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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その20 カンボジア

2015-07-29 11:43:53 | 日記

カンボジア王国は東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家で、国王は建国の父シアヌーク元国王の息子ノロドム・シハモニ国王です。1970年に旧カンボジア王国が倒れてから勃発したカンボジア内戦を経て、1993年に誕生しました。

面積18万km2人口15百万人程の小国です。面積的にはシリア程、人口は長い内戦の中で減少しました。シリアも内戦で人口が減少しているそうですから、国の規模としてはシリアに近いかと思います。

西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接し、国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)です。上座部仏教が国教ですが、信教の自由は保障されています。人口の殆どが上座部仏教の信徒ですが、ムスリム教徒も4%ほど住んでいます。

内戦時代は悲惨な状況だったのですが、現在は安定しアンコール・ワット等の遺跡群もあり観光客にも人気の国です。アンコール・ワットに近いシェムリアップはタイのカオサンの様に長期滞在の若者も多いと言います。

国が安定し治安も良くなったということなのでしょう。

カンボジアの料理はタイ料理やミャンマー料理に似ていると思うのですが、タイ料理ほど辛くなく、ミャンマー料理よりあっさりしている印象です。物価も安いですから、長期滞在向きかと思います。

ただ、暑い国ですから日中歩いての観光は控えた方が良いかもしれません。

 

少し、歴史の話をします。歴史は苦手という方も多いと思いますが、お付き合いください。

カンボジアの歴史は、タイとベトナムというこの地域の強国との軋轢、フランス・日本・アメリカ・中国・ロシア(ソ連)という大国の干渉で翻弄され続けたものでした。

9世紀前半に始まったクメール王朝時代には、東南アジアの強国だったのですが、1431年タイ(シャム)のアユタヤ王朝に敗北してからは、隣国のタイ・ベトナムという両大国に挟まれ、タイ(シャム)やベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱が続きました。

1863年にはフランスの保護国となりましたが、この保護国化は、隣国タイやベトナムの圧力に堪りかねたカンボジア側からフランスに要請された側面もあるようです。1941年シアヌークが王位に就き、 1945年3月日本軍の侵攻に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言するのですが、日本が連合国に降伏すると、1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまいます。

しかし、シアヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、1949年にフランス連合内での独立を獲得した。1953年には警察権・軍事権を回復し、シハヌークはフランス、アメリカ、タイを回って世界世論に訴えかけ同年11月に完全独立を果しました。

その後、ベトナム戦争中の1970年3月に親米のロン・ノルがクーデターを決行します。ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、カンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺しました。また、ホーチミン・ルートを粉砕するため、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させ、さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させました。

これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃からわずか一年半の間に200万の国内難民が発生したそうです。

クーデター後、シハヌークは中国(北京)へ脱出し、カンボジア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけました。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」でした。

ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となったのですが、1973年3月アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失い、1975年4月にはクメール・ルージュが勝利します。

でも、本当の悲劇はここから始まったのです。

クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった極端な原始共産制社会への回帰政策を実行しました。旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派、反乱の疑いのあるものは政治犯収容所などに収容され虐殺されました。

1975年~1979年のポル・ポト時代の4年間は、中国の毛沢東主義を奉じた極端な政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで100万人を超えるともいわれる大量の死者を出したそうです。

中国の文化大革命をピュアな形で実現しようとし、文化大革命時の中国よりも悲惨な状況になってしまったのです、

クメールルージュはベトナムと対立します。クメールルージュの後ろ盾は中国、ベトナムはソ連との関係を強化しており、中ソの代理紛争とも言える対立でした。

1978年元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンはベトナム軍とともに、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻しました。

その後、内戦はさらに泥沼化して行ったのですが、1990年6月東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催され、続く1991年10月、カンボジア和平パリ協定が開催され、20年に及ぶカンボジア内戦が終結しました。

カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成されています。

1992年3月より、明石氏が事務総長を務める国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が平和を維持する活動を始め、1992年9月自衛隊が国際平和協力法に基づいて国際連合平和維持活動の一環として、カンボジアへ派遣されました。

それから10数年、人気の観光地として復興すると共に、日本企業の進出先としても注目されています。

国が安定し治安も良くなるまでは、決して平坦な道ではなかったのだと思います。内戦を戦った各勢力が、そしてカンボジアの人々が、心から望んで実現した平和であり、関係した国々がサポートして実現した平和なのだと思います。

 

クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられたり、虐殺されたりしました。

クメール・ルージュの少年・少女兵士が知識人を銃殺することも有ったようです。

そんな状況が今のシリアやイラクで起こっている事と似ている気がします。

長い内戦の後、国が安定し治安も良くなり、カンボジア子供たちにも笑顔が戻ったようです。状況が異なるので、シリアやイラクがカンボジアと同じ様な決着が図られるのか判りませんが、内戦終結の為のヒントの一つになるようも思えるのですが。

いつか、シリアやイラクでもカンボジアのように内戦終結が終結し、国が安定し、治安も良くなり、子供たちに笑顔が戻りますように。

 

このプログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その19 アフガニスタン

2015-07-18 21:30:47 | 日記

紀行作家の下川裕治はアフガニスタンで出会った記者やカメラマンからこんな話を聞いたそうです。「戦場ってきれいなんですよ。ボスニアの風景も美しかった。このアフガニスタンの大自然も息を呑む。産業なんてものがひとつもないから、川だってなにもよごれていないんですよ。」(下川裕治著 新アジア赤貧旅行より)

アフガニスタンはパキスタンが南に、西にイラン、北にタジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンで、国の東端は中華人民共和国に接する共和国です。正式名称はアフガニスタン・イスラム共和国。面積は日本の2倍弱の65万KM2、人口は31万人とのことですが、長い紛争の結果パキスタン等に難民として出国する人も多いので、人口はもっと減っているかも知れません。

首都のカプールは、昔はシルクロードの中継地点として栄え、ソ連侵攻前には欧米の若者(ヒッピー)が長期間滞在する平和な町だったようです。

今は、旅行がためらわれる地域ですし、報道も時折しかされません。復興は進んでいるのでしょうか。

 

1979年2月にイラン革命がぼっ発した後、ソ連のブレジネフはアフガニスタンやソ連国内へイスラム原理主義が飛び火することを恐れ、12月24日にアフガニスタンへ軍事侵攻を開始しました。ムジャーヒディーン(イスラム義勇兵)の激しい抵抗もあり、1989年、ソ連軍は撤退したのですが、その後、タリバン政権が誕生し、さらにはアルカイダが誕生しています。ソ連軍が撤退した後、国内の支配をめぐってタリバンと反タリバン勢力の間で紛争が始まりました。

アメリカ同時多発テロ事件を受けて、アメリカ・イギリス軍が不朽の自由作戦の名の下で空爆を開始、2001年12月にカーブルで暫定政権発足、2004年10月9日、アフガニスタン・イスラム共和国発足というのが今日に至る流れですが、タリバンとの争いは今も続いています。それに加え、最近はISも進出していると言います。

歴史的には、先史時代からイラン高原やメソポタミアの諸文化と早くからつながりがあり、また、インダス文明とも交流があった地域です。紀元前6世紀ペルシャ帝国に編入された後、紀元前4世紀にはアレキサンダー大王、紀元前3世紀にはギリシャ人の建てたグレコ・バクトリア王国と、その後も支配者が目まぐるしく変りました。

第一次世界大戦から第二次世界大戦に掛けては、英国・トルコ・ソ連がこの地を含めた地域の覇権を争っていたそうです。

 

ニューヨーク・タイムズの記者だったクリス・ヘッジスは「戦争の甘い誘惑」という本の中で「戦争は麻薬だ」と言っています。二十世紀に起きた戦争では、6千万人の民間人と4千3百万人の兵士が死んだそうです。人間は戦いが好きであり、そこから出発しないと平和が長続きしないということなのでしょうか。

でも、アフガニスタンの歴史の一端を覗いて見ると、紛争のきっかけを作ったのは他の国々の人々だったのではないか、「全ての人間は戦いが好き」という訳では無いのではないかと思うのです。

この地域の人々も、そして子供達も紛争に怯えて暮らさなくとも良い、そんな時代が来ますように。そして、その時代が長く続きますように。

 

このプログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その18 ミャンマー

2015-07-11 12:20:40 | 日記

ミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スー・チーはいつも花の髪飾りをつけています。ミャンマーの女性は花の髪飾りをつけている人が多いのかというと、そんなことはありません。

良くガイドブックに、女性は化粧品として「タナカ」という木を磨った粉を使っており、それで頬に模様描いていると紹介されていますが、ヤンゴンあたりではあまり見ないようです。

ミャンマーの人たちは一般的に姓を持ちません。国連事務総長を務めたウ・タントの「ウ」はビルマ語のミスターに相当する言葉です。直訳するとMR.タントなのですが、「ウ・タント」で名前です。名前の中に「ミスター」が入っていて日本人からすると違和感がありますが、そういう名前もミャンマーではあるのだそうです。

ちなみにアウン・サン・スー・チーもアウン・サンは父親のミャンマー建国の父であるアウン・サンからつけていますが、アウン・サンは姓ではありません。

 

ミャンマーは人口が52百万人、面積が68万km2、EUで言えばスペインとポルトガルを合わせたぐらいと考えたらわかりやすいかもしれません。

1942年、アウン・サンがビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共に戦いイギリス軍を駆逐し、1943年に日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国されたという経緯から、対日感情はとても良いのだそうです。

観光地としてはお寺と遺跡ということで、ヤンゴン、バガン、マンダレーなどが有名です。インレー湖では水上生活の村を見ることが出来ます。

この4ヶ所がはずせない観光地なのですが、ビーチリゾートもお勧めです。観光地化が進んでおらず、手付かずの自然がそのままの状態であるために、非常にきれいな海です。もっとも、交通の便が良くはありません。ガパリが一番有名な高級ビーチリゾートです。ヤンゴンから約460Km、飛行機で約50分です。ヤンゴンなどでは味わえない新鮮な魚介類の料理を堪能することができます。

ミャンマーの料理は、煮込み料理の「ヒン」(カレー)をご飯に掛けて食べ事が多いです。油つこいですが、インド料理・タイ料理程スパイシーではありません。料理とは言えませんが、お茶の漬物みたいな「ラペソー」もおいしいです。現地で食べるのも良いのですが、日本に持って帰って来て、暖かい緑茶のお茶請けとして食べると絶品です。

お酒は、モンドセレクション金賞を受賞したミャンマービールが有名ですが、各種麻薬の原料となるケシに代わる作物として栽培されたソバを原料に作られた焼酎もあり、クセのない味で、オンザロックで普通に飲めます。マンダレーラムも有名でソーダやコーラなどで割って飲みます。

ミャンマーは暑い国ですから、涼しくなった夕方に海かお寺を眺めながら、「ラペソー」などを酒の肴に、ソーダなどで極薄く割ったマンダレー・ラムをちびちび飲んで、ボーッとしている。そんな過ごし方が素敵だと思います。

 

ミャンマーには複雑な少数民族問題があります。二次英緬戦争の後、英国はイスラム教徒のインド人・華僑を入れて多民族多宗教国家に変えるとともに、周辺の山岳民族(カレン族など)をキリスト教に改宗させてビルマの統治に利用し、民族による分割統治政策を行ないました。

インド人が金融を、華僑が商売を、山岳民族が軍と警察を握り、ビルマ人は最下層の農奴にされたそうです。それが、現在のミャンマーの少数民族問題を複雑にしているのだそうです。

ロギンヒャ族もこの時代にミャンマーにつれてこられた人々の末裔が多いのだそうです。

政府は彼らを移民とみなし、ミャンマー国籍を認めていません。アウン・サン・スー・チーも他の少数民族との和解は訴えているのですが、ロギンヒャ族については発言を控えています。少数民族問題は植民地時代の負の遺産なのかも知れません。

現在の中東の混乱も、欧米主導の第二次世界大戦後の戦後処理が遠因という人もいます。

どこかの国の都合で、その国の人々の意向に沿わない決着をすれば、いつかは人々の心の奥底にしまっていたわだかまりが噴出してくる。そういう事なのかと思います。

終わらない紛争はありません。いつかは中東の地にも平和で豊かな時代が来るのでしょう。でも、その国の人々の意向に沿わない決着をすれば、平和が長く続かない気がします。

この地域の人々が、そして子供達が人々の心の奥底にわだかまりをしまって置かなくとも良い決着が早くなされますように。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その17 パキスタン

2015-07-05 14:42:12 | 日記

ベーナズィール・ブットーという女性をご存知でしょうか。1988年にムスリム国家で初めて女性の首相になり、2007年12月27日にイスラム原理主義者と思われるテロリストにより暗殺されたました。享年54歳でした。

祖父シャー・ナワーズ・ブットーはパキスタン独立運動の中心人物の1人、父はズルフィカール・アリー・ブットー、パキスタンの政治家で、1971年から1973年まで大統領、1973年から1977年まで首相を務めました。パキスタン人民党(PPP)の創立者です。

本人はハーバード大学およびオックスフォード大学に学んでいます。首相になった1988年にはビープル誌で「世界でもっとも美しい50人」にも選出されました。名門一族の出身でかなりの秀才、かつ美人ということなのでしょう。

2014年にノーベル平和賞を受賞したマララ・ユサフザイも、ベーナズィールに刺激を受けたと語っているそうです。

 

パキスタンは人口1億8千万人、面積は80万km2のムスリムの大国です。戦闘が続く隣国アフガニスタン他からの移民が急増しており、2050年には約3億4,000万人にまで増加し、中国・インド・米国に次ぐ世界第4位の人口大国になると予想されています。ちなみにバングラディシュは東パキスタンとしてパキスタンに組み込まれていましたが、1971年に独立しました。

お隣のインドとは3次に渡り戦争をしており、とても仲が悪いのだそうです。インドに対する競争心もあり、インドが原子爆弾を作ればパキスタンも作りますし、インドがロシアと戦闘機を共同開発すれば、パキスタンは中国と戦闘機を共同開発するといった具合です。

アフガニスタンとの国境沿いの連邦直轄部族地域はパキスタン中央政府の支配があまり及んでおらず、テロの温床となっているとも言われています。

ウサーマ・ビン・ラーディンもパキスタン国内に潜伏していました。

パキスタンはモヘンジョ・ダロやインダス文明の遺跡であるハラッパーなど、一度は見てみたい遺跡があるのですが、治安が良いとは言えないのが難点です。

もっとも、アフガニスタンとの国境地域を除けばそれほどでもないという人もいます。

料理はインド料理の延長だと思うのですが、パキスタンの人は自分の国を「フルーツの宝庫」だと言います。特に、マンゴーについては「世界一おいしい」とのこと。

ムスリムの国ですから、豚は食べませんし、お酒もホテル以外で飲むことは困難なのだそうです。パキスタンはかなり厳格なムスリムの国ですから仕方ないのだと思います。

ムスリムの国では、女性の社会進出は困難だとも言います。でも、ベーナズィール・ブットーやマララ・ユサフザイのような女性もいます。ベーナズィール・ブットーがマララ・ユサフザイに影響を与えたように、今度はマララ・ユサフザイが他のムスリムの少女達に影響を与えて行くのでしょう。

過激派により暗殺されたり、襲撃されたりはしますが、一般のムスリムの人々の支持があるから首相になったり、学校に通ったりできるのだと思います。

ISやボコハラムの支配地域では奴隷市が立ち、少女達が物のように扱われているともいいます。でも、それは過激派によるものであり、一般のムスリムの人々の意思ではないと思うのです。

いつかこの地域にベーナズィール・ブットーやマララ・ユサフザイが現れますように。

このプログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。

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