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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その26 マルタ

2015-09-27 16:05:08 | 日記

マルタ共和国は、面積は316KM2東京23区の半分の大きさで、人口40万人程の小国です。イタリアのシチリア島の沖に在ります。年間の観光客は僅か120万人程度、日本人はその内僅か一万人程度で、日本では観光地としてはまだまだマイナーな国です。地中海貿易で繁栄したマルタは教会や料理そして綺麗な海があり、欧州連合の最南端の島国です。

「地中海のヘソ」と呼ばれるマルタ共和国は、小さな3つの有人島と2つの無人島から成り、ヨーロッパの各国のリゾート地として有名なんだそうです。

公用語はマルタ語と英語、地中海では珍しく英語で対応できます。第2次世界大戦後、英語も公用語に指定されました。マルタ語は65%は植民地化が長かったアラビア語が語源。残りの35%は他の宗主国の言葉が混合した合成語です。最後の宗主国は英国で1964年までの164年間統治下にありました。宗教はローマカトリックが主な宗教で、教会が300以上あります。

地中海マグロの水揚げ拠点であり、またマグロの養殖も盛んです。レストランではマグロのステーキなどを食べることができるのだそうです。「そういえばスーパーの鮮魚売り場で(地中海マグロ・産地マルタ)って見たことある。」という方も多いかもしれません。地中海の真ん中という地の利から新鮮な魚介類がふんだんに採れるそうです。

小型犬のマルチーズの発祥の地であり、マルチーズの名はマルタに由来するので犬が多いのではと思うのですが、ネコが多いのだそうです。やはり、新鮮な魚介類がふんだんに採れるからでしょうか。

マルタは乾燥した土地で淡水は限られ、飲み水はイタリアから輸入しています。畑の境界には防風対策としてサボテンがよく植えられています。このサボテンは7月頃に花が咲き、実をつけ、サボテンの実はそのまま食べたり、ジャムやリキュールにして食用にするそうです。

マルタには「シエスタ」が習慣としてあり、正午から16時頃まで多くの店がシャッターを降ろしてしまいます。銀行も営業時間は季節によって異なりますが、おおむね月~金曜日は8時半~12時半、土曜日は11時半まで、日曜日は休みとのこと。暑い国だからでしょうか。

 

マルタの歴史は相当古いのですが、その例として世界遺産のマルタの巨石神殿群があります。マルタの巨石神殿群はマルタ島内、ゴゾ島内で20世紀までに約30の巨石神殿が確認され、そのうち6神殿が世界遺産として登録された巨石建築物です。建造は紀元前4500年から前2000年頃だそうです。

紀元前1000年頃にはフェニキア人が渡ってきて支配者となり、紀元前400年頃にはカルタゴが支配し、その後ローマに支配されますが、その頃から既に地中海貿易で繁栄していたそうです。

870年にアラブ人の侵攻を受け、1127年にノルマン人が占拠するまでイスラム帝国の支配下にありました。地中海とスカンジナビア半島原住のノルマン人が結びつかない方もいるかもしれませんが、ノルマン人は、12世紀にはイタリア南部やシチリア島を支配してます。地中海に進出したノルマン人たちは、ローマ教皇の唱えた十字軍にも参加し、シリア北部の重要都市アンティオキア(アンティオケイア)を首都とするアンティオキア公国を建国しています。アンティオキア公国は十字軍が聖地に建設した十字軍国家のひとつです。

 マルタはその後、1479年にスペインの支配下に置かれ、1530年には、1522年にロードス島を追われた聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)の所領となりました。1565年にマルタ騎士団は、オスマン帝国からの攻撃を受けますが、およそ4ヶ月で撃退に成功しました。世界遺産でもある現在の首都バレッタは、この時のマルタ騎士団の団長ジャン・ド・ヴァレットの名前に因んでいるそうです。南欧風の町並みに無数の教会が点在する世界遺産の町並み。料理も日本人の口に合うと言いますから、一度訪ねて見たいものです。

因みに、サボテンのリキュールは、食後酒として炭酸水+レモンで割って飲むことが多いのだそうです。地中海の海の幸を堪能した後、古い町並みや地中海を見ながら、一杯。とても素敵だと思います。

 

1798年から1801年かけて起こったエジプト・シリア戦役(フランス軍がエジプト・シリアへ遠征した戦役)でナポレオン・ボナパルトによって占領され、その没落後はイギリス支配下に入ります。1964年、英連邦王国マルタ国としてイギリスから独立し、さらに1974年12月13日には、イギリス連邦内のマルタ共和国となりました。

2004年5月1日には欧州連合 (EU) に加盟しています。

マルタ共和国は東西冷戦の終結を告げる歴史的なマルタ会談の舞台としても知られています。1989年12月3日、当時のミハイル・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長兼ソ連共産党書記長とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領がマルタで会談し、戦後44年間続いた冷戦の幕引きを世界にアピール、欧州新秩序づくりへ向けての一致協力をうたいました。東西冷戦が1945年のヤルタ会談から事実上始まり、マルタ会談で終結したことから、その意義については「ヤルタからマルタへ」という言葉で語られています。

地中海という場所柄、様々な勢力がマルタを勢力下に置きました。今では、とても穏やかな小さいリゾート地なのですが、その歴史は紛争の連続だったのかもしれません。この地の平穏がいつまで続くのかは判りませんが、長く続いて欲しいものです。

ルソーはその著作『エミール』の中で、「必要とあらばアイスランドの氷の中であろうと、マルタ島の焼けただれる岩壁の上であろうと、生き抜くことを彼に教えなければならない」と書いています。この地がいかに過酷な自然環境とみなされていたかがうかがえる記述です。そんな土地柄でも平和が続けば、人々が安心して暮らしていける。マルタの事を書き綴りながら、そんなことを思いました。

中東の地も過酷な自然環境なのですが、紛争が無くなり平和が続き、人々が安心して暮らしていける状況になれば、他の国に難民や移民として移り住みつつある人々も戻って来る気がします。

自分の住んでいた町、それがどんな町であっても何時かは帰りたい。紛争地域から避難した大人も、子供たちもそう思っているのではないかと思います。

子供たちが夢に出てくる自分の住んでいた町、その町に帰れる日が来ますように。

 

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その25 インド

2015-09-19 19:15:01 | 日記

今回はインドについてです。このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしているのですが、インドに適したイラストは見つかりませんでした。何せインドですから。

その代わり、楽しい4コマ漫画を挿絵代わりに使います。

作者の許可は取ったのかと気にされる方もいると思いますが、商業利用ではないのでノープロブレムです。それに私の拙いブログをお読み頂けると、楽しい4コマ漫画も楽しめますのでお得です。

さてインドの事ですが、インドを良く知っている人同士が話しをすると、「インドですから。」という言葉で全て分かり合えるのだそうです。インドにまつわる都市伝説の一つです。

 

インドについては、他にも都市伝説がいくつもあります。やはり悠久の歴史を誇る大国だと思います。その内のいくつかを紹介し、それが単なるデマであるということを書かせていただきます。

・インドの飯はカレーしかない。

パッケージ旅行でインドに行った人の話を聞くと、ホテルではカレー以外の料理がふんだんに有ったそうです。旅費の少ない個人旅行者が、リーズナブルに食事をしようとするとカレーになってしまうので、それが大げさに伝わっているのだと思います。カレーと言っても煮込み料理全般がカレーです。ちなみに、味付けは南に行く程辛味が増します。また、カレーと一緒に出てくるナンが「随分薄いなあ」と思った人もいるかも知れません。それは、ナンではありません。チャパティと言ってナンとは別物です。

・インドは暑い。

確かに有名な観光地や大都市は暑い所にありますから、当然暑いです。でも、お茶の産地は熱帯地方では無く、温帯地方です。お茶の産地は、きっとそれ程暑く無いと思います。それに地図で見ると、ネパールに近い所は標高が高そうですから涼しいかも知れません。私はインドで涼しい所に行ったことはないのですが、きっとそうに違いありません。

また、南の方でもIT産業の盛んなバンガロールは、暑さに弱い欧米人も暮らしているので、時期によってはそれ程暑くないのかと思いますし、ホテルや会社にはエアコンが有るので問題無いのだと思います。

・インド人は謝らない。

私は、インド人に謝ってもらうような状況に遭遇したことが無いので推測になりますが、インド人は自信に満ちた表情をしている人が多い気がしますので、そんな人からI’m sorryと言われたら、「そいつは残念だったな。」と言っているとしか思えないと言うことなのでは無いかと思います。

・インド人がノープロブレムと言った場合、かなりの確率で問題である。

私は、インド人がノープロブレムと言った場合、本当にノープロブレムだったという経験があります。問題だった時もあるのですが、それは悠久の歴史を生きて来たインド人に取ってはノープロブレムの事象であり、インド人と日本人の感性の違いなのだと思います。

 

ウィキベディアによれば、

「インドの歴史は古く、紀元前2500年頃のインダス文明に遡り、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教などの宗教の発祥地でもある。1858年から始まる大英帝国の植民地支配から、長い独立運動の末、1947年に独立を果たした。またインドは、有権者数約8億人を持つ世界最大の民主主義国でもある。」と記載されています。

インドを個人で旅行をしたことの有る人にしてみたら、「それがどうした。」と言いたくなる文章だと思います。植民地支配自体は非難されるべきだと思いますが、個人的には「良く大英帝国はこの地を統治できたもんだ。」と思いますし、「インド統治で疲れきったのが大英帝国の国力の低下の遠因ではないか。」と思ったりもします。もっとも、英国人は日本人より精神的にタフなのかも知れませんが。

面積は約3.3百万平方キロ、日本の約9倍、人口は12.1億で日本の約10倍というデータが有りますが、そうすると日本と人口密度がほぼ一緒ということになります。「そんなばかな。」と思うのですが、正式な数字ですから正しいのでしょう。

公用語は22言語あります。もう公用語とは言えないのではないでしょうか。主な宗教はヒンドゥー教徒80.5%、ムスリム教徒13.4%という数字がありますが、地方によって偏りがありますし、とにかく大きい国ですから数字に意味はないかも知れません。

 

日本に縁の有るインド人は数多くいます。

日本を基盤として独立運動を行った「ラース・ビハーリー・ボース」はカレーパンの元祖の一つという伝説もある、中村屋のカレーパン創生に貢献した人ですし、同じく独立運動家であったA.M.ナイルは東京都中央区銀座に日本初のインド料理専門店「ナイルレストラン」を開店しています。ナイルレストランは今でも東銀座駅近くで営業しています。同店は現在も三代目が引き継いで盛業なんだそうです。いずれの人も、日本に本格的なインド式カレーを伝えた功績でよく知られています。

その他、1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。インド代表判事ラダ・ビノード・パール(パール判事)は歴史の教科書に出てくる人ですが、歴史の授業は第二次世界大戦までで時間切れになることも多いので、聞いたことの無い人も多いかも知れません。

そんな経緯もあり、インド人は親日的な人も多いとどこかに書いてあった気がしますが、どこに書いてあったかは忘れました。気のせいかも知れません。

 インド商人は印僑と言われ、華僑同様全世界で活躍しています。あの凄腕の商人である華僑達も、印僑と競合することを避けるのだそうです。なんとなく、分かる気がします。もっとも、印僑の人々に言わせるとロンア商人のずうずうしさには勝てないとのことですし、ロシア商人もユダヤ商人には勝てないのだそうです。ロシア商人がユダヤ商人に勝てない理由は定かではありませんが。

商人と言えば、アラブ商人も以前は有名だったと思います。商品を高値で売付ける才能は他の商人の追従を許さないものだったそうです。

中東地域の紛争が終わり、経済的にも復興すればアラブ商人の活躍がまた見れるのかも知れません。印僑とアラブ商人が競合したらどちらが勝つのか、見てみたいものです。

そのとき活躍しているアラブ商人の中には、今、難民となっている子供達が居るのかも知れません。

そんな時代が早く来ますように。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その24 ベトナム

2015-09-13 18:15:23 | 日記

皆さんはベトナムと言ったら何を思い出すでしょう。フォー・生春巻きに代表されるベトナム料理、アオザイを着ている女性でしょうか。旅行先としても人気が高く、北部のハロン湾、旧ハノイ(タンロン)城跡、中部のチャンバ遺跡のあるミーソンなどが観光ポイントかと思います。古い町並みが残るホイアンは世界遺産に登録されており、来遠橋(日本人橋)は昔この町に日本人が住んでいた名残です。ニャチャンというビーチリゾートも有ります。

ベトナムは、面積約33万平方キロメートル(本州の約90%)人口約9,170万人の東南アジア国です。北に中国、西にラオス・カンボジアと国境を接しており、首都はハノイです。

1975年までは南北に国が分かれており、北の首都がハノイ、南の首都がサイゴン(今のホーチミン市)でした。

人々は殆どが仏教で親日的な人が多いのだそうです。親日的なのは、第2次世界大戦後の独立戦争で、旧日本兵士が一緒に戦ったからとか、お互いに中国という国が隣国だからとか言う説もあります。

アオザイ姿の女性を街中で見かけることはあまりありませんが、高級料理店とか、一流企業の受付には居るのかもしれません。女学生の制服はアオザイらしいのですが、こちらも時間が合わなければ、一介の旅行者が見かけるのは難しいのでしょう。

美人が多いという印象はあります。もっとも、社会主義国家のせいか、建前上結婚を前提としない自由恋愛は禁止させているようですし、浮気をした夫には、とても言葉では言い表せない仕打ちをする妻も居るとか。ベトナムの女性を恋人にするのは、それなりの覚悟が必要かもしれません。

 

ベトナムの国としての期限は定かではありませんが、紀元前111年に漢・南越戦争が起こったそうですから、国の起源はそれ以前となります。13世紀には元の侵攻を三回に渡り防いでいます。19世紀にフランス領インドシナ連邦の一部となります。

第2次世界大戦後の独立戦争の結果、ベトナムは北ベトナムと南ベトナムに分かれます。北ベトナムの後ろ盾として、中国とソビエト(ロシア)、南ベトナムは当初フランス、その後アメリカが後ろ盾になり、泥沼のようなベトナム戦争が続くのです。1975年には北ベトナムが勝利し、南北ベトナムが統一されました。

ベトナム戦争とそれに続く混乱の中で、ベトナムを始め、ラオス・カンボジアの多くの人々が難民となりました。その総数は144万人に達したそうです。その内約130万人がアジア地域の難民キャンプを経てアメリカなどの第3国に定住し、日本の11千人ほど受け入れています。兵庫県姫路市と神奈川県大和市に定住促進センターが設けられました。

ミュージカルのミス・サイゴンは、ベトナム戦争終結前後を舞台としたベトナム人女性と米兵の切ない恋の物語です。米兵の妻としてアメリカに渡ったベトナム人女性も多いのだそうです。

 

ベトナム戦争の終結から約40年。今ではベトナムも経済が発展してきており、日本企業の進出も盛んです。ベトナム帰国したベトナムも多く、中には大富豪になった人も居るようです。

シリア難民の人々がシリアに帰国できるようになる為には、やはりそれぐらいの年月が必要なのかもしれません。でも、終わらない紛争は無いのだと思います。その頃には子供達が大人になり、活躍しているのかもしれません。

シリア難民やその他の地域の難民の子供たちが、いつの日が母国に帰り、活躍できる日が来ますように。

 

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isis_chanとisil_kun(ムスリムの子供達)その23 ルーマニア

2015-09-05 19:29:36 | 日記

ルーマニアは、面積約23.8万平方キロメートル(本州とほぼ同じ)人口約2,000万人の東ヨーロッパの国です。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面しており、首都はブカレストです。北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれています。

106年にローマ帝国に支配され属州ダキアとなりました。国名のルーマニアは「ローマ人の土地(国)」を意味しているそうです。

中世にはワラキア、モルダヴィア、トランシルヴァニアの3公国がありました。完全な独立ではなく、トランシルヴァニアはハプスブルク家の支配下でしたし、ワラキアとモルダヴィアは15世紀から16世紀にかけてオスマン帝国の属国でした。

ルーマニアで有名なのはワラキア公ヴラド3世(1476年没)でしょうか。通称串刺し公、ドラキュラ公とも言われています。小説や映画の『ドラキュラ』に登場する吸血鬼・ドラキュラ伯爵のモデルだそうです。父ヴラド2世は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に叙任されたため、ドラクルと言う別称が有りました。ドラキュラはトラクルの子供と言う意味だそうです。

1459年、ヴラド3世はワラキア領内の大貴族を打倒して権力を掌握して中央集権化を進め、公の直轄軍を編成し、さらにオスマン帝国への貢納を拒否しました。オスマン帝国がワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、ヴラドは使者を生きたまま串刺し刑にしたそうです。

その後オスマン帝国は大軍を率いてワラキアに何度か侵攻したが、ヴラド3世はゲリラ戦と焦土作戦でもって激しく抵抗し、その都度撃退しました。1462年の戦いではヴラド3世は、ワラキアの首都トゥルゴヴィシュテ城外で多数のオスマン帝国兵を殺傷し、串刺しにして並べたそうです。それを見て戦意を失ったオスマン帝国のメフメト2世はワラキアを撤退しました。そのことから串刺し公という通称も付きました。

現在は、故国を侵略から守るために戦った英雄として再評価されていそうですし、2012年にルーマニアの観光キャンペーンのビデオ内で、イギリス王室のチャールズ皇太子が、ヴラドの子孫であると名乗ったそうです。

ルーマニアの観光名所であるブラン城はドラキュラ城として知られていますが、この城は、ドラキュラ公ヴラド3世の祖父にあたるミルチャ老公が14世紀に居城としたもので、ヴラド自身は一時期とどまったに過ぎないとか。

 

もうひとつ、ルーマニアで思い出されるのはルーマニア革命です。1989年12月、大統領のニコラエ・チャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のワシーリ・ミリャの急死をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、治安部隊との武力衝突に陥った。民主化勢力は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑したのです。

1945年5月8日の敗戦によってルーマニア王国が崩壊し、ソビエト連邦軍の占領下で、ルーマニア共産党による一党独裁国家であるルーマニア社会主義共和国が成立しました。

 ルーマニア社会主義共和国は、他の東欧諸国とは一線を画し、ソビエト連邦とも一定の距離を維持する独自外交を行っていました。これはルーマニアが産油国であり、ソビエト連邦に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源の確保が可能だったそうです。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立しました。

 しかしながら、1980年代に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まりました。国民の生活水準は低下した一方で、チャウシェスク自身は豪華な宮殿を建設するなど国民を無視するような政治を続けたために、独裁政権に対しての不満が日増しに強くなりました。こうした中、1989年に入り中国で天安門事件が起こり、東欧でもポーランドを皮切りに各国の共産党政権が次々と倒れると、ルーマニアでも次第に民主化を求める機運が高りました。これがルーマニア革命につながるのです。

シリアのアサド大統領が強硬なのも、チャウシェスクと同じ運命をたどりたくないと考えているからと言う説もあります。

 

多数のオスマン帝国兵を殺傷し、串刺しにして並べたワラキア公ヴラド3世。ISの残虐行為になぜか重なるのです。戦いの中で正常な感覚が麻痺してしまうのでしょうか。残虐な行為は第2次世界大戦やベトナム戦争、その他の紛争でもありました。

戦争は麻薬という言葉もあり、それは戦争が魅力的ということなのですが、その麻薬を常用することにより、精神が病んでしまうのかも知れません。

紛争地域の子供達が、そして大人達も、紛争という麻薬でこれ以上精神が病んでしまう前に、紛争が終わりますように。

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