。/皇紀(こうき)二千六百年四月三日 小柳通義撰文(せんぶん)併書[花押(かおう)]/菅谷村伊勢講同人(どうじん)之(これ)ヲ建ツ」とある。裏面には講元山岸徳太郎、世話人8名、伊勢講同人30名の名前が刻まれている。この碑文の作書者小柳通義(おやなぎつうぎ)は儒学者(じゅがくしゃ)で、二松学舎の創設者三島中洲(みしまちゅうしゅう)の門下、また菅谷館跡の畠山重忠像の建主であり、像の傍(かたわら)の碑文「重忠公冠題百字碑文」の作者でもある。
その右にある石碑は皇紀(こうき)二千六百年紀念事業寄付者芳名(ほうめい)で、菅谷村伊勢講同人33名が九四五円と土地一反歩(三〇〇坪)を寄付していることがわかる。これらの石碑が立てられた1940年(昭和15)は、(皇紀)紀元二千六百年奉祝(ほうしゅく)の年であり、この人達も伊勢神宮と橿原神宮(かしはらじんぐう)を参拝した筈である。当時、鉄道省は両神宮参拝のセット割引乗車券を発行しており、橿原神宮正月三箇日(さんがにち)の参拝者は125万人で前年の20倍であったという。
1937年(昭和12)に始まった日中全面戦争は長引き、国民生活は悪化し、東京オリンピックや万国博(ばんこくはく)は中止の止むなきに至った。その為にも紀元二千六百年祭は年頭より盛大に行われた。橿原神宮を中心に諸行事が行われ、極め付けは政府主催の紀元二千六百年式典で11月10日より14日まで宮城前広場で実施された。それらは「万世一系(ばんせいいっけい)・東亜安定・世界平和」をうたいあげたものだった。
因(ちな)みに皇紀とは、日本の建国神話に初代天皇として登場する神武(じんむ)天皇が、日向(ひゅうが)から東進し大和(やまと)地方を平定の後、大和の橿原(かしはら)の宮で即位したとされる年を皇紀元年と定めた紀元である。古代から中国には千二百六十年毎の辛酉(しんゆう)の年には大革命が起きるという辛酉革命説がある。聖徳太子(しょうとくたいし)が推古天皇の摂政(せっしょう)であった西暦601年(干支(えと)では辛酉(かのととり))の千二百六十年前の辛酉年に大革命があったなら、それは神武天皇の即位であるとして、政府は1872年(明治5)、皇紀元年は西暦紀元前660年と決定した。翌年、神武天皇即位の日(紀元節)は太陽暦で2月11日、崩御(ほうぎょ)の日(神武天皇祭)は4月3日であるとされ、それぞれ祝日となった。また橿原神宮(かしはらじんぐう)は1890年(明治23)に創建された神社である。
博物誌だより121(嵐山町広報2004年8月)から作成
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