アルメニアは、2万9,800平方キロメートル(日本の約13分の1。旧ソ連邦の中で最小)、人口300万人(2015年:国連人口基金)、黒海とカスピ海の間にある内陸国で、西にトルコ、北にジョージア(グルジア)、東にアゼルバイジャン、南にイランと国境を接しています。1991年にソビエト連邦から独立しました。
平地はまれで、国土の90%が標高1000〜3000メートルの高地であり、3000m級の山岳も珍しくありません。
国内最大の平地のアララト盆地にある首都のエレバンは、世界最古の都市の1つで、アララト山を見上げる位置にあります。
国の中央部にセヴァン湖があります。大規模な湖としては世界で最も高地(海抜約1900m)にあるものの一つで、この湖の水はソ連時代には灌漑に大量使用されたため、水量が大幅に減ってしまい、1949年に1360km2だった面積が、2005年には940km2となってしまったそうです。
宗教は主としてキリスト教(東方諸教会系のアルメニア教会)です。アルメニアは、国家として、また民族としても、世界で最初に公式にキリスト教を受容した国で、301年にキリスト教が国教となりました。
世界遺産は3つ。何れもキリスト教の関連建築・遺跡です。
その一つ、4世紀初めアルメニア正教の本山として建てられたエチミアジン大聖堂は、世界最古の教会なのだそうです。
また、ゲハルト修道院はアザート渓谷の険しい絶壁上にある修道院です。ゲハルトは「槍」の意で、キリストの磔に使われたと伝えられている聖槍が発見されたことから命名されたといわれています。
その他、991年に創建されたハフパット修道院とサナヒン修道院が世界遺産に登録されています。
隣国であるトルコ及びアゼルバイジャンとは対立関係にありますが、ロシアとの関係が強固で、ジョージアとも良好な関係を維持しています。
トルコとアゼルバイジャンは主にムスリム教スンニ派、ロシアとジョージアはキリスト教正教徒なので宗教上の対立が影を落としているようにも見えますが、ムスリム教シーア派のイランとは良好な関係を維持しているところを見ると、トルコ及びアゼルバイジャンとは対立関係にある原因はそればかりではなさそうです。
現在トルコ領内にあるアララト山は古くからアルメニア人の多く居住してきた地域(大アルメニア)の中心にあたり、アルメニア民族のシンボルです。アルメニアからも良く見えるのだそうです。
旧約聖書にでてくるノアの箱舟が大洪水の後、流れ着いたとされています。標高5,137mの主峰は公式には大アララト山、主峰の東南にあたる標高3,896mの頂上を小アララト山と呼びます。尚、トルコ語ではアール山と呼んでいます。
オスマン帝国がこの地域を支配した時代まではアララト山の麓にはクルド人やトルコ人と入り混じりながらも数百万人のアルメニア人が暮らしてきましたが、オスマン帝国末期、とくに第一次世界大戦中の強制移住によりトルコ領内からはほとんどアルメニア人はいなくなってしまいました。
このとき、相当の数のアルメニア人の人命が失われ、アルメニア人ジェノサイド(アルメニア人虐殺)として国際的非難を浴びましたが、トルコ政府はジェノサイドの事実を否認しており、長らく論争となっています。
この地は、古代文明の時代から大国の狭間で揺れ動いていました。
紀元前6世紀頃には国際的な商業活動を盛んに行っていたと言われ、紀元前1世紀にアルメニア高原を中心に大アルメニア王国を築き繁栄したのですが、ローマ帝国とペルシア帝国の間で翻弄され、両国の緩衝地帯として時に属州となることもありました。
1世紀頃にはキリスト教の布教が行われ、紀元301年には世界で初めてキリスト教を国教としました。
その後ペルシアの支配下に入り、更にアラブの侵攻を受けますが、9世紀半ばにはバグラト朝が興り独立を回復します。
しかしバグラト朝も長くは続かず、イラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝であるセルジューク朝、モンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝であるティムール朝などの侵入が相次いだため国土は荒廃します。
このため10世紀に多くのアルメニア人が故国を捨てることになりました。
1636年にアルメニアはオスマン帝国とサファヴィー朝ペルシアに分割統治されました。
1826年に始まった第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約(1828年)によってペルシア領アルメニアはロシア領となります。
ロシア領のアルメニアではロシア革命後に民族主義者によりアルメニア第一共和国が樹立されるのですが、赤軍の侵攻により崩壊し、1920年にアルメニア社会主義ソビエト共和国が成立し、ソ連の一員となります。
1988年にアゼルバイジャン共和国にあるナゴルノ・カラバフ自治州でアルメニアに帰属替えを求めるアルメニア人の運動が起り、これに反発したアゼルバイジャン人との緊張の中で衝突が起り、両国の本格的な民族紛争(ナゴルノ・カラバフ紛争)に発展しました。
1991年8月19日にソ連で起こった保守派のクーデターの失敗によりソ連が崩壊したのを受け、同年9月にアルメニア共和国は独立を宣言します。1991年12月21日、独立国家共同体(CIS)に加盟、同年12月31日付でソ連邦は解体・消滅した結果、アルメニアは独立国家となりました。
カラバフを巡るアゼルバイジャン人との紛争は現在も続いています。この地はムスリムとキリスト教がせめぎあっている地に見えます。
でも、仲良くかどうかは判りませんが、クルド人やトルコ人やアルメニア人がアララト山の麓で入り混じって暮らしていた時代はあったのです。
民族間の争いは、宗教の対立ではなく、その時々の大国の都合により、起こってしまった様に思えるのです。
今のシリア内戦が中々収束しないのも、大国や周辺諸国の都合によるのかも知れません。
大国や周辺諸国に都合の良い紛争の収束が、シリアの人々の幸せにつながるのかどうかは判りません。
でも、紛争が長引けば、命落とす人が増えていくだけだということは確かです。
そして、子供たちに、笑顔が戻ることもないのだと思います。
早くシリアの地で、子供たちに、笑顔が戻りますように。
このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。
もしisis_chanプロジェクトに興味を持たれたら、こちらをクリックして見てください。
<公式ホームページ>
<公式ツイッター>
https://twitter.com/isisvipper
<新着コンテンツの紹介>
https://daichkr.hatelabo.jp/antenna/960729927021214413
<英語版コンテンツ>
<DTM(UTAU・MMD)ライブラリー>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます