カンボジア王国は東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家で、国王は建国の父シアヌーク元国王の息子ノロドム・シハモニ国王です。1970年に旧カンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生しました。
面積18万km2人口15百万人程の小国です。面積的にはシリア程、人口は長い内戦の中で減少しました。シリアも内戦で人口が減少しているそうですから、国の規模としてはシリアに近いかと思います。
西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接し、国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)です。上座部仏教が国教ですが、信教の自由は保障されています。人口の殆どが上座部仏教の信徒ですが、ムスリム教徒も4%ほど住んでいます。
内戦時代は悲惨な状況だったのですが、現在は安定しアンコール・ワット等の遺跡群もあり観光客にも人気の国です。アンコール・ワットに近いシェムリアップはタイのカオサンの様に長期滞在の若者も多いと言います。
国が安定し治安も良くなったということなのでしょう。
カンボジアの料理はタイ料理やミャンマー料理に似ていると思うのですが、タイ料理ほど辛くなく、ミャンマー料理よりあっさりしている印象です。物価も安いですから、長期滞在向きかと思います。
ただ、暑い国ですから日中歩いての観光は控えた方が良いかもしれません。
少し、歴史の話をします。歴史は苦手という方も多いと思いますが、お付き合いください。
カンボジアの歴史は、タイとベトナムというこの地域の強国との軋轢、フランス・日本・アメリカ・中国・ロシア(ソ連)という大国の干渉で翻弄され続けたものでした。
9世紀前半に始まったクメール王朝時代には、東南アジアの強国だったのですが、1431年タイ(シャム)のアユタヤ王朝に敗北してからは、隣国のタイ・ベトナムという両大国に挟まれ、タイ(シャム)やベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱が続きました。
1863年にはフランスの保護国となりましたが、この保護国化は、隣国タイやベトナムの圧力に堪りかねたカンボジア側からフランスに要請された側面もあるようです。1941年シアヌークが王位に就き、 1945年3月日本軍の侵攻に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言するのですが、日本が連合国に降伏すると、1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまいます。
しかし、シアヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、1949年にフランス連合内での独立を獲得した。1953年には警察権・軍事権を回復し、シハヌークはフランス、アメリカ、タイを回って世界世論に訴えかけ同年11月に完全独立を果しました。
その後、ベトナム戦争中の1970年3月に親米のロン・ノルがクーデターを決行します。ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、カンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺しました。また、ホーチミン・ルートを粉砕するため、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させ、さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させました。
これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃からわずか一年半の間に200万の国内難民が発生したそうです。
クーデター後、シハヌークは中国(北京)へ脱出し、カンボジア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけました。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」でした。
ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となったのですが、1973年3月アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失い、1975年4月にはクメール・ルージュが勝利します。
でも、本当の悲劇はここから始まったのです。
クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった極端な原始共産制社会への回帰政策を実行しました。旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派、反乱の疑いのあるものは政治犯収容所などに収容され虐殺されました。
1975年~1979年のポル・ポト時代の4年間は、中国の毛沢東主義を奉じた極端な政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで100万人を超えるともいわれる大量の死者を出したそうです。
中国の文化大革命をピュアな形で実現しようとし、文化大革命時の中国よりも悲惨な状況になってしまったのです、
クメールルージュはベトナムと対立します。クメールルージュの後ろ盾は中国、ベトナムはソ連との関係を強化しており、中ソの代理紛争とも言える対立でした。
1978年元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンはベトナム軍とともに、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻しました。
その後、内戦はさらに泥沼化して行ったのですが、1990年6月東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催され、続く1991年10月、カンボジア和平パリ協定が開催され、20年に及ぶカンボジア内戦が終結しました。
カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成されています。
1992年3月より、明石氏が事務総長を務める国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和を維持する活動を始め、1992年9月自衛隊が国際平和協力法に基づいて国際連合平和維持活動の一環として、カンボジアへ派遣されました。
それから10数年、人気の観光地として復興すると共に、日本企業の進出先としても注目されています。
国が安定し治安も良くなるまでは、決して平坦な道ではなかったのだと思います。内戦を戦った各勢力が、そしてカンボジアの人々が、心から望んで実現した平和であり、関係した国々がサポートして実現した平和なのだと思います。
クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられたり、虐殺されたりしました。
クメール・ルージュの少年・少女兵士が知識人を銃殺することも有ったようです。
そんな状況が今のシリアやイラクで起こっている事と似ている気がします。
長い内戦の後、国が安定し治安も良くなり、カンボジア子供たちにも笑顔が戻ったようです。状況が異なるので、シリアやイラクがカンボジアと同じ様な決着が図られるのか判りませんが、内戦終結の為のヒントの一つになるようも思えるのですが。
いつか、シリアやイラクでもカンボジアのように内戦終結が終結し、国が安定し、治安も良くなり、子供たちに笑顔が戻りますように。
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