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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その60エチオピア

2016-10-23 18:37:29 | 日記

エチオピアは、面積が109.7万平方キロメートル(日本の約3倍)、人口約9,696万人(2014年:世銀)でアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国です。

首都はアディスアベバ、東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国で、隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家です。エリトリアとは同国が1993年にエチオピアから独立して以降も親密な関係を維持してきましたが、1998年5月に国境問題で紛争が発生しました。

2000年12月和平合意が成立するのですが、国境問題は未解決で、国交正常化には至っていません。アフリカ連合(AU)や国連アフリカ経済委員会(ECA)の本部が置かれるアフリカ地域の中心地の一つです。

首都アディスアベバの大統領宮殿内には、1956年にハイレ・セラシエ皇帝によって造られた日本庭園があり、2013年4月にはこの庭園の修復完成を記念する式典が行われました。

過去10年間連続で約10%の経済成長を達成、2014年の経済成長率は10.3%で世界1位を記録しています。首都のアディス・アババでは、市内に電車が走り出しました。

首都のアディス・アベバは標高2400m、北部は水系が多く東部は砂漠地帯です。

アラビカコーヒー発祥の地とも言われ、スイートチョコの様な香りを持つモカ・コーヒーの豆の産地です。主生産地のひとつであるカファ地方はコーヒーの名の由来といわれています。

一人当たりGNIは550ドル(2014年:世銀)世界平均の5%にも届かない世界最貧国の一つで、旱魃による農業生産の落ち込みや、エリトリアやソマリアからの難民に加え、南北スーダンの軍事衝突による避難民が大量にエチオピア国内に流入し続け、経済に打撃を与えています。

国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という「アエオティプス」から来ていおり、エチオピア人の褐色の肌の色を比喩したものだそうです。本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指すのだとか。

エチオピアはアフリカ最古の独立国および現存する世界最古の独立国の一つなのだそうで、

1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきました。

また、エチオピアに伝わる伝承では、古代イスラエル王ソロモンと、シバの女王の息子ネブカドネザルが、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治したとされているメネリク1世だといわれており、メネリク1世を始祖とし、1974年のハイレ・セラシエ1世廃位に至るエチオピア帝国の王朝は、「ソロモン王朝」として、紀元前10世紀から3000年間存続した最古の王朝となります。

紀元前5世紀に興ったアクスム王国、13世紀に興ったエチオピア帝国のいずれの王もメネリク1世の直系の子孫を名乗り、その地位の正当性に利用しました。

メネリク1世は現在のエリトリアで誕生、ソロモンの元に有ったにあった契約の箱をエチオピアへ運んだと言い伝えられています。

契約の箱を失った古代イスラエルは衰退し、契約の箱を得たエチオピアは3000年の長きに渡り王朝が続いたのだそうです。

もっとも、シバの女王のシバ国シバは、現在のイエメンに有ったという説と、エチオピアに有ったという説とがあります。ただ、イエメンとエチオピアの古代遺跡からは共通の文字が見つかっているとのことですから、イエメンとエチオピアに至る広大な地域がシバ国だったのでしょうか。

北部のアクスム、ラリベラ、ゴンダール、東部のハラールといった古都の遺跡の数々はそのことを伝えているのかも知れません。

歴史家のコンティ・ロッシニはエチオピアを豊かなモザイク文化と称えました。国民の大多数は黒人とアラブ人の混血のエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族集団が存在する多民族国家です。また、以前はユダヤ人も多数居住していたのですが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住しました。

宗教はキリスト教のエチオピア正教会信徒が6割程、ムスリムが4割弱で一部アニミズムを信仰している人々もいます。

古い国ですから世界遺産も豊富で、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件存在しています。

ラリベラの岩窟教会群は12世紀から13世紀にかけての時期に建造されたと推測されている石を刳り貫いて作り上げたエチオピア正教会の教会堂群です。

ステッレと呼ばれるオベリスクが有名なアクスムの遺跡は紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までエチオピア東北部、エリトリア地域に栄えたアクスム王国の中心地でした。アクスム王国には4世紀にコプト派キリスト教が伝来したのだそうです。

歴史的城塞都市ハラールはエチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都で、ハラールの町には87のモスクが存在し、16世紀から19世紀前半にかけてはイスラームにおける聖地の一つとも考えられていました。

また、エチオピア南西部の南部諸民族州にあるティヤ村周辺では来歴が未解明の石碑群が発見されており、1980年にユネスコの世界遺産に登録されています。

エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1200mmを超します。この豊富な降雨量が、エチオピア高原にゆたかな植生をもたらし、また農耕もおこなわれ、アフリカ第2位の人口を支えていたのです。

主食はイネ科の植物であるテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラです。

ただ、主要穀物のテフは粒が小さく収量が低く生産性が悪いうえ、灌漑に頼らず天水農耕で栽培されることが多いため旱魃に弱く、1970年代、1980年代の飢餓を引き起こし、それが長きに渡った王朝が終わる遠因となったのだとか。

ゆたかな植生を持つエチオピアの地は、古くから多数の民族が暮らし、ユダヤ教・キリスト教・ムスリムとアニミズムが共存していました。

そして、伝説のシバ国の時代から紅海をはさんで、イエメン・エリトリア・ジブチ・ソマリアという地と共存してきたのだと思います。

現在、これらの国々では紛争が絶ず、貧困にあえいでいるのですが、平和で豊かな時代は確かに有ったのです。

紛争が絶ないから貧困にあえぐのか、貧困にあえいでいるから紛争が絶ないのか分かりません。

でも、人は自分が幸せでないと人に優しくなれませんから、この地域の人々が幸せになること、それが紛争を終わらせる方法であるような気がします。

エチオピアの経済成長率は世界1位を記録しています。経済発展だけが人々を幸せにするとも言えないのですが、人が幸せになれる一つの要素だと思います。

エチオピアの経済成長が周辺国の人々に恩恵を与えることができたら、この地域の人々が幸せになれる、紛争も収束する、そう信じたいのです。

シリアやイラクの地も、本来、豊かな地であり、宗派を問わず人々が共存していました。

シリアやイラクの地で、人々が幸せになり、人々が人に優しくなれるのか、

きっと回答はあるはずなのです。

そして、負の連鎖が断ち切られ、子供たちに、そして大人たちにも笑顔が戻りますように。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その59アゼルバイジャン

2016-10-10 15:27:57 | 日記

アゼルバイジャンは、面積が8万6,600平方キロメートル(北海道よりやや大きい程度)、人口約950万人(2014年:国連人口基金)、一人当たりGDPは6,800ドル(2014年:IMF)世界平均の8割ほどの水準だそうです。首都はバクー、北はロシア、北西はジョージア(ロシア語名:グルジア)、西はアルメニア、南はイランと国境を接し、東はカスピ海に面しています。

ソビエト連邦を構成する共和国の一つでしたが、1991年8月30日に独立しました。

アルメニアをまたいで西南方に飛地のナヒチェヴァン自治共和国があり、アルメニア、イランおよびトルコと接しており、アルメニア人が多数居住する西部のナゴルノ・カラバフ地方は、事実上独立した状態となっています。

ナゴルノ・カラバフ地方をめぐる紛争はソビエト解体から続き、1994年に一旦停戦合意したのですが、未だに時折戦闘が起こっているようです。

ナゴルノ・カラバフ地方をめぐる紛争では、トルコがアゼルバイジャンを側面から支援していたようです。

ナゴルノ・カラバフ地方はアルメニア系の住民が多く住みます。アゼルバイジャン及びその周辺では、ロシア、ジョージア、アルメニアはキリスト教(正教会)が多数派を占める国、トルコはイスラム教スンニ派、イランはイスラム教シーア派、そしてアゼルバイジャンではイスラム教シーア派が多数派を占めます。

ただ、キリスト教(正教会)の国でもイスラム教は居ますし、イスラム教シーア派の国でもイスラム教スンニ派は居ます。社会が安定していれば、宗教や宗派が異なっていても、同じ地域に暮らすことはできるのだと思います。

アゼルバイジャンはワインの有名な産地であり、コーカサス有数の上質なワインで知られています。「イスラム教の国なのにワイン?」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、イスラム教の国でも良質なお酒を作る国は多いのです。

また、バクー油田など豊富な天然資源があり、ソ連崩壊やアルメニアとの紛争で落ち込んだ経済を支えており、首都バクーでは近代的できらびやかなビルがたち並び、第二のドバイとも言われています。

アゼルバイジャンの歴史は紀元前6~4世紀のカフカース・アルバニア王国までさかのぼります。

3~7世紀にはサーサーン朝ペルシアの支配下に入るのですが、7~10世紀にはアラブの支配下に入ります。ただ、住民はゾロアスター教徒が多く、シーア派の信徒たちも含めてイスラム教への改宗は緩やかだったようです。

13世紀にはモンゴル帝国に編入され、テュルク化が進行します。ちなみに、テュルクとは中央アジアを中心にシベリアからアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって居住する、テュルク諸語を母語とする人々のことを指す民族名称で、現在では、トルコ人・トルコ共和国、ウズベク人・ウズベキスタン共和国、トルクメン人・トルクメニスタン、キルギス人・キルギス共和国、カザフ人・カザフスタン共和国、そしてアゼルバイジャン人・アゼルバイジャン共和国を指します。いずれもイスラム教徒の人々です。

16世紀にはイランのサファヴィー朝の支配下に入り、シーア派を受容します。

テュルクではスンニ派が大多数なのですが、ウズベキスタンでシーア派が多数派を占めるのはこのためです。

その後1813年~1828年のロシア・イラン戦争の結果、北アゼルバイジャンがロシアに併合されます。

1918年5月アゼルバイジャン人民共和国独立宣言から1920年4月バクーにソビエト政権樹立し、アゼルバイジャン・ソビエト社会主義共和国が成立します。

1922年ジョージア・アルメニアと共にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を形成、ソ連邦結成に参加し、ソ連構成する共和国の一つになりました。

アゼルバイジャンは、1989年10月5日共和国主権宣言を出し、ソ連からの離脱を目指すのですが、1990年1月ソ連がバクーを軍事制圧するバクー事件が起きます。

事件の背景にはナゴルノ・カラバフ自治州を巡るアゼルバイジャンとアルメニアの対立があるとされます。アゼルバイジャンでは1989年9月にアゼルバイジャン人民戦線が結成され、アルメニア人組織との対立を続けていましたが、バクーでアゼルバイジャン人とアルメニア人の大規模な衝突が発生しました。連邦政府は軍を派遣しこれを鎮圧しましたが、130名以上の死者を出す大惨事となりました。

この紛争の中で、ゴルバチョフ氏は「イスラム原理主義者が政権を握らないよう、アゼルバイジャンに軍隊を送った。」と表明しています。

一方、歴史学者のアイヂン・バラエフ博士は次のように主張しています。

「20世紀の終わりにソ連の崩壊プロセスはピークに達した。その理由の一つは、加盟共和国に起きていた民族解放運動であった。特に巨大なのはバルト三国やコーカサス、モルドバの民族運動であった。

この共和国に(アゼルバイジャンを含めて)発生した民族運動の主要な目的は主権を求めて戦うことだった。1989年9月23日、アゼルバイジャンはソ連の加盟共和国の中で初めて「アゼルバイジャンSSRの主権について」という憲を採択した。

アゼルバイジャン議会のこのような決定は完全な主権を得るまでの道程において最も重要な行為になった。ソ連中央では、アゼルバイジャンで起きている傾向を止めるのは無理だということが日ごとに明確になっていた。

その結果、アゼルバイジャンの離脱傾向や避け難いソ連の崩壊を阻止するため、ソビエト政権は武力を利用することにした。軍事作戦は、独立を求めてソ連から離脱しようとする全ての加盟共和国を脅かすための政策であった。

アゼルバイジャンが足場として選ばれたのは偶然ではない。なぜなら、アゼルバイジャンは加盟共和国の中で最も「弱い国」の一つと思われていたからである。要するに、バルトや南コーカサスの隣国に比べると、アゼルバイジャンは西の方(西洋諸国)に権力のある庇護者を持っていなかった。しかも、それらの国の中でアゼルバイジャンは人口の大半がムスリムという唯一な共和国だった。

そのことはソビエト指導部に、国際社会の監視下にある一般への武力利用を正当化するために、悪名高き「イスラム原理主義の脅威」いうものをその根拠として利用する機会を与えることとなった。」

「1990年1月20日の原因と結果」より抜粋

http://irs-az.com/new/pdf/201301/1358516927850256464.pdf

何か、ロシアがシリア紛争で主張していることと二重写しになっている気がします。

そして、「イスラム原理主義の脅威」を「独裁政権」と言い換えれば、アメリカがシリア紛争で主張していることと同じように思えるのです。

アゼルバイジャンでは1993年以来、元アゼルバイジャン共産党書記長のヘイダル・アリエフが大統領として政権を掌握し、強権的な政治を引いてきました。2003年にアリエフは健康不安から引退を余儀なくされましたが長男のイルハム・アリエフが後継者に指名されて大統領選挙に勝利し、権力の世襲委譲が果たされました。

この辺り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の体制と似ていると感じる人も居るかもしれませが、シンガポールでも開発独裁という強権的な政治を行っていたリー・クワンユーから、息子のリー・シェンロンに首相の地位が引き継がれています。

シンガポールの国民がそれによって不幸になったとも思えません。要は、国民を幸せにできるかどうか、周辺国や世界の国々とうまく付き合っていけるのかが問われているのです。

その点では、アゼルバイジャンではナゴルノ・カラバフ自治州の問題を除けばうまく行ってます。

シンガポールの例を見れば、必ずしも、独裁が悪いわけではないと思います。ただ、国民を幸せにできるかどうか、周辺国や世界の国々とうまく付き合っていけるのかが問題なのではないでしょうか。

シリアのアサド政権もシリア内の体制派の人々やロシアから見れば、問題ない政権に映るのかもしれません。でもそれは、シリアの国民を体制派に限ればということなのだと思います。

体制派以外の人々がシリア国民として認められないのであれば、体制派以外の人々が取りうる行動は、体制派と戦うか、国外に出るかの二者択一となってしまのではないでしょうか。

シリア内戦の発端は、アラブの春に始まった、独裁政権の打倒・民主化が根底にあるのですが、「イスラム原理主義の脅威」に対抗する大国の介入と民族・宗教宗派間の対立が問題をさらに複雑にしているようです。

アラブの春がパンドラの箱を開けてしまったのかも知れません。

でも、中東には、レバノンのように民族・宗教宗派間の対立が表面化しない微妙なバランスの上で、綱渡りのように平和を維持している国もあるのです。

シリアの子供たちに笑顔が戻る方法、それはきっと有るはず

そう思いたいのです。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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