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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その54 メキシコ

2016-07-31 15:53:51 | 日記

メキシコは、196万平方キロメートル(日本の約5倍)、約1億2,701万人(2015年国連)、北にアメリカ合衆国と、南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面しており、首都はメキシコシティ、公用語はスペイン語です。

スペイン語圏においては最も人口の多い国だそうです。

メキシコという国名は、アステカの言語ナワトル語で、「メシトリの地」という意味だそうです。メシトリ(別名ウィツィロポチトリ)は、アステカ族の守護神です。太陽と戦いと狩猟の神で、アステカで最も信仰されていました。この神の名に、場所を表す接尾語「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めてつけられました。

メキシコの民族は欧州系(スペイン系等)と先住民の混血(60%),先住民(30%),欧州系(スペイン系等)(9%),その他(1%)、国民の約9割がカトリック教徒です。

19世紀末には榎本移民団によるメキシコへの移住が始まり、第二次世界大戦後まで続きました。移民者の数は総計10,000人余りに達し、その子孫約2万名が現在でも日系メキシコ人としてメキシコの各地に住んでいます。

因みに、1613年(慶長18年)に仙台藩主伊達政宗の命を受けた支倉常長は、ローマ教皇に謁見すべくメキシコ、スペインを経由しイタリアのローマに向かいました。歴史の教科書の中では慶長遣欧使節として出ていますから、覚えている人もいるかも知れません。

この地は、紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興り、紀元前2世紀から6世紀までテオティワカン文明、また、アステカ文明が15世紀から1521年まで栄えました。

その遺跡群と、スペインのメキシコ侵略によるアステカ文明滅亡後に作られたスペイン風の宗教建築などが、世界遺産に登録されています。

平均的には非常に温暖な気候で、沿岸部には世界的に有名なビーチリゾートがたくさんあります。東部・カリブ海沿岸ではカンクンなど、太平洋沿岸の西南部ではアカプルコやイスタパなど、西端にあり太平洋に面する細長いバハカリフォルニア半島のカボ・サンルーカスやラパスなどがこれに該当し、世界中から観光客を引きつけています。

因みに、アメリカ合衆国のテキサスやカリフォルニアは以前メキシコでした。

現在のテキサスにアメリカ合衆国人の入植を認めると、1835年にはアングロサクソン系入植者が反乱を起こし、1836年にテキサス共和国として独立しました。

その後、アメリカ合衆国が1845年にテキサスを併合すると、1846年にはテキサスを巡りアメリカ合衆国と米墨戦争が起こりましたが、メキシコはメキシコシティを占領されて1848年に敗北しました。その結果、テキサスのみならずカリフォルニアなどリオ・ブラーボ川以北の領土がアメリカ合衆国となったのです。

これが、いわゆるメキシコ割譲地です。

アメリカとメキシコの間に壮大な壁を作るという話もありますが、テキサス、カリフォルニアをメキシコから奪っておいて、壁を作るとはよく言えたものだと思います。

もっとも、この地はスペイン人がアステカ人などから奪った土地ですから、奪った土地を奪われるということなので何とも言いようがありませんが。

首都のメキシコシティはメキシコ最大の都市であり、都市圏人口は約二千万人、メキシコのみならずラテンアメリカの経済の中心地の一つです。

メキシコシティは、もとはアステカ王国の首都であった「テノチティトラン」です。ここは、アステカ人がやって来るまでテスココ湖が広がるのみでした。13世紀末にメキシコ盆地にやってきたアステカ人は、神託に従い、テスココ湖の湖上で干拓を行い、1325年に島を作り上げるとそこに都を築きました。アステカ帝国の拡大に伴いテノチティトランも巨大になり、最盛期には人口は20万人から30万人を数えたそうです。

都市から対岸には何本かの土手道が築かれ、中央部にはピラミッドの築かれた壮麗な都市となりました。テスココ湖は塩分を含んでいましたが、南東部には湧水があったため南東部は汽水域となっていた。そこで南北の土手道で湖水を遮断することで東部を淡水域化し、テノチティトラン周辺の農業用水とし、また、飲料水は西部の丘より石造りの水道橋で供給されていました。

15世紀以降、テスココ湖やその周辺では沼地の表面の厚い水草層を切り取り、敷物のように積み重ねてつくった浮島の上に湖底の泥を盛り上げ、農地が多く作られました。この農法は肥沃な泥と豊富な水が得られることから非常に収量が高く、アステカの国力を支える重要な要素となったそうです。

アステカ帝国は技術水準も高く、豊かな国だったようです。

1519年にスペイン人のエルナン・コルテスのメキシコ征服によりテノチティトランは破壊され、その上に現在のスペイン風の都市が築かれました。

メキシコシティの中心街のソカロ周辺は、アステカ王国時代のテノチティトランの都の中心部とほぼ同じ位置にあり、カテドラル(大聖堂)と国立宮殿(大統領官邸)の中間の位置からテノチティトランの中央神殿が発掘され、野外博物館となっています。この一帯は「メキシコシティ歴史地区とソチミルコ」として世界遺産に登録されています。

スペイン人はアステカ帝国の神殿を破壊し、その上に大聖堂と宮殿を建てたのです。

スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設しました。

アステカ帝国の人口は征服前約1100万人であったと推測されていますが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていました。スペイン人は暴虐の限りを尽くした上に、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減したそうです。

メキシコのGDPは11,443億ドル(2015年)であり、世界15位で韓国とほぼ同じ経済規模、ラテンアメリカではブラジルに次いで2位です。一人当りGDP(名目)は9,009ドル(2015年)で世界平均を若干上回ります。

カリブ海沿岸地域を中心にして油田が多く、大きな外貨獲得源になっています。

銀の埋蔵量については、現在でも世界第2位であり、16~19世紀初期までの銀の埋蔵量は世界の生産量の半分を占めました。銀の他には銅の埋蔵量世界第3位、鉛と亜鉛は第6位、モリブデンは第8位、金が第11位であり、世界有数の生産量を誇っています。

また、20世紀前半より工業化が進んでおり、自動車や製鉄、家電製品の生産などが盛んで日系企業の進出も自動車工業を中心に増えています。アグアスカリエンテスを中心としたメキシコ中央高原都市に200社以上が部品工場や大規模倉庫などを建設中で、日本からの投資の90%近くがこの地域に集中しており一大進出ラッシュとなっています。

とりわけアグアスカリエンテスは、1966年から日産の工場が進出した事もあり、大規模な新工場が出来つつあります。この地はアメリカの平均よりも犯罪発生件数が少なく、真夜中にも多くの飲食店が開いており、日本人の家庭には人気の移動先になって来ているそうです。

メキシコの最大の課題は,米国への不法移民,麻薬及び麻薬と関連した治安問題の解決です。

特に麻薬及び麻薬と関連した治安問題は「メキシコ麻薬戦争」とも呼ばれ、麻薬組織同士の縄張り争い、および麻薬密売の取締を推進するメキシコ政府と麻薬組織との間で進行中の武力紛争で、2006年から2011年までのおよそ5年間に麻薬組織による犯罪や抗争に巻き込まれるなどして4万7515人が殺害されたそうです。

麻薬戦争は今でも進行中だそうです。

今年の1月2日には、麻薬組織など犯罪組織の撲滅をうたい就任したばかりの女性市長が、5人の武装集団に襲われ、家族もろとも射殺されました。

麻薬組織は殺すだけで済むものを、四肢を切断し、首を切り、車や物、時に動物の上に載せてみたり、歩道橋につるしたり、反麻薬組織運動の女性の腹を割いて内臓を出すといった残虐な行為を行います。

もっとも、マフィアはどこも残虐であり、残虐な犯罪はメキシコだけの話ではありません。さらに戦争の残虐さはどの地域も同じです。

違う点といえば、メキシコの麻薬組織は遺体や殺害状況をネットで頻繁に流しているそうです。恐怖による支配を目指しているのかもしれません。

ISに通じるものがあるようにも思えます。

ノーベル文学賞を受けたメキシコの詩人、オクタビオ・パスは「メキシコ人は死を軽視する。それは、死は生の結末ではなく、円環のように生と死が交互にやってくる。また生の中に死が入り込んでもいる。死は生の映し鏡であり、生がむなしいからこそ、死もまたむなしい。」と考えているそうです。

「なぜ、そうなのか。それは、メキシコ人は、ぼんやりとでも、自分の中に消しがたい「しみ」を隠しているからだ。自分自身を全面的に肯定できない傷、暗さを抱えている。

それは、大多数の先住民が少数のスペイン人に犯され、隷属させられ「メキシコ人」を名乗らざるを得なかった運命から来ている。自分たちのアイデンティティーは「犯された女の子供たち」であり、恨む相手も敵も自分たちの中にいる。だから、楽天的にあっけらかんとは自己肯定できない。」とパスは続けます。

「死は生の結末ではなく、円環のように生と死が交互にやって来る。」それは仏教の輪廻転生と同じ思想なのかも知れません。

上座仏教の信仰の厚いタイでは、死体を扱った雑誌がよく読まれているそうです。

「死体はただの物」そんな風に考えているのかも知れません。

でも、殆どのメキシコ人も、タイ人も、残虐な行為は行いません。

では、残虐な行為を行うのは、自分の中に消しがたい「しみ」を隠しているからなのでしょうか。

自分の中の消しがたい「しみ」、それは多かれ少なかれ皆が持っている物なのかも知れません。

自分の中の消しがたい「しみ」が大きくなった時、そして、自分の心をコントロールする力が弱まった時、他人を傷つけてしまうのではないではないでしょうか。

それは、日本の社会でもイジメやヘイト・スピーチだけでなく、残虐な犯罪として現れるのかも知れません。

消しがたい「しみ」を大きくしない、自分の心をコントロールする力を弱めない、その為にも幸せに暮らせたら良いのでは、

そんな気がします。

ISの信奉者となり、人を傷つけてしまう人々、それは、消しがたい「しみ」が大きくなってしまったか、自分の心をコントロールする力が弱まってしまった人々なのではないかと思います。

中東地域の子供たちの消しがたい「しみ」が、これ以上大きくなりませんように。

幸せに暮らせる日々が早く来ますように。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その53 ポルトガル

2016-07-17 22:00:04 | 日記

ポルトガルは、91,985平方キロメートル(日本の約4分の1)、人口約1,037万人(2014年)、ユーラシア大陸最西端の国で、お隣はスペインです。

15世紀にはエンリケ航海王子、ヴァスコ・ダ・ガマ等の活躍により大航海時代の先駆者となりました。

首都のリスボンは人口57万人弱、イベリア半島最長の川テージョ川の河口に広がる都市で、石畳の道路や行き交う路面電車など、素朴で趣ある街並みが美しい都市です。

海上交易の拠点として、紀元前3世紀にはローマ帝国、8世紀以降はイスラム、ムーア人が町を支配してきました。迷路のような街並みや、絵タイル・アズレージョに彩られた建物などに、今でもイスラムの影響を見ることができるのだそうです。

1255年にポルトガルの首都となり、15~17世紀にかけての大航海時代にもっとも栄えました。

ジェロニモス修道院は16世紀のポルトガルの栄光を今に伝える白亜の大寺院です。マニュエル1世(1469~1521年)が、ヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た巨万の富を費して建てたものです。16世紀初頭の着工から300年以上の期間をかけて19世紀に完成し、その完成度の高さからポルトガル建築の最高峰と讃えられているそうです。

ポルトガルの民族歌謡「ファド」の発祥の地としても知られ、レストランなどでもその独特な歌声を気軽に聞くことができます。

余談ですが、約30キロ弱西方の郊外にあるカスカイスという駅が、ユーラシア大陸最西端の駅なのだそうです。ユーラシア大陸最西端であるロカ岬に向かうバスもここから出ています。また、カスカイス市域内には国際的なリゾート地で、カジノもあるエストリルがあります。

ポルトガルはリスボン以外にも観光資源が豊富で、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在しています。

その一つ、ポルト歴史地区も栄光の時代の名残です。ポルトはポルトガル第2の都市で、聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂などがあります。

ポルト(ポート)ワインはこの地名産の甘口ワインです。アルコール度数は20度前後と通常のワインの10〜15度に対し5〜10度程も高く、保存性が非常に優れているのだそうです。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類されます。

11世紀のレコンキスタ(国土回復運動)以降、この国はポルトを起点に南へと国土を広げていきました。

ポルトガルと日本の関係は戦国時代にまでさかのぼります。

日本史が余り得意でなかった人も、鉄砲伝来とフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教については覚えているでしょうし、今、日本史を習っている人は戦国時代から安土桃山時代及び江戸時代初期の重要事項ですから覚えておきましょう。

1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸でした。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行い、その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始されます。

1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開して行きました。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に伝えられた一方、日本からは銀などがポルトガルへ輸出されました。

同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、1582年には天正遣欧少年使節の派遣なども行われました。

1587年に豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡されます。江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は続き、1614年にはキリスト教禁止令が出されます。家康の晩年には、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限されました。

1620年(元和6年)には平山常陳が船長をつとめる朱印船が、当時入国を禁じられていた2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されたという平山常陳事件が起きます。

これが徳川幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となりました。

1636年には、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族がマカオへ追放され、ポルトガル人は長崎の出島に隔離されます。

1637年に島原の乱が起こると、キリスト教徒の結束を恐れた幕府は布教を行う可能性のあるポルトガルとの貿易を取り止めました。

因みに、桶狭間の戦いが1560年、長篠の戦いが1575年、本能寺の変が1582年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たしたのが1590年、関ヶ原の戦いが1600年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのが1603年です。

徳川家康は朱印状を発行し、東南アジア諸国と朱印船貿易を行いました。東南アジア各地に日本人町ができたのもこの頃です。

詳しくは、日本史の教科書や参考書を読んでください。

2016年夏季オリンピックの開催地はブラジルのリオデジャネイロです。

ポルトガルはその昔ブラジルでした。

ブラジルがポルトガル領だったということではないのか、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、1808年から1821年までリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都でした。ですから、この時代はブラジルがポルトガルだったのです。

この地の歴史は古くに遡ります。

地中海に面する地域は古くから東方との交易が盛んで、フェニキア人とギリシア人の植民市が建設されました。フェニキア人が北アフリカに建設したカルタゴが西地中海で有力となり、前6世紀中ごろその勢力がイベリア半島のギリシア系都市を制圧しました。

カルタゴが滅びた後は、ローマ帝国がこの地を支配するのですが、その後、ゲルマン人、バルト海南東海域に住んでいたスエヴィ人、現在のフランス南部からイベリア半島に進出しつつあった西ゴート王国の西ゴート人が覇権を争います。西ゴート王国は585年にイベリア半島を統一するのですが、711年にウマイヤ朝のイスラム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラム支配下のアル=アンダルスに再編されました。

アル=アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラム文化の中心として栄えたのです。

キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まりました。

1143年にはカスティーリャ王国を宗主国としてポルトガル王国が成立しました。因みにカスティーリャ王国はキリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった国です。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了しました。

1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放されレコンキスタが完了しました。1255年には首都が中央部のコインブラからリスボンに遷都されています。

1297年にはカスティーリャ王国(スペイン)との国境を定めるためにアルカニーゼス条約が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっています。

レコンキスタ完了後は、ペストの流行や1337年から1453年にフランスとイギリスとの間でおきた百年戦争に連動し親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立との戦争が続く中、1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャから独立しました。

ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略しました。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年~1460年)を中心として海外進出が本格化し、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進みます。

1543年には種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)します。

その後王朝が変わったり、スペインに併合されたりするのですが、

1789年のフランス革命によってフランス革命戦争・ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にフランスのジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れます。

ポルトガル本国はスペイン独立戦争に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退しましたが、王室はブラジルから帰還する気配を見せませんでした。

ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続きましたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐されました。翌1821年に憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行しました。

ジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを擁立し、ブラジル帝国が独立します。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失しました。

ポルトガルはその後内戦や、王党派と共和主義者の対立で混乱が続いた後、1910年10月には革命が成功し、ポルトガルは共和政に移行しました。

革命後、幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返し政治的な混乱が続きます。

1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれました。

軍事政権は第二次世界大戦でも親連合国的な中立政策で乗り切りました。

しかし、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していく中、1961年アンゴラ独立戦争、1963年ギニアビサウ独立戦争、1964年モザンビーク独立戦争が始まり、ポルトガルは疲弊していきます。

1974年4月25日ヨーロッパで最も長い独裁体制に対する革命が起き、軍事政権は終わると共に、マカオ以外の植民地の独立を認めます。

この革命はカーネーションがシンボルとなったのでカーネーション革命と呼ばれており、

別名は「リスボンの春」です。

革命後、1986年のEC(現在のEU)加盟へ参加しますが、経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがあるのだと言います。

チュニジアから始まった民主化運動「アラブの春」は、ポルトガルの「リスボンの春」に範を取ったのだとも言われています。

リスボンの春も、アラブの春も、人々が今より居心地の良い場所を作ろうとして起こした革命でした。

でも、ポルトガルでもチュニジアでも経済状態は良くなっておらず、移民する動きが出ているのだと思います。

「ここには働き口が無いから。」「ここでは良い生活が出来ないから。」そんな理由で外国に移り住むのでしょう。日本もブラジル移民を出した国ですし、不況の折には海外で就職する若者も居ましたので、人ごとではありません。

東南アジアの田舎では、海外に出稼ぎに行く人も居るのですが、移民する人は余り聞きません。

出稼ぎに行った人も、お金を稼いで田舎に帰って来ます。「お金は稼げないけれど、ここが一番暮らしていて楽。」なのだそうです。自分の生まれ育った村や町が一番居心地の良い場所なのでしょう。

店の奥でおばさんとネコが昼寝をしている雑貨店、その店先で男達が昼間からビールを飲んでいます。私に向かって「一緒に飲もうぜ。」と誘い、「金が無くなったら、また出稼ぎに行くんだ。でも、金が出来たらすぐ帰って来るさ。ところで、俺の家で晩飯でも食わないか。」と話を続けます。

争いの無い、平和で穏やかな村だからだと思うのです。

難民・移民を出している村や町でも争いが終わり、平和で穏やかな場所になれば、居心地の良い場所になるのかも知れません。

そうすれば、「金が出来たらすぐ帰って来るさ。」という場所になり、村や町でお金が稼げれば、出稼ぎに行くこともないのでしょう。

夕食時には一家そろって食事をし、妻は客人が居るのもお構いなしに子供たちの出来の悪さを子供と夫に向かって嘆き、子供たちは、母親の嘆きを聞き流し笑ってごまかし、夫は、妻の嘆きをうわの上の空で聞いていて「まったくだ。」などと適当な相槌を打ちながらも、客人に向かって少し困ったような顔をする。

シリアの村や町がそんな素敵な場所になったら、シリア難民の子供たちにも笑顔が戻るのかも知れません。

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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その52 南スーダン

2016-07-03 21:33:01 | 日記

南スーダンは、64万平方キロメートル(日本の約1.7倍)、1,191万人(2014年)、東アフリカに位置する国家。北にスーダン、東にエチオピア、南東にケニア、ウガンダ、南西にコンゴ民主共和国、西に中央アフリカと国境を接する内陸国です。

かつてはイギリスの植民地でしたが、イギリス連邦(コモンウェルス、イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、緩やかな国家連合)にはスーダンと同様加盟していません。

IMFの推計によると、2013年の南スーダンのGDPは140億ドルで、一人当たりのGDPは1,289ドルであり、ケニアとほぼ同額、エチオピアよりずっと多いのですが、その98%は石油によるものであり、実際の庶民の生活は決して裕福では無いのだそうです。

南スーダンは2011年に独立した世界で最も新しい国です。しかし計40年以上に及ぶ内戦の影響で、日本の約1.7倍の広さがある国土全域で開発がほとんどなされておらず、保健、教育、水供給などの基本的な社会サービスや、電力、道路などの基礎的なインフラが決定的に不足しているのだそうです。

国民の大半が農業に従事し、肥沃な土地にも恵まれ、高い農業の潜在力を有しているのだそうですが、長引いた紛争により国土は荒れ果て、現在は農産物を輸入するのみならず、人口の約1/4に相当する200から300万人もの人が食糧援助に依存しています。

世界で5歳未満で命を失う子どもの数は年間600万人以上。その約半数がアフリカに集中しているのですが、それを象徴する地域だといいます。

2014年、米国のワシントンD.C.に拠点を置くNGOの平和基金会が発表した「世界で最も脆弱な国家ランキング」で、南スーダンは首位となったそうです。

首都はジュバで、2014年12月より陸上自衛隊の施設部隊等が約350名程派遣され、国連施設内外で敷地造成等の国内避難民の支援活動や、道路整備等の活動を行っています。

宗教については、アニミズムの伝統宗教とキリスト教を信仰するアフリカ在来の諸民族が多数を占めます。

北部スーダンでイスラームを信仰するアラブ人が多数を占めているのとは対照的です。この信仰の違いは、南スーダンの独立運動が過激化した理由の一つでもあるようです。

南スーダンは周辺諸国と比較しても例外的にムスリムの人口比率が極めて低いのだそうです。

各民族は敵対関係にあるものも多く、特に東部のジョングレイ州では複数の民族が土地をめぐって武力衝突を起こしています。また、スーダンの内戦時に流出した武器が出まわっており、多数の死者、負傷者、難民が発生しているのだそうです。

外務省の出している海外安全ホームページでは、首都ジュバ市を除く南スーダン全土がレベル4(退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告))、首都ジュバ市がレベル3(渡航は止めてください。(渡航中止勧告)(既に滞在中の方は、不測の事態に備え、退避を含め危険回避を真剣に心がけてください。))となっており、治安悪化によりとても危険な状況です。

そんな状況下で、JICAやジャパンプラットフォーム(JPF)等のNGO、そして自衛隊が連携しながら支援を行っています。

南スーダンの紛争の歴史は、1899年英国とエジプトによる北部及び南部スーダンの共同統治の開始まで遡ります。

19世紀末におけるイギリス(大英帝国)によるアフリカ分割は1882年のエジプト占領から始まり、ついでその後背地を押さえるため、内陸部(=スーダン)にも介入するという形で進みました。

1955年には南部スーダンの自治や独立を求め,第一次スーダン内戦が勃発します。

1956年には南部を含むスーダンが英国から独立するのですが、南部の分離独立を求める運動が拡大していきます。1972年南部スーダンに南部政府を設置し,部分的自治権を付与した「アディスアベバ和平合意」が締結された9年後、1983年アディスアベバ和平合意が反故にされ,第二次スーダン内戦勃発、2005年の南北包括和平合意(CPA)の締結まで,アフリカで最長の内戦となりました。

1974年にアメリカ合衆国に本社を置く国際石油資本のシェブロンがスーダンで油田を発見し、その多くが南部に分布していたのも第二次スーダン内戦の一因だったと言われています。

この内戦では約二百五十万人の南部住人が殺され、数百万人が居住地を追われました。中でも突然の襲撃で村から逃げ出した、約二万人の子どもたちが、ケニアやエチオピアの難民キャンプまでサバイバルの旅をしたのだそうです。

2005年南北包括和平合意(CPA)署名により停戦、国連の南スーダン・ミッション(UNMIS)が設立され、2011年1月の南部独立の住民投票を経て2011年7月南スーダン共和国として独立します。

長年の内戦も終結し、南スーダン共和国として独立したのもつかの間、2013年12月,首都ジュバにおいて,大統領警護隊同士の衝突を契機とし,与党スーダン人民解放運動(SPLM)内の派閥抗争(キール大統領派対マシャール前副大統領派)が激化します。

その後各地で民族間の紛争、政府内の権力闘争が国内情勢を混乱させ,多くの難民が発生し、最悪の人権危機と言われました。

その後、当事者間の対話を通じた問題解決を目指し,IGAD仲介による和平協議が実施され,2015年8月,政府間開発機構(IGAD)及び関係諸国等による調停の下で「南スーダンにおける衝突の解決に関する合意文書」が,関係当事者によって署名されました。

合意の履行が進展しているようなのですが、治安状況はまだまだ良くなっていないのだといいます。

南スーダンの独立運動からその後の混乱は、直接は宗教、民族間の対立が発端だったのでしょうが、その裏にはかつて南部の黒人達がアラブ系やダルフール(スーダン西部の地域)及びバハル・アル・ガザール(南スーダン北西部)などの奴隷商人によって奴隷売買されていたこと、イギリス帝国の植民地支配、そして国際石油資本のシェブロンによる油田の発見等々が折り重なっているのでしょう。

油田の発見したシェブロンの技師たちは、自分達の行為がアフリカで最長の内戦の一因になるとは思ってもいなかったのだと思います。むしろ、最貧国の人々の経済状況を改善できると思っていたのかも知れません。

それは、日本にとっても他人事ではなく、チリのアジェンデ政権の崩壊の折には日本の商社の活動も影響を与えていたのだとも言われています。

人々を助ける、それはとても難しいことです。

カンボジア内戦の折、タイのカンボジア難民が暮らすキャンプでは、ポル・ポト派の兵士が休息に来て、また戦闘に出て行くこともあったようです。難民キャンプで支援していたNGOの人の中には、「私は、この紛争を長引かせているだけではないか。」と思い悩む人も居たようです。

でも、休息に来ていたポル・ポト派の兵士の中には、今、カンボジアの発展に貢献している人も居るのだと思います。

「何百万人が飢えているアフリカでは、武器は手に入るが食料が手に入らないのです。この地域こそ本当の援助を必要としているのに、何百万ドルもの資金が武器の購入に消費されている。これは悲しむべきことだ。」

ダライ・ラマ14世の言葉だそうです。

シリアの人々の状況は、南スーダンやその他のアフリカの紛争国程ではないのかも知れませんが、南スーダン同様、人権危機が叫ばれているのは確かです。

紛争が終結し、武器の購入に消費されている資金の一部でも人々に行き渡れば、シリア難民の状況は良くなって行く、そう思いたいのです。

パルミラの遺跡に見られるように、シリアは太古の昔から豊かな国だったのですから。

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