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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その53 ポルトガル

2016-07-17 22:00:04 | 日記

ポルトガルは、91,985平方キロメートル(日本の約4分の1)、人口約1,037万人(2014年)、ユーラシア大陸最西端の国で、お隣はスペインです。

15世紀にはエンリケ航海王子、ヴァスコ・ダ・ガマ等の活躍により大航海時代の先駆者となりました。

首都のリスボンは人口57万人弱、イベリア半島最長の川テージョ川の河口に広がる都市で、石畳の道路や行き交う路面電車など、素朴で趣ある街並みが美しい都市です。

海上交易の拠点として、紀元前3世紀にはローマ帝国、8世紀以降はイスラム、ムーア人が町を支配してきました。迷路のような街並みや、絵タイル・アズレージョに彩られた建物などに、今でもイスラムの影響を見ることができるのだそうです。

1255年にポルトガルの首都となり、15~17世紀にかけての大航海時代にもっとも栄えました。

ジェロニモス修道院は16世紀のポルトガルの栄光を今に伝える白亜の大寺院です。マニュエル1世(1469~1521年)が、ヴァスコ・ダ・ガマの海外遠征で得た巨万の富を費して建てたものです。16世紀初頭の着工から300年以上の期間をかけて19世紀に完成し、その完成度の高さからポルトガル建築の最高峰と讃えられているそうです。

ポルトガルの民族歌謡「ファド」の発祥の地としても知られ、レストランなどでもその独特な歌声を気軽に聞くことができます。

余談ですが、約30キロ弱西方の郊外にあるカスカイスという駅が、ユーラシア大陸最西端の駅なのだそうです。ユーラシア大陸最西端であるロカ岬に向かうバスもここから出ています。また、カスカイス市域内には国際的なリゾート地で、カジノもあるエストリルがあります。

ポルトガルはリスボン以外にも観光資源が豊富で、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が12件、自然遺産が1件存在しています。

その一つ、ポルト歴史地区も栄光の時代の名残です。ポルトはポルトガル第2の都市で、聖グレゴリウス聖堂、大聖堂、ポルサ宮、聖フランシスコ聖堂などがあります。

ポルト(ポート)ワインはこの地名産の甘口ワインです。アルコール度数は20度前後と通常のワインの10〜15度に対し5〜10度程も高く、保存性が非常に優れているのだそうです。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類されます。

11世紀のレコンキスタ(国土回復運動)以降、この国はポルトを起点に南へと国土を広げていきました。

ポルトガルと日本の関係は戦国時代にまでさかのぼります。

日本史が余り得意でなかった人も、鉄砲伝来とフランシスコ・ザビエルによるキリスト教布教については覚えているでしょうし、今、日本史を習っている人は戦国時代から安土桃山時代及び江戸時代初期の重要事項ですから覚えておきましょう。

1543年、種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)したことが日本へのポルトガル人の最初の上陸でした。

1549年にはフランシスコ・ザビエルが日本を訪れキリスト教布教活動を行い、その後、織田信長らの庇護のもと両国間で南蛮貿易が開始されます。

1557年にマカオの居留権を獲得したポルトガルは同地と九州を拠点としながら貿易を展開して行きました。ポルトガルからは多くの製品、文化が日本に伝えられた一方、日本からは銀などがポルトガルへ輸出されました。

同時に、九州を中心として宣教師によるキリスト教布教も行われ、キリシタン大名なども誕生し、1582年には天正遣欧少年使節の派遣なども行われました。

1587年に豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡されます。江戸時代に入っても徳川家康によってこの政策は続き、1614年にはキリスト教禁止令が出されます。家康の晩年には、ポルトガル人の寄港地は平戸と長崎に制限されました。

1620年(元和6年)には平山常陳が船長をつとめる朱印船が、当時入国を禁じられていた2名のキリスト教宣教師を乗せてマニラから日本に向かっていたところを、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕されたという平山常陳事件が起きます。

これが徳川幕府のキリシタンに対する不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金となりました。

1636年には、貿易に関係のないポルトガル人およびその家族がマカオへ追放され、ポルトガル人は長崎の出島に隔離されます。

1637年に島原の乱が起こると、キリスト教徒の結束を恐れた幕府は布教を行う可能性のあるポルトガルとの貿易を取り止めました。

因みに、桶狭間の戦いが1560年、長篠の戦いが1575年、本能寺の変が1582年、豊臣秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たしたのが1590年、関ヶ原の戦いが1600年、徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのが1603年です。

徳川家康は朱印状を発行し、東南アジア諸国と朱印船貿易を行いました。東南アジア各地に日本人町ができたのもこの頃です。

詳しくは、日本史の教科書や参考書を読んでください。

2016年夏季オリンピックの開催地はブラジルのリオデジャネイロです。

ポルトガルはその昔ブラジルでした。

ブラジルがポルトガル領だったということではないのか、と思われる方もいらっしゃるかも知れませんが、1808年から1821年までリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都でした。ですから、この時代はブラジルがポルトガルだったのです。

この地の歴史は古くに遡ります。

地中海に面する地域は古くから東方との交易が盛んで、フェニキア人とギリシア人の植民市が建設されました。フェニキア人が北アフリカに建設したカルタゴが西地中海で有力となり、前6世紀中ごろその勢力がイベリア半島のギリシア系都市を制圧しました。

カルタゴが滅びた後は、ローマ帝国がこの地を支配するのですが、その後、ゲルマン人、バルト海南東海域に住んでいたスエヴィ人、現在のフランス南部からイベリア半島に進出しつつあった西ゴート王国の西ゴート人が覇権を争います。西ゴート王国は585年にイベリア半島を統一するのですが、711年にウマイヤ朝のイスラム遠征軍によって国王ロデリックが戦死し、西ゴート王国は滅亡してイベリア半島はイスラム支配下のアル=アンダルスに再編されました。

アル=アンダルスには後ウマイヤ朝が建国され、西方イスラム文化の中心として栄えたのです。

キリスト教勢力のペラーヨがアストゥリアス王国を建国し、722年のコバドンガの戦いの勝利によってイベリア半島でレコンキスタが始まりました。

1143年にはカスティーリャ王国を宗主国としてポルトガル王国が成立しました。因みにカスティーリャ王国はキリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった国です。

ポルトガルにおけるレコンキスタはスペインよりも早期に完了しました。

1149年には十字軍の助けを得てリスボンを解放し、1249年には最後のムスリム拠点となっていたシルヴェスとファロが解放されレコンキスタが完了しました。1255年には首都が中央部のコインブラからリスボンに遷都されています。

1297年にはカスティーリャ王国(スペイン)との国境を定めるためにアルカニーゼス条約が結ばれ、この時に定められた両国の境界線は現在までヨーロッパ最古の国境線となっています。

レコンキスタ完了後は、ペストの流行や1337年から1453年にフランスとイギリスとの間でおきた百年戦争に連動し親カスティーリャ派と反カスティーリャ派の対立との戦争が続く中、1385年にアヴィス朝が成立し、ポルトガルはカスティーリャから独立しました。

ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立したアヴィス朝は海外進出を積極的に進め、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略しました。この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年~1460年)を中心として海外進出が本格化し、1500年にインドを目指したペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」、ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化が進みます。

1543年には種子島へポルトガル商人が漂着(鉄砲伝来)します。

その後王朝が変わったり、スペインに併合されたりするのですが、

1789年のフランス革命によってフランス革命戦争・ナポレオン戦争が勃発すると、国内が親英派と親仏派の対立で揺れる中で、1807年11月にフランスのジュノー将軍がリスボンに侵攻し、王室はブラジルに逃れます。

ポルトガル本国はスペイン独立戦争に突入し、介入したイギリス軍の占領を蒙る一方で、以後1808年から1821年まで南米のリオデジャネイロがポルトガルの正式な首都となり、1815年にはブラジルが王国に昇格し、ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国が成立した。フランスは1811年にポルトガルから撤退しましたが、王室はブラジルから帰還する気配を見せませんでした。

ナポレオン戦争終結後も王室は遷都先のブラジルに留まり続け、ポルトガル本土ではイギリス軍による軍政が続きましたが、イギリス軍への不満を背景にした民衆蜂起により1820年にポルトで自由主義革命が勃発し、10月にイギリス軍は放逐されました。翌1821年に憲法が制定され、ジョアン6世がポルトガルに復帰し、立憲君主制に移行しました。

ジョアン6世が帰国すると、ブラジル人の国民主義者達による独立運動が盛んとなり、ブラジル独立戦の末に1822年にジョゼー・ボニファシオらを中心とするブラジル人ブルジョワジー達がポルトガル王太子ドン・ペドロを擁立し、ブラジル帝国が独立します。ブラジルの独立によってポルトガルは最大の植民地を喪失しました。

ポルトガルはその後内戦や、王党派と共和主義者の対立で混乱が続いた後、1910年10月には革命が成功し、ポルトガルは共和政に移行しました。

革命後、幾度かのクーデターと内閣崩壊を繰り返し政治的な混乱が続きます。

1926年5月28日クーデターにより、マヌエル・ゴメス・ダ・コスタ将軍、ジョゼ・メンデス・カベサダス将軍を首班とする軍事政権が成立し、第一共和政の崩壊とともに革命以来の政治不安には終止符が打たれました。

軍事政権は第二次世界大戦でも親連合国的な中立政策で乗り切りました。

しかし、第二次世界大戦後に世界が脱植民地化時代に突入していく中、1961年アンゴラ独立戦争、1963年ギニアビサウ独立戦争、1964年モザンビーク独立戦争が始まり、ポルトガルは疲弊していきます。

1974年4月25日ヨーロッパで最も長い独裁体制に対する革命が起き、軍事政権は終わると共に、マカオ以外の植民地の独立を認めます。

この革命はカーネーションがシンボルとなったのでカーネーション革命と呼ばれており、

別名は「リスボンの春」です。

革命後、1986年のEC(現在のEU)加盟へ参加しますが、経済は復興せず、ポルトガル人の中には、母国の経済的苦境から逃れるためにモザンビークなど旧植民地に移民する動きがあるのだと言います。

チュニジアから始まった民主化運動「アラブの春」は、ポルトガルの「リスボンの春」に範を取ったのだとも言われています。

リスボンの春も、アラブの春も、人々が今より居心地の良い場所を作ろうとして起こした革命でした。

でも、ポルトガルでもチュニジアでも経済状態は良くなっておらず、移民する動きが出ているのだと思います。

「ここには働き口が無いから。」「ここでは良い生活が出来ないから。」そんな理由で外国に移り住むのでしょう。日本もブラジル移民を出した国ですし、不況の折には海外で就職する若者も居ましたので、人ごとではありません。

東南アジアの田舎では、海外に出稼ぎに行く人も居るのですが、移民する人は余り聞きません。

出稼ぎに行った人も、お金を稼いで田舎に帰って来ます。「お金は稼げないけれど、ここが一番暮らしていて楽。」なのだそうです。自分の生まれ育った村や町が一番居心地の良い場所なのでしょう。

店の奥でおばさんとネコが昼寝をしている雑貨店、その店先で男達が昼間からビールを飲んでいます。私に向かって「一緒に飲もうぜ。」と誘い、「金が無くなったら、また出稼ぎに行くんだ。でも、金が出来たらすぐ帰って来るさ。ところで、俺の家で晩飯でも食わないか。」と話を続けます。

争いの無い、平和で穏やかな村だからだと思うのです。

難民・移民を出している村や町でも争いが終わり、平和で穏やかな場所になれば、居心地の良い場所になるのかも知れません。

そうすれば、「金が出来たらすぐ帰って来るさ。」という場所になり、村や町でお金が稼げれば、出稼ぎに行くこともないのでしょう。

夕食時には一家そろって食事をし、妻は客人が居るのもお構いなしに子供たちの出来の悪さを子供と夫に向かって嘆き、子供たちは、母親の嘆きを聞き流し笑ってごまかし、夫は、妻の嘆きをうわの上の空で聞いていて「まったくだ。」などと適当な相槌を打ちながらも、客人に向かって少し困ったような顔をする。

シリアの村や町がそんな素敵な場所になったら、シリア難民の子供たちにも笑顔が戻るのかも知れません。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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