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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その52 南スーダン

2016-07-03 21:33:01 | 日記

南スーダンは、64万平方キロメートル(日本の約1.7倍)、1,191万人(2014年)、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国です。

かつてはイギリスの植民地でしたが、イギリス連邦(コモンウェルス、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合)にはスーダンと同様加盟していません。

IMFの推計によると、2013年の南スーダンのGDPは140億ドルで、一人当たりのGDPは1,289ドルであり、ケニアとほぼ同額、エチオピアよりずっと多いのですが、その98%は石油によるものであり、実際の庶民の生活は決して裕福では無いのだそうです。

南スーダンは2011年に独立した世界で最も新しい国です。しかし計40年以上に及ぶ内戦の影響で、日本の約1.7倍の広さがある国土全域で開発がほとんどなされておらず、保健、教育、水供給などの基本的な社会サービスや、電力、道路などの基礎的なインフラが決定的に不足しているのだそうです。

国民の大半が農業に従事し、肥沃な土地にも恵まれ、高い農業の潜在力を有しているのだそうですが、長引いた紛争により国土は荒れ果て、現在は農産物を輸入するのみならず、人口の約1/4に相当する200から300万人もの人が食糧援助に依存しています。

世界で5歳未満で命を失う子どもの数は年間600万人以上。その約半数がアフリカに集中しているのですが、それを象徴する地域だといいます。

2014年、米国のワシントンD.C.に拠点を置くNGOの平和基金会が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となったそうです。

首都はジュバで、2014年12月より陸上自衛隊の施設部隊等が約350名程派遣され、国連施設内外で敷地造成等の国内避難民の支援活動や、道路整備等の活動を行っています。

宗教については、アニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占めます。

北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的です。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもあるようです。

南スーダンは周辺諸国と比較しても例外的にムスリムの人口比率が極めて低いのだそうです。

各民族は敵対関係にあるものも多く、特に東部のジョングレイ州では複数の民族が土地をめぐって武力衝突を起こしています。また、スーダンの内戦時に流出した武器が出まわっており、多数の死者、負傷者、難民が発生しているのだそうです。

外務省の出している海外安全ホームページでは、首都ジュバ市を除く南スーダン全土がレベル4(退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告))、首都ジュバ市がレベル3(渡航は止めてください。(渡航中止勧告)(既に滞在中の方は、不測の事態に備え、退避を含め危険回避を真剣に心がけてください。))となっており、治安悪化によりとても危険な状況です。

そんな状況下で、JICAやジャパンプラットフォーム(JPF)等のNGO、そして自衛隊が連携しながら支援を行っています。

南スーダンの紛争の歴史は、1899年英国とエジプトによる北部及び南部スーダンの共同統治の開始まで遡ります。

19世紀末におけるイギリス(大英帝国)によるアフリカ分割は1882年のエジプト占領から始まり、ついでその後背地を押さえるため、内陸部(=スーダン)にも介入するという形で進みました。

1955年には南部スーダンの自治や独立を求め,第一次スーダン内戦が勃発します。

1956年には南部を含むスーダンが英国から独立するのですが、南部の分離独立を求める運動が拡大していきます。1972年南部スーダンに南部政府を設置し,部分的自治権を付与した「アディスアベバ和平合意」が締結された9年後、1983年アディスアベバ和平合意が反故にされ,第二次スーダン内戦勃発、2005年の南北包括和平合意(CPA)の締結まで,アフリカで最長の内戦となりました。

1974年にアメリカ合衆国に本社を置く国際石油資本のシェブロンがスーダンで油田を発見し、その多くが南部に分布していたのも第二次スーダン内戦の一因だったと言われています。

この内戦では約二百五十万人の南部住人が殺され、数百万人が居住地を追われました。中でも突然の襲撃で村から逃げ出した、約二万人の子どもたちが、ケニアやエチオピアの難民キャンプまでサバイバルの旅をしたのだそうです。

2005年南北包括和平合意(CPA)署名により停戦、国連の南スーダン・ミッション(UNMIS)が設立され、2011年1月の南部独立の住民投票を経て2011年7月南スーダン共和国として独立します。

長年の内戦も終結し、南スーダン共和国として独立したのもつかの間、2013年12月,首都ジュバにおいて,大統領警護隊同士の衝突を契機とし,与党スーダン人民解放運動(SPLM)内の派閥抗争(キール大統領派対マシャール前副大統領派)が激化します。

その後各地で民族間の紛争、政府内の権力闘争が国内情勢を混乱させ,多くの難民が発生し、最悪の人権危機と言われました。

その後、当事者間の対話を通じた問題解決を目指し,IGAD仲介による和平協議が実施され,2015年8月,政府間開発機構(IGAD)及び関係諸国等による調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が,関係当事者によって署名されました。

合意の履行が進展しているようなのですが、治安状況はまだまだ良くなっていないのだといいます。

南スーダンの独立運動からその後の混乱は、直接は宗教、民族間の対立が発端だったのでしょうが、その裏にはかつて南部の黒人達がアラブ系やダルフール(スーダン西部の地域)及びバハル・アル・ガザール(南スーダン北西部)などの奴隷商人によって奴隷売買されていたこと、イギリス帝国の植民地支配、そして国際石油資本のシェブロンによる油田の発見等々が折り重なっているのでしょう。

油田の発見したシェブロンの技師たちは、自分達の行為がアフリカで最長の内戦の一因になるとは思ってもいなかったのだと思います。むしろ、最貧国の人々の経済状況を改善できると思っていたのかも知れません。

それは、日本にとっても他人事ではなく、チリのアジェンデ政権の崩壊の折には日本の商社の活動も影響を与えていたのだとも言われています。

人々を助ける、それはとても難しいことです。

カンボジア内戦の折、タイのカンボジア難民が暮らすキャンプでは、ポル・ポト派の兵士が休息に来て、また戦闘に出て行くこともあったようです。難民キャンプで支援していたNGOの人の中には、「私は、この紛争を長引かせているだけではないか。」と思い悩む人も居たようです。

でも、休息に来ていたポル・ポト派の兵士の中には、今、カンボジアの発展に貢献している人も居るのだと思います。

「何百万人が飢えているアフリカでは、武器は手に入るが食料が手に入らないのです。この地域こそ本当の援助を必要としているのに、何百万ドルもの資金が武器の購入に消費されている。これは悲しむべきことだ。」

ダライ・ラマ14世の言葉だそうです。

シリアの人々の状況は、南スーダンやその他のアフリカの紛争国程ではないのかも知れませんが、南スーダン同様、人権危機が叫ばれているのは確かです。

紛争が終結し、武器の購入に消費されている資金の一部でも人々に行き渡れば、シリア難民の状況は良くなって行く、そう思いたいのです。

パルミラの遺跡に見られるように、シリアは太古の昔から豊かな国だったのですから。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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