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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その43 キプロス

2016-02-27 15:17:02 | 日記

キプロスは、面積が9,251平方キロメートル(四国の約半分)、人口は約86.2万人(2011年末時点・南部のキプロス共和国)の小国です。

地中海性気候で、夏は暑く、乾燥しますが、南部のオリンポス山は標高が1951mで、冬は雪も降り、スキーができるのだそうです。

小さな島国ですが、見所満載の観光地です。

9000年に及ぶ長い歴史を誇る、首都レフコシア(ニコシア)。

美しい自然に包まれた、標高1951メートルのオリンパス山を頂点に抱き、その山間には、小さな村や素朴な修道院が点在する、トロードス山。

青い海と白く輝く砂浜のコントラストが美しいリゾートのアギア・ナパ。

そして、ギリシャ神話の愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)伝説発祥の地でかつての首都のパフォスは、貴重な世界遺産が眠る地としても有名です。

最西端アカマス半島ポリス近くにあるアフロディーテの泉はアフロディーテが入浴に使ったという伝説があり、ここで顔を洗うと美しくなるといわれています。

キプロス島は、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島です。

南部のキプロス共和国はトルコの南の東地中海上に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家、首都はニコシア。EU加盟国、イギリス連邦加盟国でもあります。

キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領でありません。

1974年のトルコ軍による軍事侵攻以降,キプロスは南部のキプロス共和国実効支配地域と北部のトルコ軍実効支配地域とに分かれており,島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めています。

一方の南部のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしています。

南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。観光業については、ヨーロッパからの観光地として人気があります。

2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日のユーロの導入により、観光客の増加しているようです。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われています。

金融業については、タックスヘイブンとして有名だった時期もあり、欧州でも金融活動が盛んな地域となっています。ロシアへの投資の際には、キプロスに作った会社を経由して行うケースなど、投資拠点として栄えています。そのせいか、会計士や弁護士などの人材も多いのだそうです。

ただ、ギリシャ債務危機の折にはキプロスの金融・財務も危機的な状況となり、EU及びIMFから約60億ユーロ(7200億円)強の支援を受けました。

一方、北キプロスは、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかありません。

国際的にはトルコにのみ独立を承認された国家であるために貿易や外国からの資本導入が難しく、また通貨もユーロではなくトルコのリラを用いるため、1990年代にトルコリラのインフレーションに深刻な悪影響を受けた結果、きわめて苦しい状況が続いています。

経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したのだそうです。

 

キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古く、有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けました。

アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、その後支配者がエジプト王朝、ペルシアのアケメネス朝、エジプトのプトレマイオス朝、ローマ帝国と変遷した後、1191年に十字軍の途上にこの島に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によって征服されキプロス王国が建国されたのですが、1489年に相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国の支配下に入りました。

その後、オスマン・ヴェネツィア戦争 の結果、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州を置きました。

エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスは一方的にキプロスを併合したのです。

イギリスは1882年以来、キプロスの植民地化に着手しており、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行なったため、ギリシャ系の人々はギリシャと、トルコ系の人々はトルコとの同化を求めていました。

第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による抗イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立し、翌1961年、イギリス連邦加盟します。

しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断されてしまいました。

南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていません。

ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していましたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系のギリシャ正教徒が南キプロスに、トルコ系のムスリム(スンニ派)が北キプロスに住むようになりました。

 

キプロスではトルコが軍事介入するまで、両者が混在して住んでいました。

南北に分断の遠因はイギリスがギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行ったことにあるのだと思います。

過酷な植民地支配、その時々の大国の都合による統治、その影響が現在でも様々な国で起こっている紛争の遠因になっているのです。

現在の紛争に至るまで、長い時が経過していますので、民族・宗教・宗派が違う人たちが仲良く暮らすようになるには、長い時が必要かも知れません。

民族・宗教・宗派が違う人たちが仲良く暮らしていた時代はどの地域でも有りました。

中東の紛争も同じだと思います。大国の都合による一時的な解決が、新たな紛争の火種となってはいけないのだと思います。

恒久的な平和は存在しないのだと思います。

1年でも2年でも長く平和が続くためには、民族・宗教・宗派が違う人たちが、心の中に持つわだかまりを少しでも少なくする紛争解決の方法が必要なのでしょう。

難民の子供達が大人になり、家族を持ち子供ができて、その子供達が大人になるまで平穏な日々が続けば、

紛争の事を目の前の出来事ではなく、歴史として学ぶことができるような時代がいつか来る。

そう信じたいと思います。

 

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その42 東チィモール

2016-02-14 21:44:31 | 日記

東チィモールは、面積が約1万4,900平方キロメートル(東京、神奈川、千葉、埼玉の合計面積とほぼ同じ)、人口は121.2万人(2014年)、インドネシアとオーストラリアの間に位置する小国です。2002年5月にインドネシアから独立しました。

住民はメラネシア人が大部分です。宗教はキリスト教の信徒が殆どで、アジアではフィリピンと並びキリスト教信仰が盛んな国です。

島国であり国土はチィモール島の東半分(西半分はインドネシア)といくつかの島で構成されています。因みに、チィモールはマレー語・インドネシア語で「東」を意味するそうです。

治安の問題もあり、観光地としてはまだまだなのですが、アタウロ島・ジャコ島など手付かずの美しいビーチもあります。また、首都ディリの郊外の丘の上にあるキリスト像は世界第2の大きさで、そこから見る海岸線はとても美しいのだそうです。

GDPの殆どは、石油・天然ガスによる収入です。それ以外の主要産業は農業で、米やトウモロコシ、コーヒー豆などが生産されています。

2009年3月にはグスマン首相が日本を訪問し、日本の麻生太郎首相との間で「日本と東ティモールとの間の共同プレスステートメント」を発表、その中で日本は無償資金援助を東ティモールに対して行い、東ティモールの円滑なASEAN加盟を支援する事を表明しました。

 

ポルトガルの植民地になるはるか昔、紀元前2000年ごろパプア系語族が島の東部へ移住していき、ずっと時代が下って紀元10世紀ごろオーストロネシア語族が流入してきた、と伝えられています。また、紀元前3000年ごろと同2000年頃の二度に渡って、インド=マレー系エスニックグループが移住してきたとの説もあります

チィモール島は16世紀にポルトガルの植民地化された後、1859年に西チィモールがオランダに割譲されます。1911年から翌年に掛けて、ポルトガルの厳しい殖民地支配に耐えかねて反乱が起こり、3000人を超す死者と12000人を超す負傷者を出しました。

ポルトガル領時代は、アンゴラやモザンビーク等の植民地同様、工業化がまったく進まず、自給自足的な貧困状態でした。

ポルトガルが中立を守った第二次世界大戦時には、当初はオランダ軍とオーストラリア軍が保護占領していました。

日本軍のこの地域への侵攻に伴い、オランダ領東インド地域と合わせて日本軍が占領したのですが、日本の敗戦によりオーストラリア軍の進駐を経てポルトガル総督府の支配が復活し、1949年にインドネシアの一部として西ティモールの独立が確定した後もポルトガルによる支配が継続しました。

 

1974年にポルトガルで左派を中心とした革命が起こり、植民地支配の維持を主張していた保守独裁体制が崩壊すると、東チィモールでも独立への動きが加速します。

しかしながら、1975年11月にはインドネシア軍が東チィモールを制圧し、インドネシアに併合されてしまいます。

国連ではインドネシアの即時撤退を求める決議が採択されたのですが、1976年には、インドネシアが27番目の州として併合宣言を行いました。

日本を含む西側の有力諸国はインドネシアとの関係を重視し、併合を事実上容認しました。

東チィモールの人々は抵抗するのですが、インドネシア軍は激しい弾圧を加えます。1980年代までに多くの人々が殺戮や飢餓により命を失い、その数は20万人に上ると言われています。

1998年に民主化運動によりスハルト政権が崩壊すると、インドネシアは旧宗主国のポルトガルと東チィモールに対し特別自治権の付与を問う住民投票を実施すること合意します。

1999年8月に行われた住民投票の結果は自治権拒否であり、事実上独立が決定されたのですが、インドネシア治安当局は、東チィモールに非常事態宣言を発令し軍隊を増員し、インドネシア併合維持派の民兵組織を使って破壊と殺戮を行ったのです。

1999年9月インドネシアが、国連平和維持軍の受け入れを容認し、オーストラリア軍を主力とする多国籍軍が派遣されました。その結果暴力行為は収束したのですが、多くの難民が西チィモールに逃れたり、連れ去られたりしたそうです。

2002年5月に独立した後、国連は国際連合東チィモール支援団(UNMISET)を設立、日本の自衛隊もPKOとして派遣されました。

しかしながら、2006年4月に混乱が生じます。西部出身の軍人約600人が東部出身者との間で差別があるとし、ストライキを起こしたのが発端でした。この背景には東部住民と西部住民間の軋轢と、若者の失業率の高さがあるようです。

この一連の独立に至る記録が、2013年にユネスコ記録遺産に登録されました。

 

ユネスコ記録遺産に登録された理由。

それは、混乱の中で日本を含む西側の有力諸国が各国の都合で見て見ぬ振りをした、

そのことにあるのだと思います。

また、独立後の東チィモールの紛争は宗教・宗派・民族とは関係ないものでした。

植民地支配から続く貧困、それが泥沼のような状況を作り出したのだと思います。

シリアでも、ISの問題もさることながら、有力諸国の都合で停戦が中々成立せず、難民は増える一方です。

シリア内戦も、ユネスコ記録遺産に登録されるのかも知れません。

でも、いつかはシリアの地にも平穏な日々か訪れ、子供たちにも笑顔が戻る日が来るのだと思います。

あのカンボジアでさえも、今は子供達に笑顔が戻っているのですから。

 

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その41 タジキスタン

2016-02-04 22:11:34 | 日記

タジキスタンは、面積が約14万3,100平方キロメートル(日本の約40%)、人口は840万人(2014年)、中央アジアの小国です。タジク・ソビエト社会主義共和国としてソ連の一員でしたが、1991年12月のソ連解体にともなって独立を果たしました。

中央アジアの定義は様々です。大まかに言って、東は中国、西はカスピ海、南はイラン・パキスタン・インド、北はロシアに囲まれた地域を指します。

中央アジアの国々は北アジアのモンゴル高原から中央アジア・イラン高原・アゼルバイジャン・カフカス・キプチャク草原・アナトリアを経て東ヨーロッパのバルカンまでを活動領域としてきた遊牧民の国々です。シルクロード交易で繁栄していました。

広義には東トルキスタンと西トルキスタンに分かれます。

東トルキスタンは中華人民共和国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンは旧ソ連のの支配下に在った、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、キルギス(クルグズスタン)、そしてタジキスタン、さらにアフガニスタンが含まれます。

北のカザフスタンから時計周りに、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンとなります。

因みに「イスタン」とは国を表す言葉だそうで、タジキスタンはタジク人の国という意味です。

東トルキスタンは、18世紀なかばに清により征服され、その支配下に入りました。

西トルキスタンの内、アフガニスタンを除く各国はロシア帝国の支配を経て、ソ連の傘下に組み込まれました。

 

タジキスタンの国土のほとんどは山岳地帯で、国土の半数が標高3000m以上であり、中国との国境に至る東部は7000m級に達するパミール高原の一部です。ただ、首都のドゥシャンベの標高は700~800mほどとそれほど高くありません。

独立後すぐの1992年、タジキスタン共産党系の政府とイスラム系野党反政府勢力との間でタジキスタン内戦が起こりましたが、1997年に内戦は終結しました。

内戦のために、旧ソ連諸国の中では最貧国となってしまいました。ロシア・カザフスタンへの出稼ぎ労働者も多かったのですが、両国の景気後退の影響を受け、出稼ぎ労働者からの送金も減少しています。

それでも、日本を含む各国の手厚い支援や国連活動によって、近年は7%前後のGDP成長率を維持しています。

綿花栽培を中心とする農業と、牧畜が主要産業ですが、繊維産業も比較的発達しているようです。

 

そんなタジキスタンにある日本人の慰霊碑があります。秋野 豊という人の慰霊碑です。

第二次世界大戦中の英ソ関係を研究し、北海道大学助手から、在モスクワ日本大使館専門調査員を務めた後、1986年から筑波大学で助教授として教鞭をとっていました。

単なる研究者ではなく、人懐こい性格を生かしてどんな人間の懐にも飛び込み、身の危険を冒しても現地で情報を集めていたそうです。

そんな彼は1998年、筑波大学を辞職し外務省に入省、国連タジキスタン監視団に参加します。

そして、同年7月20日、ドゥシャンベ東方の山岳地帯を走行中、武装集団による襲撃に遭い、同乗者とともに射殺されました。

ドシャンベの国連監視団の同僚たちは彼を心から慕い、悼んでいたそうです。

日本にとっても大きな損失でした。だからこそ、2015年10月24日、同国訪問中の安倍晋三首相が慰霊碑に献花したのだと思います。

 

トルコの軍艦が沈没した時、乗り組み員を救助した和歌山の漁民たち、

命のビザを発給し6千人のユダヤ人の命を救った杉原千畝、

日本の戦時統治下でブルネイ県知事を勤め、軍部の反対を抑え、多くのインフラ設備をして後のブルネイを経済発展させた木村強。

イギリスの海上封鎖の中、イランにタンカーを送った出光興産の出光佐三社長。

そして、秋野豊、NPOやJICAの人々等々。

日本という国は、そんな人々が築き上げた日本人への信頼という遺産の上で、繁栄出来ているのだと思います。

将来の日本に、その遺産が引き継げれば良いのですが。

出来れば、その遺産がもっと増えていきますように。

 

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