ペルーは、約129万平方キロメートル(日本の約3.4倍)、人口約3,115万人(2015年1月推定値,ペルー統計情報庁)、南アメリカ西部に位置する共和制国家です。
北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面し、首都はリマです。リマは、太平洋に面したコスタと呼ばれる乾燥大地に開けた大都市で、ペルーの人口の約3分の1が生活する政治・経済の中心地です。植民地時代に発展した都市です。
ペルーは紀元前から多くの古代文明が栄えており、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国の中心地でした。当時の中心地クスコは11~12世紀頃に建設され、太陽神を崇拝するインカ帝国の都として栄えました。
ケチュア語で「ヘソ」を意味するこの都市には、帝国内のあらゆる地方から人々が集まっていました。
日本との外交関係設立は1873年で中南米で最も早いそうです。日本・ペルー関係は,第二次世界大戦期を除き常に良好に推移して来ました。
1899年ペルーへの集団移民が始まり、これは南米への集団移民としても最も古いものだそうです。フジモリ元大統領やその娘のケイコ・フジモリ大統領候補はその末裔です。
もっとも、1614年のリマ市人口調査では20人の日本人が居たと記録されていますから、江戸時代初期に既に日本人がペルーに住んでいたということになります。
当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国の中心地ですから世界遺産等の観光資源は豊富です。
一生に一度は訪れるべきといわれるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵はご存知の方が多いと思います。
マチュピチュ遺跡近くのマチュピチュ村の唯一の友好都市が福島県大玉村だそうで、こちらはマチュピチュ村の発展に尽くした方が大玉村出身だからだそうです。
ナスカの地上絵では山形大学の研究チームが新たな絵を発見しています。因みに正式にナスカ地域に立ち入りが許可されているのは山形大学の研究チームだけとのこと。
また、世界遺産の一つクスコはインカ時代の美しく精巧な石組みと、スペインのコロニアルな建築物が融合した独特な雰囲気が漂っています。
ペルーの国土は、砂漠が広がる沿岸部のコスタ(国土の約12%)、アンデス山脈が連なる高地のシエラ(国土の約28%)、アマゾン川流域のセルバ(国土の約60%)の三つの地形に分けられます。
ペルーの国土を南北にアンデス山脈が貫いており、アンデス山脈から多くの川が東西に流れています。西に流れる川はコスタの砂漠を潤しています。アマゾン川の源流もアンデス山脈のミスミ山にあり、アマゾン川はペルー最大の河川となっています。また、北部を流れるプトゥマヨ川はペルーとコロンビアの国境線を形成しています。
ペルーとボリビアの国境地帯のティティカカ湖は両国最大の湖です。
ペルーの文化はインカ帝国や、それ以前から続く前インカ期からのインディヘナの文化と、16世紀にペルーを征服したスペイン人の文化に根を持ち、その上にアフリカ系住民や近代になって移住してきたアジア系、ヨーロッパ系の諸民族の影響も受けています。
また、ペルーの料理は先住民族のインディヘナ、黒人、スペイン人、中国人、日本人、イタリア人などの多様な国民の影響を受けた独特な料理なのだそうで、フランス料理、中国料理、インド料理などと並ぶレベルに達しているという見解もあるのだそうです。
ペルーは「世界遺産と黄金の国」というのが観光のキャッチフレーズですが、多くの黄金が植民地時代にスペインより持ち出され、スペインの国力を高めました。
15世紀中ばから17世紀中ばまで続いた大航海時代、欧州の列強はこぞって南北アメリカ大陸に進出します。
16世紀になるとスペイン人の征服がインカ帝国の中心地クスコにも及び、インカ帝国は一瞬にして崩壊してしまいます。征服者たちは、太陽の象徴である黄金で彩られた神殿や宮殿を破壊し、金銀を手当たりしだい略奪してインカが築いた精巧な礎石の上にスペイン風の教会を建設して行きました。
インカ帝国の太陽神信仰は否定され、キリスト教化が推し進められて行きました。
ペルーの民族は先住民45%,混血37%,欧州系15%,その他3%、主な言語はスペイン語、国民の大多数はカトリック教というのはその結果です。
スペインによるインカ帝国への侵略、それは表向きの理由はキリスト教の布教ということだったのだと思います。
それゆえ、キリスト教から見れば異教徒の信仰の中心である黄金で彩られた神殿や宮殿を破壊しインカが築いた精巧な礎石の上にスペイン風の教会を建設して行ったのでしょう。
でも、真の目的は金銀を手当たりしだい略奪することでした。
人間はどんな技術でも戦争に使う武器にしてしまいます。でもその技術は本来人々を豊かにするために生まれた技術でした。
そして、本来人の心を救うべき宗教さえも、侵略の口実としてきたのだと思います。
宗教は人の心を映す鏡なのかも知れません。救いを求める人には救いを、侵略の口実を求める人には侵略の口実を与えてくれるのでしょう。
その昔のアララト山の麓や、紛争勃発前のボスニア・ヘルツェゴビナで異教徒が交わりながら暮らしていた折、きっと人々は幸せだったのだと思います。
幸せでなければ、異教徒攻撃する口実を宗教に求めていた、そんな気がします。
ISの残虐な行為やシリアやイラクで宗派間の対立を止めるには、人々が幸せになることだと思います。
そんなことは、本当はみんなが、分かっているはずなのですが。
このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。
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