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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その40 ベルギー

2016-01-24 17:03:41 | 日記

ベルギーは、面積が30,528平方キロメートル(日本の約12分の1)、人口は1,128.0万人(2015年10月)、立憲君主制の国です。1815年にウィーン会議によりオランダの支配下に入りましたが、1839年に独立しました。

隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれています。1948年にベネルクス関税同盟が調印され、1960年には関税に加え、労働力と資本を自由化したベネルクス経済連合が発足し、欧州共同体の起源となりました。

ベルギーといえばワッフルを思い出される方も多いかと思いますが、チョコレートの中心でもあり、ノイハウス、ゴディバ、ピエールマルコリーニ、ヴィタメール、レオニダス、ガレといった有名店が軒並みブリュッセルに本店を構えています。

 

首都のブリュッセルは、ヨーロッパの中央部にあり、各大国から近く交通の要衝にあるため、ヨーロッパ全域にまたがる国際機関の本部が多く置かれており、EUの首都とも言われています。

また、国際決済の大部分の共通基盤を提供しているSWIFT(スイフト(国際銀行間通信協会))の本部もベルギーのラ・ユルプに置かれています。

今では、平和な国という印象の有るベルギーですが、以前はアフリカに植民地を持っていました。

1885年に第2代国王レオポルド2世が個人の所有地としてアフリカにコンゴ自由国を領有します。

コンゴ自由国はレオポルド王の極めて残忍な統治で徹底的に搾取され、コンゴの人口は2500万人から1500万人に激減したと推定されています。

コンゴ自由国は、1908年にベルギーの国家的所有に移されて、ベルギー領コンゴとして1960年まで支配しました。

また、ベルギーは1919年のヴェルサイユ条約によりドイツ帝国の植民地であった現在のルワンダとブルンジを獲得しました。

コンゴではカカオが収穫されますので、ベルギーではチョコレートが美味しいのかもしれません。

 

ベルギーでは1984年に出生地主義の原則が確立されており、単一民族国家ではありません。

オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分されます。他にドイツ語が公用語の地域もあるそうです。

フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には、「言語戦争」とまで呼ばれる対立関係が存在するのだそうです。

お隣のフランスでは移民はフランス人になることを求められますが、ベルギーではベルギー人になることは求められません。

ベルギー人内部にも対立関係が存在するのがその一因かもしれません。

 

 

パリの同時多発テロの実行犯の多くはベルギーに居住していた移民2世3世のフランス人たったそうです。

それは、ヨーロッパの中央部にあり、各大国から近く交通の要衝にあったことも一因なのでしょうし、ベルギーではベルギー人になることは求められなかったことも一因なのかも知れません。

ベルギーでは、以前はムスリムはムスリムとして生活できたのだそうです。

フランスでの疎外感から、ベルギーに移り住んだ若者、そんな若者がEUの首都とも言えるベルギーではなく、フランスでテロを起こしたのだと思います。

移民の増加による治安の悪化に加え、フランスでテロが起こったことにより、ベルギーでもムスリムの人々への風当たりが強くなっているようです。

その中で、ムスリムの聖職者がキリスト教の教会に出向き、ムスリムへの理解を求めたり、キリスト教会の慈善事業にムスリムの若者が参加する等の取り組みも行われているといいます。

ささやかな一歩なのですが、今出来ることをやる。その積み重ねが大事なのだと思います。

疎外感が憎悪を生み、テロを引き起こし、テロが差別を増長し、疎外感を生む。

その連鎖を断ち切るためにも。

 

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その39 アルジェリア

2016-01-17 16:41:38 | 日記

アルジェリアは、面積が238万平方キロメートル(内、砂漠地帯約200万平方キロメートル)(アフリカ第1位)、人口は3,780万人(2013年)、アフリカの大国です。旧宗主国はフランス、首都のアルジェの旧市街はアルジェのカスバとして世界遺産にも登録されています。

カスバとは、本来オスマン帝国領下の16世紀において、アルジェの丘に建てられたオスマン帝国の太守の城塞のことですが、旧市街自体のことも「カスバ」と呼ばれるようになりました。

カスバは、しばしばアルジェリアを舞台とする映画や音楽作品に登場します。

植民地下のアルジェリアで撮影された「望郷」(1937年 フランス製作)では、フランスからアルジェリアへ逃亡した大泥棒ペペの潜伏先にカスバが選ばれました。

映画では、世界各国の犯罪者が隠れる「怪しげな」街として描写され、それを見たアルジェリア映画界の人間はアルジェリアの人々は朝日新聞のインタビューでインタビューにて不満を述べたそうです。

ただ、インタビュー自体が1992年のことですが。

海から、あるいはテラスからカスバを眺めれば、とても美しいのですが、現在のカスバは老朽化によって崩壊の危機に直面しており、構造上、ある家が崩れると、それと折り重なっている家々もドミノ倒しのように倒壊の危機にさらされてしまうのだそうです。

 

今から3年前の2013年1月アルジェリアのイナメナス付近の天然ガス精製プラントにおいて、日本人10人を含む多数が犠牲になった事件がありました。

アルジェリア人質事件です。

アルカイダ系の武装勢力「イスラム聖戦士血盟団」が、アルジェリア東部、リビア国境から60kmほど西にあるイナメナスから西南およそ40kmの位置にある天然ガス精製プラントを襲撃しはじめたのは2013年1月16日の早朝未明のことでした。

この事件では、ソマリア沖海賊の対策部隊としてジブチに派遣されている陸上自衛隊のレンジャー部隊をアルジェリアに展開する作戦案も出たのですが、法的な問題から防衛省は不可能と判断、実現しませんでした。

それが、2013年の自衛隊法で在外邦人保護の陸上輸送を可能とする改正に繋がることとなりました。

犠牲になった日本人は全員が日揮関係の幹部・協力会社・派遣社員でした。

日揮は1969年からアルジェリアでプラント建設を行っており、アルジェリアで数々のプロジェクトを成功させ、また工事を行う際には現地のエンジニアを雇い、教育していたため現地での信頼は厚かったのだそうです。

16日には日揮の横浜本社で半旗が掲げられ、犠牲者に弔意を表しました。現場のガス田施設でも現地時間16日、事件後に建立された慰霊碑前で、日揮現地スタッフのほか、アルジェリア国営炭化水素公社(ソナトラック)、英石油大手BPなどの関係者が黙とうしたそうです。

多くの民族が存在するマグリブ地域(モロッコ、アルジェリア、チュニジア、西サハラの北アフリカ北西部に位置するアラブ諸国を指し、場合によってはリビアやモーリタニアも含められる)では様々な紛争が起こってきました。

アルジェリアでは独立後続いてきた社会主義体制が終わり複数政党制となった1992年に行われた選挙でイスラム原理主義政党である「イスラム救国戦線」(FIS)が勝利したものの、軍部がクーデターを起こし選挙結果を無効としてしまったため、反発したイスラム救国戦線の一部であった「武装イスラム集団」(GIA)によるテロが頻発するようになっていたのです。

その後、FISは政府と和解しGIAも弱体化しましたが、GIMの人や組織はアルカイダ系の「イスラーム・マグリブ諸国のアルカイダ機構」(AQIM)に受け継がれ、北アフリカはアルカイダの後方基地としての役割を果たすようになっていったのです。

アルジェリアの南のマリ、ニジェールなどでは独立を目指すトゥアレグ族(ベルベル系の遊牧民)の反乱が起きていました。彼らはマリで軍によるクーデターが発生したのを機にイスラム国家の建設を目指してマリ北部(アザワド地域)の独立を宣言した。

しかし、まもなくトゥアレグ族組織(MNLA)と過激派が反発し戦闘が勃発、過激派がトゥアレグ族組織を打倒しました。これにより、アザワド地域は事実上イスラム過激派の手に落ちる事態となったのです。

これらの事態を重く見た欧米、アルジェリアを含むアフリカ諸国はトランス・サハラにおける不朽の自由作戦、欧州連合マリ訓練ミッション、アフリカ主導マリ国際支援ミッションなどによって間接的にマリ軍を支援しました。

そんな中、マリ大統領の要請に応えてフランス軍が軍事介入し、2013年1月11日にアザワド地域に攻撃を開始し(セルヴァル作戦)、この攻撃に反発した過激派が起こしたのだと言われています。

 

「あなたにひどいことをしてくる相手であっても、きっと、あなたと全く同じようにように苦しみにあえぎ、幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいるのです。相手にも、望まぬ苦しみが存在しているのだと理解することができたなら、相手に対する怒りの心も少しは鎮まっていくのではないでしょうか。」

ダライ・ラマ14世の言葉です。

同様な教えはキリスト教であれ、ムスリム教であれ、有るのだと思います。

私達は、それが実践できるほど聖人君主ではないのかも知れません。

でも、アルジェリアの発展を信じ、現地のエンジニアを雇い、教育していた日揮の社員も、世界各地で活動しているNPOやJICAの人々も、みんな

「幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいる人々が幸せになって欲しい。」

と考えているのだと思います。

幸せな人が増えていったら、世界の紛争も少しは減るのではないでしょうか。

紛争地域の子供達が、そして大人達も、幸せになれますように。

でも、「幸せを望んでいるのに幸せを得ることができないでいる人々」

それはあなたのすぐそばにいるのかも知れません。

そして、あなた自身も。

 

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その38 イタリア

2016-01-11 18:24:21 | 日記

イタリアは、面積が30.1万平方キロメートル(日本の約5分の4)、人口は60.8百万人(2014年1月。日本の約半分)、EUの中ではドイツ・フランス・イギリスに次ぐ経済規模、世界では第8位の経済大国です。

世界地図で見ると、ヨーロッパの南部の地中海に突き出た長靴が石を蹴っているようなふざけた形です。

因みに、蹴った石は二つ。最初に蹴った、今にもフランスに当たりそうな島がサルディーニャ島、今蹴ろうとしている島がシチリア島だそうです。

 

1937年には日本とドイツと共に日独伊防共協定を結び、1939年9月に勃発した第二次世界大戦には、1940年6月に参戦し同年9月には日独伊三国同盟を締結、1941年12月にはドイツと共に対米宣戦布告を行いましたが、1943年後半には敗色が濃い中ムッソリーニが失脚し連合国側に鞍替え参戦しました。

日本とドイツと共に第二次世界大戦を戦っていたのに、終戦時には戦勝国となった変わり身の速さは、さすがローマ帝国の末裔です。

因みに、日本人がドイツ旅行をしていると「次はイタリア抜きで一緒に戦おう。」などと話かけられることもあるようです。

真面目で優等生のドイツと、遊び人のイタリア、というイメージがありますから、ドイツ人とイタリア人は確かに気が合うことはなさそうだと思います。

 

そんなイタリアですが、世界有数のワイン生産国です。オリーブとオリーブ・オイル、ゴルゴンゾーラ、パルミジャーノ・レッジャーノをはじめ約50種類のチーズなどの農産物や地中海の海の幸も豊富です。

そんな食材を使ったイアリア料理は、2010年、ギリシャ料理、スペイン料理、モロッコ料理と共に、イタリア料理を地中海の食事として国連教育科学文化機関(UNESCO)の無形文化遺産に登録されました。

フェラーリやランボルギーニ、アルファロメオなどのイタリア車や、服飾ブランドのベネトンやプラダ、グッチ、ジョルジオ・アルマーニやジャンニ・ヴェルサーチ、ジャンフランコ・フェレ、バレンチノ、靴のサルヴァトーレ・フェラガモやトッズ、宝飾品のブルガリなどが世界各国に輸出されており、大きな外貨獲得源となっています。

さすがに遊び人のイタリア人です。謹厳実直なドイツとは産業の目指す方向がかなり違うと思うのは私だけでしょうか。

 

第二次世界大戦まで、北アフリカのリビアや東アフリカのエチオピア・ソマリアなどがイタリアの植民地でした。

そんな歴史もあり、ヨーロッパにおける有数の移民受入国となっていますが、失業や貧困、治安問題、生活習慣や宗教上の軋轢など大きな社会問題を引き起こしいるそうです。

特に、アラブの春で中東が混乱してからは、リビアから海路でイタリアに不法上陸する者が急増しました。難民を載せた船が沈没してしまうことも多く、イタリア海軍は不法移民を救助する活動に力を入れているそうです。

遊び人ですが、意外と良い奴、それがイタリア人なのかも知れません。

ドイツの移民政策は肩に力が入っているように見えるのですが、イタリアの移民政策は「まあ、できる範囲でやりますよ。」というような、肩の力を抜いた対応のように見えます。

どちらがより良いということは無く、ドイツにはドイツに合ったやり方があり、イタリアにはイタリアに合ったやり方、日本にも日本に合ったやり方が有るのだと思います。

日本は中東地域で意外と信頼されているのだそうです。それは、日本の先人達が築き上げてきた遺産なのでしょう。

この国が、ムスリムの子供達にも「日本って良い国だと思うよ。」って、

言ってもらえる国であり続けられますように。

 

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その37 フランス

2016-01-01 18:45:44 | 日記

赤ずきんは誰でも知っている童話で、色々な国の民話にその原型があるのですが、正式に出版されたのは、1697年にフランスで出版されたペロー童話集の中の『赤ずきん』が最初なのだそうです。

その後、1812年に初版第1巻が出版されたドイツのグリム童話に収録されましたが、こちらの方が有名かも知れません。

フランスは、面積が54万4,000平方キロメートル、人口は約6,632万人(2015年)、ドイツと共にEUの中心国とも言える国です。第二次世界大戦まで、アフリカやインドシナ等世界各地に植民地を持っていました。大英帝国と覇権を争った時代もありました。

現在でも、5海外県、4海外準県、2海外領土が残されています。タヒチ島を中心とするフランス領ポリネシアや、ニューカレドニアもフランスの海外領土ですし、マダカスカル島沖合いのレユニオンは海外県だそうです。

フランスは17世紀以降、1960年代まで広大な海外植民地を有しており、その植民地帝国は大英帝国に次ぐ規模でした。

1919年から1939年の最大時にはフランス本国含め12,347,000平方キロメートルの領土に広がり、世界の陸地の8.6%を占めていたのです。

 

フランスの歴史は、必ずしもフランスの歴史ではありません。現在のヨーロッパ地域全体に関わる歴史でした。

476年に西ローマ帝国が滅びるとゲルマン人の一部族であるフランク族のクローヴィスが建国したメロヴィング朝フランク王国が勢力を伸ばし始めました。

508年にメロヴィング朝はパリに遷都すると共に、キリスト教とラテン文化を受け入れました。メロヴィング朝の後はピピン3世がカロリング朝を打ち立て、カール・マルテルは732年にイベリア半島から進出してきたイスラーム勢力のウマイヤ朝をトゥール・ポワティエ間の戦いで破り、イスラーム勢力の西ヨーロッパ方面への拡大を頓挫させました。

シャルルマーニュ(カール大帝)はイスラーム勢力やアヴァール族を相手に遠征を重ねて現在のフランスのみならず、イベリア半島北部からイタリア半島北部・パンノニア平原(現在のハンガリー周辺)までを勢力範囲とし、ほぼヨーロッパを統一したのです。

800年にシャルルマーニュは西ローマ帝国皇帝の称号をローマ教皇から与えられました。

シャルルマーニュの没後、フランク王国は三つに分裂し、ほぼ現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となったそうです。

歴史的には、フランス・ドイツ・イタリアがフランク王国を起源とするのです。そしてローマ帝国の後継者として、一時期はヨーロッパの大部分を支配していました。

 

その後、様々な経緯を経て、ブルボン朝第3代のフランス国王ルイ14世(1643年~ 1715年)の時期に最盛期を迎えます。1789年にフランス革命が起きて王政は倒れるのですが、ナポレオン・ボナパルトが共和国の権力を握りやがて皇帝となります。

ナポレオン戦争と呼ばれる一連の戦争を通じてナポレオンの軍隊はヨーロッパの大部分を制覇し、彼の一族が新たに作られた国々の王位に即きました。この戦争で数百万人が犠牲となったそうです

ナポレオンはフランク王国の再興を目指したのかも知れません。

ナポレオン戦争の過程で、ヨーロッパでは民族主義が高まり、第一次世界大戦の遠因になったとも言われています。

また、1852年12月2日に第二帝政を開いた、ナポレオン・ボナパルトの甥ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)は、中国、インドシナ半島、メキシコや日本などに積極的に出兵しました。

1870年の普仏戦争敗北により第二帝政は終了するのですが、その後もフランスの海外進出は止まりません。1887年にフランス領インドシナ、1895年にフランス領西アフリカ、1910年にフランス領赤道アフリカがフランスの植民地となります。

 

2015年11月13日にパリ同時多発テロ事件が発生しました。実行犯の多くは、北アフリカの旧支配地域から移住したムスリムの2世・3世だったそうです。彼らは、文化の違いからヨーロッパで孤立感を深め、ISに同調するようになったとも言われています。

そんな事件の後、一人のムスリムの青年が目隠しをし、「私にハグしてください」と言う手書きの看板を持って、パリの街角に立ちました。

彼は、こんな事を街行く人に問い掛けたかったのではないでしょうか。

「私は、ここに居てもいいですか。この国に居てもいいですか。ここは私の居場所ですか。」

居場所が見つからなくて、ISに参加するムスリムの若者が後を絶たないのかも知れません。

それは、第2次世界大戦前後に日本人排斥運動を経験した日本人にとっても、他人事では無いのだと思います。

旧植民地から移住したムスリムの2世・3世も、

シリア難民の子供たちも、

そして居場所の見つからない全ての人々が、

本当の居場所を早く見つけることが出来ますように。

その居場所が、他の人々を傷つけない場所でありますように。

 

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