エチオピアは、面積が109.7万平方キロメートル(日本の約3倍)、人口約9,696万人(2014年:世銀)でアフリカでは、ナイジェリアに次いで二番目に人口の多い国です。
首都はアディスアベバ、東をソマリア、南をケニア、西を南スーダン、北西をスーダン、北をエリトリア、北東をジブチに囲まれた内陸国で、隣国エリトリアは1991年にエチオピアから分離した国家です。エリトリアとは同国が1993年にエチオピアから独立して以降も親密な関係を維持してきましたが、1998年5月に国境問題で紛争が発生しました。
2000年12月和平合意が成立するのですが、国境問題は未解決で、国交正常化には至っていません。アフリカ連合(AU)や国連アフリカ経済委員会(ECA)の本部が置かれるアフリカ地域の中心地の一つです。
首都アディスアベバの大統領宮殿内には、1956年にハイレ・セラシエ皇帝によって造られた日本庭園があり、2013年4月にはこの庭園の修復完成を記念する式典が行われました。
過去10年間連続で約10%の経済成長を達成、2014年の経済成長率は10.3%で世界1位を記録しています。首都のアディス・アババでは、市内に電車が走り出しました。
首都のアディス・アベバは標高2400m、北部は水系が多く東部は砂漠地帯です。
アラビカコーヒー発祥の地とも言われ、スイートチョコの様な香りを持つモカ・コーヒーの豆の産地です。主生産地のひとつであるカファ地方はコーヒーの名の由来といわれています。
一人当たりGNIは550ドル(2014年:世銀)世界平均の5%にも届かない世界最貧国の一つで、旱魃による農業生産の落ち込みや、エリトリアやソマリアからの難民に加え、南北スーダンの軍事衝突による避難民が大量にエチオピア国内に流入し続け、経済に打撃を与えています。
国名のエチオピアは、ギリシャ語の「日に焼けた」という「アエオティプス」から来ていおり、エチオピア人の褐色の肌の色を比喩したものだそうです。本来の意味はアフリカ大陸の広範囲に渡る地域を指すのだとか。
エチオピアはアフリカ最古の独立国および現存する世界最古の独立国の一つなのだそうで、
1936年からの5年間イタリア領東アフリカに編入された時期を除き1270年から1974年までの長きにわたりエチオピア帝国と称してきました。
また、エチオピアに伝わる伝承では、古代イスラエル王ソロモンと、シバの女王の息子ネブカドネザルが、紀元前10世紀頃のエチオピアを統治したとされているメネリク1世だといわれており、メネリク1世を始祖とし、1974年のハイレ・セラシエ1世廃位に至るエチオピア帝国の王朝は、「ソロモン王朝」として、紀元前10世紀から3000年間存続した最古の王朝となります。
紀元前5世紀に興ったアクスム王国、13世紀に興ったエチオピア帝国のいずれの王もメネリク1世の直系の子孫を名乗り、その地位の正当性に利用しました。
メネリク1世は現在のエリトリアで誕生、ソロモンの元に有ったにあった契約の箱をエチオピアへ運んだと言い伝えられています。
契約の箱を失った古代イスラエルは衰退し、契約の箱を得たエチオピアは3000年の長きに渡り王朝が続いたのだそうです。
もっとも、シバの女王のシバ国シバは、現在のイエメンに有ったという説と、エチオピアに有ったという説とがあります。ただ、イエメンとエチオピアの古代遺跡からは共通の文字が見つかっているとのことですから、イエメンとエチオピアに至る広大な地域がシバ国だったのでしょうか。
北部のアクスム、ラリベラ、ゴンダール、東部のハラールといった古都の遺跡の数々はそのことを伝えているのかも知れません。
歴史家のコンティ・ロッシニはエチオピアを豊かなモザイク文化と称えました。国民の大多数は黒人とアラブ人の混血のエチオピア人種が大多数を占め、80以上の異なった民族集団が存在する多民族国家です。また、以前はユダヤ人も多数居住していたのですが、その大多数はイスラエルの「帰還法」に基づき、1980年代から1990年代にかけてイスラエルへと移住しました。
宗教はキリスト教のエチオピア正教会信徒が6割程、ムスリムが4割弱で一部アニミズムを信仰している人々もいます。
古い国ですから世界遺産も豊富で、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が8件、自然遺産が1件存在しています。
ラリベラの岩窟教会群は12世紀から13世紀にかけての時期に建造されたと推測されている石を刳り貫いて作り上げたエチオピア正教会の教会堂群です。
ステッレと呼ばれるオベリスクが有名なアクスムの遺跡は紀元前5世紀頃から紀元後1世紀までエチオピア東北部、エリトリア地域に栄えたアクスム王国の中心地でした。アクスム王国には4世紀にコプト派キリスト教が伝来したのだそうです。
歴史的城塞都市ハラールはエチオピア東部の都市で、ハラリ州の州都で、ハラールの町には87のモスクが存在し、16世紀から19世紀前半にかけてはイスラームにおける聖地の一つとも考えられていました。
また、エチオピア南西部の南部諸民族州にあるティヤ村周辺では来歴が未解明の石碑群が発見されており、1980年にユネスコの世界遺産に登録されています。
エチオピア高原は降水量が多く、年間降雨量は1200mmを超します。この豊富な降雨量が、エチオピア高原にゆたかな植生をもたらし、また農耕もおこなわれ、アフリカ第2位の人口を支えていたのです。
主食はイネ科の植物であるテフなどの穀粉を水で溶いて発酵させ大きなクレープ状に焼いたインジェラです。
ただ、主要穀物のテフは粒が小さく収量が低く生産性が悪いうえ、灌漑に頼らず天水農耕で栽培されることが多いため旱魃に弱く、1970年代、1980年代の飢餓を引き起こし、それが長きに渡った王朝が終わる遠因となったのだとか。
ゆたかな植生を持つエチオピアの地は、古くから多数の民族が暮らし、ユダヤ教・キリスト教・ムスリムとアニミズムが共存していました。
そして、伝説のシバ国の時代から紅海をはさんで、イエメン・エリトリア・ジブチ・ソマリアという地と共存してきたのだと思います。
現在、これらの国々では紛争が絶ず、貧困にあえいでいるのですが、平和で豊かな時代は確かに有ったのです。
紛争が絶ないから貧困にあえぐのか、貧困にあえいでいるから紛争が絶ないのか分かりません。
でも、人は自分が幸せでないと人に優しくなれませんから、この地域の人々が幸せになること、それが紛争を終わらせる方法であるような気がします。
エチオピアの経済成長率は世界1位を記録しています。経済発展だけが人々を幸せにするとも言えないのですが、人が幸せになれる一つの要素だと思います。
エチオピアの経済成長が周辺国の人々に恩恵を与えることができたら、この地域の人々が幸せになれる、紛争も収束する、そう信じたいのです。
シリアやイラクの地も、本来、豊かな地であり、宗派を問わず人々が共存していました。
シリアやイラクの地で、人々が幸せになり、人々が人に優しくなれるのか、
きっと回答はあるはずなのです。
そして、負の連鎖が断ち切られ、子供たちに、そして大人たちにも笑顔が戻りますように。
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