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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その66マケドニア共和国

2017-01-22 17:36:07 | 日記

マケドニア共和国は、面積が2万5,713平方キロメートル(九州の約3分の2)、人口208万人(2015年世銀データ)、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国で、前身はユーゴスラビア連邦の構成国の一つでした。首都はスコピエです。

「マケドニア」とは、マケドニア共和国のほかにギリシャやブルガリア、アルバニアにもまたがる地域の名称で、マケドニア地域の南部を領有し、その地域名として既にマケドニアの名を使用していたギリシャ政府は、マケドニアに対し国名を変更するように強く抗議しました。

そのため、1993年に国際連合へ加盟した際は「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として加盟しており、日本も正式には「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として呼称しています。

もっとも、アメリカ合衆国やロシア連邦等、大多数の国々は、法上の国名である「マケドニア共和国」の名でこの国と外交関係をもっていますし、日本の外務省のホームでは、表題部こそ「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」となっていますが、本文では単に「マケドニア」として表記しています。

尚、マケドニアの人々はスラブ系であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々とは違う民族なのだそうです。

マケドニア共和国のある地域には、古くから人が居住しており、イリュリア人やトラキア人などの部族が割拠していました。

紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて、マケドニア王国の支配の支配下となり、紀元前2世紀には西から勢力を拡大したローマ帝国の支配下となり、ローマ帝国が東西に分かれると、マケドニアは東ローマ帝国の一部となりました。

6,7世紀頃スラヴ人が定住、15世紀以降オスマン・トルコの支配下に入り、1918年セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国建国、1945年旧ユーゴ構成共和国の一つとして発足、1991年旧ユーゴより独立、というのが大まかなマケドニアの歴史です。

気候的には、地中海性気候と高山性の気候の中間にあり、ヴァルダル川の渓谷部は標高が低く、地中海性の気候に近く、ここでは夏季には最高気温が40度に達することもあるそうです。

一方で高山地帯は冷涼であり、冬季は雪に深く閉ざされるとのこと。

住民は5世紀から7世紀ごろにこの地に移り住んだスラヴ人の子孫であるマケドニア人が64.2%、アルバニア人が25.2%です。

宗教はマケドニア正教徒が70%ですが、オスマン・トルコの支配下だったこともあり、ムスリムも29%を占めます。

マケドニア共和国は、1990年代前半のユーゴスラビア崩壊に伴うユーゴスラビア連邦からの独立に際して、戦禍に巻き込まれることなく平和的な独立を果たした唯一の国家です。

他の旧ユーゴスラビア諸国に対する国民的感情は、他の旧ユーゴスラビア諸国の国民に比べると穏やかなのだそうです。

さすが、マザー・テレサ生誕の地だと思います。

マザー・テレサ1910年8月26日、オスマン帝国のコソボ州・ユスキュプ(現代のマケドニアのスコピエ)に生まれました。

両親はマケドニア地方に住むカトリック教徒でしたが、周囲にはイスラム教徒や正教徒が多かったことを考えると珍しい家族だったようです。

父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていたそうです。

彼女は18歳のとき、故郷のスコピエを離れ、アイルランドでロレト修道女会に入りました。

その後1929年から1947年までカルカッタ(現在のコルカタ)の聖マリア学院で地理と歴史を教えていたそうです。

1944年には校長に任命され、上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていたそうです。

1946年の9月、休暇のため避暑地であるダージリンに向かう汽車に乗っていた際に「全てを捨て、最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたといいます。

手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行い、その後「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことを目的とする「神の愛の宣教者会」を設立します。

また、インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院を譲り受けたテレサは「死を待つ人々の家」というホスピスや児童養護施設を開設しました。

活動の初期の頃は、地元住民たちはホスピスに所属している者をキリスト教に改宗させようとしているという疑念を抱いていたそうです。

しかし、彼女たちはケアする相手の宗教を尊重する姿勢を貫き、ヒンズー教徒にはガンジス川の水を口に含ませてやり、イスラム教徒にはコーランを読んで聞かせるのだそうです。

ところで、日本人にはあまり馴染みのないマケドニアですが、実は親日国なのだそうです。

1963年にスコピエで起きた大震災の復興を支えたのが、故・丹下健三を中心とする日本チームであり、学校で習うこともあり、親日家となったマケドニア人が多いとのことです。

また、日本は最大の支援国の一つであることも親日国である一つの要因なのだと思います。

さらに1998年-1999年のコソボ危機により生じた難民の受け入れ国に対する支援として,医療機材供与,食糧増産援助,ノンプロジェクト無償等合計22億7400万円を供与しました。

世界には親日国が意外と多いのだそうです。

その理由の一つが、「世界中に資金提供・技術提供し、国際貢献しているにもかかわらず、内政干渉をしない。」ということだそうです。

もちろん日本国としての打算もあるのでしょうが、「人々を助けるのはキリスト教に改宗させるためにやっているわけではない。」というマザー・テレサの行動に近いものが感じられ、それが評価されている気もするのです。

それは、自己の利益だけでなく、その国の人々のことを思いやり、行動してきた先達たちの遺産なのだと思います。

最近、欧米では、そして日本でも、自国のことで精一杯、自分の国が最優先という風潮が強くなってきた気がします。

それは、それで仕方ないのかも知れません。

でも、何年後先、何十年後先に実る果実も有るのだと思います。

今、親日国が多いのも、先達たちが種をまいてくれたものですから。

シリアの内戦も、ほぼ終結に向かっているようです。

紛争が終われば、難民の受け入れ国に対する支援以外にも、日本にできることがあるのだと思います。

中東の子供たちに

「日本って好きだよ。」

って笑顔で言ってもらえたら、

日本の子供たちへの遺産となる、そんな気がします。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その65ボクラ

2017-01-08 18:36:27 | 日記

エジプトなどの中東地域の観光地で、かなりしつこい売り子に遭遇することがあります。

彼らは日本語を話しませんが、英語は話すので「I don’t need.」とか「I don’t want any of these.」など、思いつく限りの英語で断るのですが、彼らはひるみません。

また、旅行書には「要らない」はアラビア語で「マ、ビッディ」と書いてあるので、使ってみるのですが、これも通用しません。

そんな時に「ボクラ」というと、売り子たちはまるで憑き物が落ちたように、納得した様子で去っていくのだそうです。

「ボクラ」とは「明日」というアラビア語です。

「またね」ぐらいの意味なのかと思うのですが、効果が絶大ですのでもっと深い意味を持っているのだと思います。

アラブの人々の性格を表現する言葉で「IBM」というものがあります。

IBMと言ってもアメリカの有名なコンピューター会社のことではありません。

Iは「インシャッラー」という「(アラーの)神が望むならば」という意味のアラビア語で、約束の後に必ず付けるのだそうです。もし、約束が果たされなかったとしても、それは神が望まなかったからということになります。

但し、「(アラーの)神が望むならば」ということですので、ムスリム以外の人々は使わないのが無難な言葉なのでしょう。

Bは冒頭で書いた「ボクラ」という「明日」という意味のアラビア語です。

Mは「マーレイシュ」というアラビア語で、本来の意味は「気にしないでください」ぐらいなのだそうでが、「ごめんなさい」とか「仕方ないね」という状況で使われるようです。タイ語の「マイ・ペンライ」に良く似た言葉かも知れません。

IBMでアラブ地域での仕事の進め方を例示するとこうなるそうです。

上司:いつ出来る?

部下:ボクラ、インシャッラー(明日、(アラー)の神が望むなら→明日やります。)

上司: インシャッラー((アラー)の神が望むなら→了解。)

(翌日)

上司:出来ていないじゃないか。

部下:マーレイシュ(→ごめんなさい。)

上司:マーレイシュ(→仕方ないね。)

こんな感じだそうです。

ちょっとオーバーだろうと思うのですが、アラブ地域で仕事をすると胃が痛くなると良く聞きますので、当たらずとも遠からずというところでしょうか。

もっとも、アラブ地域でも欧米人や日本人に感覚が近い人も居て、約束をきっちり守る人も多いのだと思います。

「ボクラ、インシャッラー(明日、(アラーの)神が望むなら)」と言う表現は、日本人の私には何とも無責任な言葉に聞こえるのですが、彼らにとっては無責任な言葉では無いのでしょう。

観光地で売り子に「ボクラ」と言ったとき、売り子は「ボクラ、インシャッラー」と言われたと思うのでしょうか。「明日、運がよければ売れるんじゃないかな」ぐらいの言葉なのだと思います。

「要らない」と直接的に言うより「明日、運がよければ売れるんじゃないかな」と遠まわしに断る。そんな奥ゆかしさを好む民族なのかも知れませんし、明日と(アラーの)神を信じて希望を失わない人々なのかも知れません。

昨年末、シリアの停戦が成立しました。今まで何度も停戦し、その都度破られて来た停戦です。

シリアの人々は「停戦? ボクラ、インシャッラー(運がよければ、明日も続くさ)」と思っているのでしょうか。

その言葉の中には少しですが、希望が残っているのだと思います。

中東の紛争地域から難民として逃げ出す人は「ボクラ、インシャッラー」とさえ言えず、希望を失って新たな地に移って行くのではないでしょうか。

中東の紛争地域で、紛争が終わり、大人たちが「ボクラ、インシャッラー」と笑顔で言えるようになったら、

子供たちにも笑顔が戻る、

そんな気がします。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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